第3話
私は翌日、そのまま眠ってしまっていた。
あれだけ泣いたのに、まだ心が重い。
胸の奥に、鈍い石でも沈んでいるようだった。
「動かなきゃ……」
家のことは、今は考えたくない。
それでも、止まってはいられない。
領民もいる。
雇っている者たちもいる。
グラーフ伯爵夫人やパン工房の夫人たちに繋いでもらって、ようやくここまで来たのだから。
「う……」
まだ起き上がるのにも力が入らなかった。
「……切り離せ、か」
できるわけがない。
兄もお父様も、そんなことを許すはずがない。
名義ですら、あの人の名を借りてやっとだったのに。
「……私は」
この家から、出ることはできるのだろうか。
その時、廊下の向こうがにわかに騒がしくなった。
誰かが慌ただしく走る足音や、低く何かを告げる声。
いつもより張った使用人の返事が聞こえる。
私は重い身体のまま、ゆっくりと顔を上げた。
何だろう。
来客……?
扉の外で、侍女の声が少し上ずる。
「お嬢様、お休みのところ申し訳ありません!」
「……何?」
掠れた声で返すと、扉越しに一呼吸置いてから、侍女が言った。
「グラーフ伯爵家のアーネスト様が、いらしておりまして……!」
「……え……?」
頭の中が真っ白になった。
「ど、どうして……」
侍女は困ったように声をひそめた。
「伯爵夫人様からのお言葉を預かっている、と。昨日のお礼と、贈答品の件で少し話があると……」
胸がどくりと鳴る。
昨日のお礼と、ジャムのこと。
どちらも、断れない理由だった。
「……お一人で?」
「はい。お供の方はお連れですが、ご本人がお見えです」
無意識に手を握りしめる。
――会いたい。
そう思った瞬間、自分で息を呑んだ。
昨日あんなふうに泣いたのに。
家のことまで、知られたのに。
それでも、あの人の顔を見たいと思うなんて。
「それと……アーネスト様が“急がせるつもりはない”と」
「えっ……」
「お支度が整うまで待つと、おっしゃっています」
「そんな……」
私に会うまで、待つつもりなの……?
なんで……。
私は深く息を吐いた。
「……湯を、お願い」
なるべく震えないように言う。
けれど侍女はぱっと声を明るくした。
「すぐにご用意いたします!」
◆
父も兄も不在だったのは、正直ほっとした。
今は一緒に話をできる気分ではなかった。
アーネストは一人で待っていた。
窓際の椅子に腰掛けていたのに、私が入るとすぐに立ち上がる。
「……急に押しかけて悪い」
「い、いえ……」
喉の奥がまだひりついていて、うまく息が続かない。
アーネストの視線が、一瞬私の顔で止まる。
思わず目を伏せた。
けれどアーネストは何も言わなかった。
わずかに眉を寄せただけで、視線を外す。
「……座ってくれ」
私は小さく頷き、向かいの椅子に腰を下ろした。
アーネストも腰を下ろしたが、すぐには口を開かなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、アーネストが机の上の包みを見やった。
「昨日の礼を、母上から預かってきた」
「えっ……そんな……こちらがお願いしているのに……」
アーネストはわずかに首を振る。
「母上が渡せと言った。それだけだ」
「……ありがとうございます」
「それと、ジャムの包装について話がある」
「……はい」
膝の上で手を握りしめていると、アーネストが低く言った。
「昨日のことで、妙な遠慮はするな」
「え……」
アーネストは真っ直ぐ私を見ていた。
「父上に何を言われても、お前がやってきたことまで変わるわけじゃない」
何か言わなければと思うのに、うまく声にならない。
アーネストは少しだけ目を細めた。
「……泣くなとは言わない」
その声は低いままだった。
「だが、それで手を止めるな」
胸の奥がまた熱くなって、一気にこみ上げた。
「……っ」
こらえようとしても駄目だった。
視界が滲み、膝の上に落とした手の甲へ、ぽたりと雫が落ちる。
アーネストはすぐには動かなかった。
ただ、私が次の涙をこぼした時、胸元からハンカチを取り出して机の上へ置く。
「使え」
私は息を呑んだ。
「……そういう意味で言ったんじゃない」
私は慌てて目元を押さえた。
「す、みません……」
「謝るな」
低い声が、今度は少しだけ柔らかかった。
「今は泣いてもいい。だが、あとでちゃんと話せ」
私は息を詰めたまま、小さく頷く。
アーネストは、それ以上急かさなかった。
ただ黙って、私が息を整えるのを待っていた。
「……先代伯爵様に言われたことは、その通りだと、思いました……」
ようやく絞り出した声は、まだ震えていた。
「家の借金と、私の商いは、分けて考えなければいけないって……本当に、その通りだと……」
そこで止めればよかったのに、言葉がこぼれてしまう。
「でも……家が、そうさせてくれなくて……」
言ってしまった瞬間、胸が痛くなった。
私は慌てて俯いた。
「すみません……こんな事を言って……」
「謝るな」
私は顔を上げられないまま、ハンカチを握りしめた。
「分けて考えろと言われて、すぐに切り分けられるなら苦労はない」
「っ……はい……」
「家がそうさせないなら、なおさらお前一人で抱える話じゃない」
「……でも……」
「頼る先がないのか」
私は答えられなかった。
アーネストは短く息を吐く。
「なら覚えておけ。茶会のことでも商いのことでも、家と混ざりそうになった時は一度こちらへ持ってこい」
思わず顔を上げる。
「母上でも私でもいい。少なくとも、一人で抱えるな」
「……グラーフ伯爵」
「勘違いするな。助けると言っているんじゃない」
アーネストは目を伏せた。
「混ぜるなと言う以上、線を引くための相手は要る。今のお前には、それがないだけだ」
また涙が溢れた。
「……ありがとう、ございます」
でも、これはさっきまでのものとは違っていた。
胸の奥でほどけていくものと、新しく締めつけてくるものがある。
――私は、気づいてしまったのだ。
この人の言葉に救われ、心が揺れてしまう理由に。
けれど同時に分かってしまった。
この立場も、この距離も、簡単には変わらないのだと。
だから私はただ、渡された言葉を抱きしめるしかなかった。




