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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十章

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第4話

私は扉を叩いた。


「……エリナです。お時間をいただけますか」


中で、低く父の声が返る。


「入れ」


扉を開けると、父の机の前には兄もいた。


書類を手にしたままこちらを見て、わずかに眉を上げる。


「何だ。お前も父上に用か」


兄が薄く笑う。


「ちょうどいい。俺も聞いておこう」


私は扉を閉め、二人の前へ進んだ。


父は椅子に腰掛けたまま、机の上で手を組んでいる。

兄はその脇に立ち、私を見下ろしていた。


「……乾燥部門の件で、お話があります」


父が短く頷く。


「話せ」


私は指先をきつく握りしめ、それからまっすぐ顔を上げた。


「今後、乾燥部門の利益を、全額家に入れることはしないようにします」


一瞬、部屋の空気が止まった。


兄が先に口を開く。


「……は?」


父は沈黙してから、ゆっくり口を開いた。


「どういう意味だ」


「乾燥果実の売上は、これまで家へ回すつもりでおりました。ですが、それでは事業と家計の区別が曖昧になります」


兄が鼻で笑う。


「曖昧も何も、家の事業だろう」


「違います」


「は? 違うわけがないだろう。何を言っている」


「領地の産物を使っておりますし、家の名の下で動いている以上、無関係だとは申しません。ですが、この事業を立ち上げ、売り先を探し、責任を負ってきたのは私です」


「……家の借金がある中で、そう言うのか」


「はい」


兄が呆れたように息をつく。


「何を今さら綺麗事を。もともと返済のために始めたのだろう」


「始めた理由と、続ける形は別です。今後は、利益の一部を家へ入れます」


「一部だと」


「はい。残りは事業の資金として別に残します」


「勝手なことを」


私は兄を見据えた。


「ではもし、乾燥部門で一時的に費用がかさむ時、お兄様がすぐに補填してくださるのですか」


兄が言葉を詰まらせた。


父はすぐには口を開かなかった。

机の上で組んだ指先に、わずかに力が入る。


「……昨日までは言わなかったな」


胸の奥がひやりと冷える。

けれど、私は目を逸らさなかった。


「昨日、お父様とお話しして、考えさせられたからです」


兄が先に反応した。


「どういうことだ?」


目を剥くようにして、私を見る。


「父上と話しただけで、何を分かったつもりだ」


「では、お兄様は五年後まで含めて、返済の見通しをどう立てておられるのですか」


兄は口を開きかけて、言葉を止めた。


父は何も言わなかった。

兄を一度だけ見てから、私へ視線を戻す。


その目は、先ほどよりもわずかに鋭かった。


「これまで収支はお兄様にもお見せしておりましたが、今後は必要な分だけにいたします」


兄の目つきが変わった。


「……お前、何を勝手に決めている」


「乾燥部門は、私の名義です」


父の視線が鋭くなる。


「誰の許しを得て、そんな決め方をした」


私は一度目を伏せた。


怖いはずなのに、心はとても静かだった。


視線を上げる。


「許しを乞うためではなく、今後の形をお伝えするために参りました」


兄の顔がかっと赤くなる。


「ふざけるな!」


机を叩くように一歩踏み出しかけた兄を、父の低い声が止めた。


「下がれ」


兄はぴたりと動きを止める。


「……しかし父上」


「下がれと言った」


兄は歯を食いしばったまま、渋々一歩引いた。


部屋の空気がひりつく。


父は椅子に座ったまま、私を見た。


「……失敗した時、誰が責任を負う」


「私です」


「潰れた時もか」


「……はい」


沈黙が落ちた。


父は机の上で組んだ手をほどく。


「確かに、何もかも家計と一つにしてよいとも思わん」


兄の顔が強張る。


「必要経費も、次の仕入れも、売り先を広げるための金も必要だろう」


「……では」


「利益の全額は入れなくていい。必要分を除いたうえで、家に入れる分を決める」


兄が信じられないものを見るような顔で父を見る。


「父上、本気ですか」


兄の声が、わずかに荒くなった。


「未婚の令嬢が、家とは別に資産を持つなど聞いたことがありません。そんな前例を作るおつもりですか」


父は兄を見もしなかった。


「本気だ。今までのやり方が曖昧だったから、こうなった」


その一言に、兄が息を呑む。


父はそこで初めて、兄へ視線を向けた。


「お前もだ。見通しも立てずに、入る金をあてにするな」


「……っ」


父は再び私を見る。


「エリナ」


「はい」


「勘違いするな。これは好きにしてよいという許しではない」


「……はい」


「事業として立てると言うなら、三日以内に収支見通しを出せ。必要経費、今後見込む費用、家へ入れられる額――分けて持ってこい」


「はい」


「それから、今後この件は私に直接話せ。兄を通すな」


私は目を見開いたまま、父を見る。


「……承知いたしました」


「下がれ」


私は深く一礼した。


扉へ向かう途中、兄の視線が背に刺さる。

けれど、もう振り返らなかった。



部屋に戻った途端、張りつめていた力が一気に抜けた。


膝ががくがくと震える。

どうにか椅子までたどり着き、そのまま机に突っ伏した。


「……言えた……」


かすれた声が、誰もいない部屋に落ちる。


私が。

お兄様に、お父様に、あんなふうに言い返すなんて。


震える指で、机の上に広げたノートへ触れる。


何度も計算し、書き直した。

乾燥部門の収支、必要経費、残せる利益――。


その端に、昨日書き足した一文があった。


――利益を全額入れるな。


言われた言葉がよぎる。


あれがあったから。

今日、私はあの場で口にできた。


震える指先で、ノートをなぞる。


昨日、収支表に目を通したアーネストが、何気なく言った言葉が蘇る。


――自力で、持参金も用意できる。


そこに並ぶ数字を追って、

また涙が溢れた。


乾燥果実の利益を積み上げて。

必要経費を引いて。

家へ入れる分を除いて。


それでも少しずつ貯めていけば――。


金貨三百に届くまで、十数年。


――あの人には、届かない。


出した答えが、胸の奥に重く沈んだ。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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次回から平日投稿になります。

よろしくお願いします。


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― 新着の感想 ―
父親は甘かったりずるかったりはするけれど、まだ良心の呵責がありましたか。兄の方には無さそうですけどw とても面白く読めています。幸せになって欲しい。
お父さん、良心はあったのですね… 流石に娘に疑問を投げかけられて思うところがあったようで、ホッとしました。エリナの意思表示の背後にアーネストがいることを察しての譲歩かもしれませんが。 こうしてみると、…
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