第1話
「エリナ・フォン・リュークハルトと申します」
緊張で指先がわずかに強張るのを感じながら、私は裾をつまんで一礼した。
ふと、先代伯爵の目元がアーネストに少し似ている気がした。
グラーフ家の先代伯爵はそれには何も言わず、机の上の瓶へ視線を落とす。
「それが干し林檎か」
「そうよ。その子が作ったの」
グラーフ伯爵夫人が楽しげに口を挟んだ。
「正確にはジャムですけれど。干し林檎も茶会で評判だったのよ」
先代伯爵は瓶を手に取り、軽く回した。
「林檎は領地のものか」
「はい……あ、いえ……他領からも取り寄せています」
先代伯爵の眉がわずかに動く。
「わざわざ取り寄せたのか」
「領地の規格外の林檎だけでは足りなくて……」
「……捨てるはずのものを回しているわけだな」
「はい。規格の林檎を干してしまうと、市場に出せる分まで減ってしまいますし……その、もったいないので……」
そこまで口にして、私は小さく息を詰めた。
喋りすぎたかもしれない。
けれど、先代伯爵は瓶を手にしたまま、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「無駄がないな」
私は思わず顔を上げた。
先代伯爵は瓶の口にかけた布を指先で軽く弾く。
「見せ方も悪くない。余計な金はかけていないのに、安っぽく見えん」
「あ……ありがとうございます」
伯爵夫人がくすりと笑った。
「珍しいことを言うのね」
「事実だ」
そして、もう一度瓶へ視線を落とした。
「考え方は悪くない」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
けれど、次の一言で、その熱はひやりと冷えた。
「だが、そこまで手を入れるには理由があるはずだ」
先代伯爵は瓶を机に戻す。
「男爵家の娘がそこまでして商いを回す理由は、たいてい一つだ」
胸がぎゅっと締めつけられた。
その視線が、まっすぐこちらへ向く。
「借金か」
その一言に、さっと血の気が引いた。
違う言い方を探そうとした。
けれど、目が合った瞬間、逃がしてもらえない気がした。
「……はい」
沈黙が落ちる。
先代伯爵は私を見たまま、低く言う。
「家を傾けるほどか」
視線が下がっていく。
「……金貨三百です」
「男爵家なら重い額だな」
一拍おいて、続ける。
「……父は何をしている」
「父は……領地を見ております。でも、返済について具体的にどうしているのかまでは、私は……」
先代伯爵は小さく息を吐いた。
「……そうか。借金の額だけ娘に知らせて、返す段取りは話していないのか」
「そ、それは……っ。私が……尋ねませんでしたので……」
「違うな」
「え……」
「尋ねなかったのではない。尋ねられないようにされていたんだ」
「……」
「金の話は重い。家を支える娘ほど、自分がどうにかしなければと先に思う」
先代伯爵は淡々と言う。
「だが、本来それを背負う順番は違う」
伯爵夫人が口を挟んだ。
「あなた、少し言いすぎではなくて?」
「見えていることを言っているだけだ」
その視線が、もう一度まっすぐ私へ向く。
「娘に返済だけ意識させて、家としての段取りを示さないのは、まともなやり方ではない」
私は何も言えなかった。
借金について、父が具体的にどうしているのか。
私は、知らない。
「……もっとも」
先代伯爵の低い声が、ほんの少しだけ緩む。
「そういう家だからこそ、お前がここまで考えるようになったのだろうがな」
胸の奥が、ひどく揺れた。
私はぎゅっと指先を握りしめて顔を伏せた。
何か言わなければと思うのに、うまく息が吸えなかった。
「……っ」
声にならない息だけが、喉の奥で震えた。
伯爵夫人がすっと立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
「あなた、本当に遠慮がないわね」
私の傍に立ち、背中にそっと手を当てる。
「来て早々に質問攻めして、泣かせてしまうなんて」
「泣かせるつもりはない。聞いただけだ」
その言葉に、伯爵夫人は小さく肩をすくめた。
「ええ、あなたはいつもそう言うわね」
背に触れるやわらかな手に、張りつめていたものが切れた。
ぽろりと、涙がこぼれる。
「っ……すみません……私……」
「謝らなくていいのよ」
伯爵夫人の声はやわらかかった。
先代伯爵は椅子に腰を下ろしたまま、こちらを見ていた。
「……一つだけ言っておく」
私は顔を上げられないまま、肩をこわばらせた。
「借金を返すために働くのは勝手だ。だが、自分一人で家を立て直せると思うな。それは娘の役目ではない」
伯爵夫人が私の肩をそっと抱いた。
「この人、言い方が不器用なだけなの」
「余計なことを言うな」
「でも本当でしょう?」
先代伯爵は少し間を置いてから、低く言った。
「……商いは続けろ」
私はゆっくり顔を上げた。
先代伯爵は私ではなく、瓶の方を見たまま言う。
「考え方は悪くない。売り先も、今の絞り方でいい」
「……はい」
「ただし。家の借金と、お前の商いを一つにするな」
「……」
「返済のために始めたとしても、続けるなら別物として考えろ。混ぜれば、どちらも潰れる」
それは、伯爵夫人にも言われたことだった。
私は膝の上の手を握りしめたまま、小さく頷く。
「……はい」
「ほら。今日は十分よ」
背を撫でる手が、やさしく一度だけ上下した。
「これ以上は、この子が考えすぎてしまうわ」
先代伯爵は否定せず、しばらく黙っていた。
やがて低く言う。
「今日は帰れ」
私は目元を押さえたまま、かすかに息を整える。
「……はい」
伯爵夫人は机の上の瓶を見て、話を戻すように口を開いた。
「ジャムは次の茶会で使わせていただくわね」
「あ、ありがとうございます……」
先代伯爵が短く付け足す。
「数は絞れ。品切れを先に覚えさせろ」
伯爵夫人がくすりと笑った。
「ええ。言い方はぶっきらぼうだけれど、大事なことよ」
私は胸の奥に残る熱を抱えたまま、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
返事はすぐにはなかった。
けれど、その沈黙は先ほどまでとは少し違っていた。
私はもう一度小さく礼をして、静かに部屋を辞した。




