第2話
グラーフ伯爵夫人の屋敷から帰った後、部屋へ戻るはずだった足を、そのまま父の執務室へ向けた。
扉の前で一度だけ息を整える。
泣いたあとの目元は熱かったが、もうそれを隠す気にはなれなかった。
扉を叩く。
「……入れ」
その声に従って中へ入り、私はまっすぐ父を見た。
「お父様、少しお話があります」
「……どうした」
「負債のことです」
その一言で、父の表情がわずかに止まる。
私は扉の前に立ったまま、まっすぐ父を見た。
「金貨三百を、あと五年でどう返すおつもりなのですか」
「それは……」
父の唇がわずかに動く。
けれど、言葉は出なかった。
「わたしは、全体の収支を見ました……豊作の年が続いたとしても、届きません」
「……だから、お前が乾燥物を始めてくれたのは助かっている」
その言葉に、背筋がひやりと冷えた。
「お父様は……」
喉の奥がかすかに震える。
「今は……私が返済を考えているから、もうご自身では考えなくていいと、そう思っていらっしゃるのですか……?」
「……そんな言い方をするな」
父の目が、わずかに揺れた。
「私は、お前に押しつけるつもりで言ったわけではない」
「では……どうするおつもりだったのですか」
父は何か言いかけて、口を閉ざした。
視線が、机の上へ落ちる。
沈黙が落ちた。
その沈黙こそが、何よりの答えだった。
◆
部屋に戻ると、扉を閉めた途端、足から力が抜けた。
そのままベッドに座り込む。
胸が苦しい。
苦しいのに、何がこんなにつらいのか、うまく分からない。
「……どうして……」
掠れた声が、誰もいない部屋に落ちた。
乾燥小屋のこと。
負債のこと。
社交の場のこと。
頭の中には次々と浮かぶのに、そこに家族の顔はなかった。
誰も、同じようには背負っていない。
誰も、同じようには考えていない。
それなのに私は、ずっと、自分がやらなければと思っていた。
喉の奥がひくりと震える。
「……つらい」
言葉にした途端、堪えていたものが崩れた。
涙がぽろぽろと落ちる。
「っ……」
息がうまく吸えない。
肩を抱くようにして身を丸める。
「う……」
――返済のために始めたとしても、続けるなら別物として考えろ。
先代伯爵の声が、頭の奥で低く響く。
「どうやって……」
こんなにも頼られているのに。
震える声が、途切れ途切れにこぼれる。
「誰か……」
一人の顔が浮かんだ。
けれど、その名を呼ぶことはできなかった。
◆
執務を終えて母の部屋へ顔を出すと、伯爵夫人は上機嫌で茶を飲んでいた。
「ちょうどよかったわ、アーネスト」
「何です」
「エリナ嬢がいらしていたの」
思わず視線が止まる。
「……そうですか」
「ええ。例のジャムを、贈答用の形に整えて持ってきてくれたのよ」
母はカップを置き、楽しそうに目を細める。
「あれはよかったわ。見せ方まで覚えたのね。端切れとレースを使って、きちんと贈り物の顔になっていたもの」
アーネストは黙って聞いていた。
母はその沈黙を面白がるように、ふっと笑う。
「それでね」
「……何です」
「あなたのお父様が来たの」
「父上が?」
「ええ」
母はあっさり頷く。
「そして、エリナ嬢を泣かせたわ」
アーネストはゆっくりと瞬きをした。
「……は?」
「だから言ったでしょう。泣かせたのよ」
「何をしたんです」
「何をした、ではないわね。何を聞いた、かしら」
母は肩をすくめる。
「林檎は領地のものか、どれくらい作っている、なぜ商いを始めたのか。そうして」
ほんの少し間を置く。
「借金か、と」
「……父上らしい」
「でしょう?」
「それで泣いたのか」
「でも、あの人なりに褒めてもいたのよ。“無駄がない”“考え方は悪くない”って」
「褒めたあとで泣かせたんですか」
「ええ」
アーネストは片手で額を押さえた。
「……父上は……余計なことを」
「余計なことかしら」
母はやわらかく首を傾げた。
「私は、必要なことだったとも思うけれど」
アーネストは顔を上げた。
母の目は、先ほどまでの面白がり方とは少し違っていた。
「エリナ嬢、自分が家を背負うのが当たり前だと思っていたわ。だから、あの人が“それは娘の役目ではない”と言ったの」
アーネストは目を伏せた。
しばらくしてから、低く口を開く。
「……それで」
喉の奥で一度言葉を転がしてから、問う。
「父上は、どう見たんです」
母はその質問を待っていたように笑った。
「悪くない、と。あなた、分かりやすいわね」
「母上」
「でも、困ったわ。せっかく面白くなってきたのに」
「何がだ」
「エリナ嬢、しばらくあなたを避けるかもしれないもの」
「……避ける?」
「だって男爵家で、借金があって、先代伯爵にあれだけ見抜かれたのよ」
アーネストはしばらく黙っていた。
「……父上は、余計なことをしてくれた」
「でも、あなたも知れたでしょう? 彼女がどれだけ一人で背負っていたか」
アーネストは答えなかった。
母はそんな彼を見て、ふっと笑う。
「どうするの?」
「……会います」
「ええ」
「避けられる前に」
伯爵夫人の笑みが、少しだけ深くなる。
「そうしなさい」
アーネストは一礼すると、そのまま踵を返した。
母の部屋を出たあと、廊下を歩きながら小さく息を吐く。
――泣いたのか。
足は止めなかった。
止めれば、余計なことを考えそうだった。




