第4話
私は扉を叩いた。
「……エリナです。お時間をいただけますか」
中で、低く父の声が返る。
「入れ」
扉を開けると、父の机の前には兄もいた。
書類を手にしたままこちらを見て、わずかに眉を上げる。
「何だ。お前も父上に用か」
兄が薄く笑う。
「ちょうどいい。俺も聞いておこう」
私は扉を閉め、二人の前へ進んだ。
父は椅子に腰掛けたまま、机の上で手を組んでいる。
兄はその脇に立ち、私を見下ろしていた。
「……乾燥部門の件で、お話があります」
父が短く頷く。
「話せ」
私は指先をきつく握りしめ、それからまっすぐ顔を上げた。
「今後、乾燥部門の利益を、全額家に入れることはしないようにします」
一瞬、部屋の空気が止まった。
兄が先に口を開く。
「……は?」
父は沈黙してから、ゆっくり口を開いた。
「どういう意味だ」
「乾燥果実の売上は、これまで家へ回すつもりでおりました。ですが、それでは事業と家計の区別が曖昧になります」
兄が鼻で笑う。
「曖昧も何も、家の事業だろう」
「違います」
「は? 違うわけがないだろう。何を言っている」
「領地の産物を使っておりますし、家の名の下で動いている以上、無関係だとは申しません。ですが、この事業を立ち上げ、売り先を探し、責任を負ってきたのは私です」
「……家の借金がある中で、そう言うのか」
「はい」
兄が呆れたように息をつく。
「何を今さら綺麗事を。もともと返済のために始めたのだろう」
「始めた理由と、続ける形は別です。今後は、利益の一部を家へ入れます」
「一部だと」
「はい。残りは事業の資金として別に残します」
「勝手なことを」
私は兄を見据えた。
「ではもし、乾燥部門で一時的に費用がかさむ時、お兄様がすぐに補填してくださるのですか」
兄が言葉を詰まらせた。
父はすぐには口を開かなかった。
机の上で組んだ指先に、わずかに力が入る。
「……昨日までは言わなかったな」
胸の奥がひやりと冷える。
けれど、私は目を逸らさなかった。
「昨日、お父様とお話しして、考えさせられたからです」
兄が先に反応した。
「どういうことだ?」
目を剥くようにして、私を見る。
「父上と話しただけで、何を分かったつもりだ」
「では、お兄様は五年後まで含めて、返済の見通しをどう立てておられるのですか」
兄は口を開きかけて、言葉を止めた。
父は何も言わなかった。
兄を一度だけ見てから、私へ視線を戻す。
その目は、先ほどよりもわずかに鋭かった。
「これまで収支はお兄様にもお見せしておりましたが、今後は必要な分だけにいたします」
兄の目つきが変わった。
「……お前、何を勝手に決めている」
「乾燥部門は、私の名義です」
父の視線が鋭くなる。
「誰の許しを得て、そんな決め方をした」
私は一度目を伏せた。
怖いはずなのに、心はとても静かだった。
視線を上げる。
「許しを乞うためではなく、今後の形をお伝えするために参りました」
兄の顔がかっと赤くなる。
「ふざけるな!」
机を叩くように一歩踏み出しかけた兄を、父の低い声が止めた。
「下がれ」
兄はぴたりと動きを止める。
「……しかし父上」
「下がれと言った」
兄は歯を食いしばったまま、渋々一歩引いた。
部屋の空気がひりつく。
父は椅子に座ったまま、私を見た。
「……失敗した時、誰が責任を負う」
「私です」
「潰れた時もか」
「……はい」
沈黙が落ちた。
父は机の上で組んだ手をほどく。
「確かに、何もかも家計と一つにしてよいとも思わん」
兄の顔が強張る。
「必要経費も、次の仕入れも、売り先を広げるための金も必要だろう」
「……では」
「利益の全額は入れなくていい。必要分を除いたうえで、家に入れる分を決める」
兄が信じられないものを見るような顔で父を見る。
「父上、本気ですか」
兄の声が、わずかに荒くなった。
「未婚の令嬢が、家とは別に資産を持つなど聞いたことがありません。そんな前例を作るおつもりですか」
父は兄を見もしなかった。
「本気だ。今までのやり方が曖昧だったから、こうなった」
その一言に、兄が息を呑む。
父はそこで初めて、兄へ視線を向けた。
「お前もだ。見通しも立てずに、入る金をあてにするな」
「……っ」
父は再び私を見る。
「エリナ」
「はい」
「勘違いするな。これは好きにしてよいという許しではない」
「……はい」
「事業として立てると言うなら、三日以内に収支見通しを出せ。必要経費、今後見込む費用、家へ入れられる額――分けて持ってこい」
「はい」
「それから、今後この件は私に直接話せ。兄を通すな」
私は目を見開いたまま、父を見る。
「……承知いたしました」
「下がれ」
私は深く一礼した。
扉へ向かう途中、兄の視線が背に刺さる。
けれど、もう振り返らなかった。
◆
部屋に戻った途端、張りつめていた力が一気に抜けた。
膝ががくがくと震える。
どうにか椅子までたどり着き、そのまま机に突っ伏した。
「……言えた……」
かすれた声が、誰もいない部屋に落ちる。
私が。
お兄様に、お父様に、あんなふうに言い返すなんて。
震える指で、机の上に広げたノートへ触れる。
何度も計算し、書き直した。
乾燥部門の収支、必要経費、残せる利益――。
その端に、昨日書き足した一文があった。
――利益を全額入れるな。
言われた言葉がよぎる。
あれがあったから。
今日、私はあの場で口にできた。
震える指先で、ノートをなぞる。
昨日、収支表に目を通したアーネストが、何気なく言った言葉が蘇る。
――自力で、持参金も用意できる。
そこに並ぶ数字を追って、
また涙が溢れた。
乾燥果実の利益を積み上げて。
必要経費を引いて。
家へ入れる分を除いて。
それでも少しずつ貯めていけば――。
金貨三百に届くまで、十数年。
――あの人には、届かない。
出した答えが、胸の奥に重く沈んだ。
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