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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十章

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第2話

グラーフ伯爵夫人の屋敷から帰った後、部屋へ戻るはずだった足を、そのまま父の執務室へ向けた。


扉の前で一度だけ息を整える。


泣いたあとの目元は熱かったが、もうそれを隠す気にはなれなかった。


扉を叩く。


「……入れ」


その声に従って中へ入り、私はまっすぐ父を見た。


「お父様、少しお話があります」


「……どうした」


「負債のことです」


その一言で、父の表情がわずかに止まる。


私は扉の前に立ったまま、まっすぐ父を見た。


「金貨三百を、あと五年でどう返すおつもりなのですか」


「それは……」


父の唇がわずかに動く。

けれど、言葉は出なかった。


「わたしは、全体の収支を見ました……豊作の年が続いたとしても、届きません」


「……だから、お前が乾燥物を始めてくれたのは助かっている」


その言葉に、背筋がひやりと冷えた。


「お父様は……」


喉の奥がかすかに震える。


「今は……私が返済を考えているから、もうご自身では考えなくていいと、そう思っていらっしゃるのですか……?」


「……そんな言い方をするな」


父の目が、わずかに揺れた。


「私は、お前に押しつけるつもりで言ったわけではない」


「では……どうするおつもりだったのですか」


父は何か言いかけて、口を閉ざした。


視線が、机の上へ落ちる。


沈黙が落ちた。


その沈黙こそが、何よりの答えだった。



部屋に戻ると、扉を閉めた途端、足から力が抜けた。


そのままベッドに座り込む。


胸が苦しい。


苦しいのに、何がこんなにつらいのか、うまく分からない。


「……どうして……」


掠れた声が、誰もいない部屋に落ちた。


乾燥小屋のこと。

負債のこと。

社交の場のこと。


頭の中には次々と浮かぶのに、そこに家族の顔はなかった。


誰も、同じようには背負っていない。

誰も、同じようには考えていない。


それなのに私は、ずっと、自分がやらなければと思っていた。


喉の奥がひくりと震える。


「……つらい」


言葉にした途端、堪えていたものが崩れた。


涙がぽろぽろと落ちる。


「っ……」


息がうまく吸えない。


肩を抱くようにして身を丸める。


「う……」


――返済のために始めたとしても、続けるなら別物として考えろ。


先代伯爵の声が、頭の奥で低く響く。


「どうやって……」


こんなにも頼られているのに。


震える声が、途切れ途切れにこぼれる。


「誰か……」


一人の顔が浮かんだ。

けれど、その名を呼ぶことはできなかった。



執務を終えて母の部屋へ顔を出すと、伯爵夫人は上機嫌で茶を飲んでいた。


「ちょうどよかったわ、アーネスト」


「何です」


「エリナ嬢がいらしていたの」


思わず視線が止まる。


「……そうですか」


「ええ。例のジャムを、贈答用の形に整えて持ってきてくれたのよ」


母はカップを置き、楽しそうに目を細める。


「あれはよかったわ。見せ方まで覚えたのね。端切れとレースを使って、きちんと贈り物の顔になっていたもの」


アーネストは黙って聞いていた。


母はその沈黙を面白がるように、ふっと笑う。


「それでね」


「……何です」


「あなたのお父様が来たの」


「父上が?」


「ええ」


母はあっさり頷く。


「そして、エリナ嬢を泣かせたわ」


アーネストはゆっくりと瞬きをした。


「……は?」


「だから言ったでしょう。泣かせたのよ」


「何をしたんです」


「何をした、ではないわね。何を聞いた、かしら」


母は肩をすくめる。


「林檎は領地のものか、どれくらい作っている、なぜ商いを始めたのか。そうして」


ほんの少し間を置く。


「借金か、と」


「……父上らしい」


「でしょう?」


「それで泣いたのか」


「でも、あの人なりに褒めてもいたのよ。“無駄がない”“考え方は悪くない”って」


「褒めたあとで泣かせたんですか」


「ええ」


アーネストは片手で額を押さえた。


「……父上は……余計なことを」


「余計なことかしら」


母はやわらかく首を傾げた。


「私は、必要なことだったとも思うけれど」


アーネストは顔を上げた。


母の目は、先ほどまでの面白がり方とは少し違っていた。


「エリナ嬢、自分が家を背負うのが当たり前だと思っていたわ。だから、あの人が“それは娘の役目ではない”と言ったの」


アーネストは目を伏せた。


しばらくしてから、低く口を開く。


「……それで」


喉の奥で一度言葉を転がしてから、問う。


「父上は、どう見たんです」


母はその質問を待っていたように笑った。


「悪くない、と。あなた、分かりやすいわね」


「母上」


「でも、困ったわ。せっかく面白くなってきたのに」


「何がだ」


「エリナ嬢、しばらくあなたを避けるかもしれないもの」


「……避ける?」


「だって男爵家で、借金があって、先代伯爵にあれだけ見抜かれたのよ」


アーネストはしばらく黙っていた。


「……父上は、余計なことをしてくれた」


「でも、あなたも知れたでしょう? 彼女がどれだけ一人で背負っていたか」


アーネストは答えなかった。


母はそんな彼を見て、ふっと笑う。


「どうするの?」


「……会います」


「ええ」


「避けられる前に」


伯爵夫人の笑みが、少しだけ深くなる。


「そうしなさい」


アーネストは一礼すると、そのまま踵を返した。


母の部屋を出たあと、廊下を歩きながら小さく息を吐く。


――泣いたのか。


足は止めなかった。


止めれば、余計なことを考えそうだった。

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― 新着の感想 ―
兄も父も近所に居そうなレベルの生狡さで嫌だw 娘の頑張りを認めるわけでも頭を下げて頼るわけでもなく娘の働きをあてにしてる。でも認めずに父親としての立場だけは守ろうとする。
駄目だこの父親! 借金こさえても、次女がしっかりしてるからいつかなんとかしてくれるだろう、で思考放棄してやがった! まさかの無計画! 多分、甘やかされた末っ子タイプだ(偏見)! いや領地持ちだから長男…
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