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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
十章

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第1話

「エリナ・フォン・リュークハルトと申します」


緊張で指先がわずかに強張るのを感じながら、私は裾をつまんで一礼した。


ふと、先代伯爵の目元がアーネストに少し似ている気がした。


グラーフ家の先代伯爵はそれには何も言わず、机の上の瓶へ視線を落とす。


「それが干し林檎か」


「そうよ。その子が作ったの」


グラーフ伯爵夫人が楽しげに口を挟んだ。


「正確にはジャムですけれど。干し林檎も茶会で評判だったのよ」


先代伯爵は瓶を手に取り、軽く回した。


「林檎は領地のものか」


「はい……あ、いえ……他領からも取り寄せています」


先代伯爵の眉がわずかに動く。


「わざわざ取り寄せたのか」


「領地の規格外の林檎だけでは足りなくて……」


「……捨てるはずのものを回しているわけだな」


「はい。規格の林檎を干してしまうと、市場に出せる分まで減ってしまいますし……その、もったいないので……」


そこまで口にして、私は小さく息を詰めた。


喋りすぎたかもしれない。


けれど、先代伯爵は瓶を手にしたまま、しばらく黙っていた。


やがて、低く言う。


「無駄がないな」


私は思わず顔を上げた。


先代伯爵は瓶の口にかけた布を指先で軽く弾く。


「見せ方も悪くない。余計な金はかけていないのに、安っぽく見えん」


「あ……ありがとうございます」


伯爵夫人がくすりと笑った。


「珍しいことを言うのね」


「事実だ」


そして、もう一度瓶へ視線を落とした。


「考え方は悪くない」


その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


けれど、次の一言で、その熱はひやりと冷えた。


「だが、そこまで手を入れるには理由があるはずだ」


先代伯爵は瓶を机に戻す。


「男爵家の娘がそこまでして商いを回す理由は、たいてい一つだ」


胸がぎゅっと締めつけられた。


その視線が、まっすぐこちらへ向く。


「借金か」


その一言に、さっと血の気が引いた。


違う言い方を探そうとした。

けれど、目が合った瞬間、逃がしてもらえない気がした。


「……はい」


沈黙が落ちる。


先代伯爵は私を見たまま、低く言う。


「家を傾けるほどか」


視線が下がっていく。


「……金貨三百です」


「男爵家なら重い額だな」


一拍おいて、続ける。


「……父は何をしている」


「父は……領地を見ております。でも、返済について具体的にどうしているのかまでは、私は……」


先代伯爵は小さく息を吐いた。


「……そうか。借金の額だけ娘に知らせて、返す段取りは話していないのか」


「そ、それは……っ。私が……尋ねませんでしたので……」


「違うな」


「え……」


「尋ねなかったのではない。尋ねられないようにされていたんだ」


「……」


「金の話は重い。家を支える娘ほど、自分がどうにかしなければと先に思う」


先代伯爵は淡々と言う。


「だが、本来それを背負う順番は違う」


伯爵夫人が口を挟んだ。


「あなた、少し言いすぎではなくて?」


「見えていることを言っているだけだ」


その視線が、もう一度まっすぐ私へ向く。


「娘に返済だけ意識させて、家としての段取りを示さないのは、まともなやり方ではない」


私は何も言えなかった。


借金について、父が具体的にどうしているのか。

私は、知らない。


「……もっとも」


先代伯爵の低い声が、ほんの少しだけ緩む。


「そういう家だからこそ、お前がここまで考えるようになったのだろうがな」


胸の奥が、ひどく揺れた。


私はぎゅっと指先を握りしめて顔を伏せた。

何か言わなければと思うのに、うまく息が吸えなかった。


「……っ」


声にならない息だけが、喉の奥で震えた。


伯爵夫人がすっと立ち上がり、こちらへ歩いてくる。


「あなた、本当に遠慮がないわね」


私の傍に立ち、背中にそっと手を当てる。


「来て早々に質問攻めして、泣かせてしまうなんて」


「泣かせるつもりはない。聞いただけだ」


その言葉に、伯爵夫人は小さく肩をすくめた。


「ええ、あなたはいつもそう言うわね」


背に触れるやわらかな手に、張りつめていたものが切れた。


ぽろりと、涙がこぼれる。


「っ……すみません……私……」


「謝らなくていいのよ」


伯爵夫人の声はやわらかかった。


先代伯爵は椅子に腰を下ろしたまま、こちらを見ていた。


「……一つだけ言っておく」


私は顔を上げられないまま、肩をこわばらせた。


「借金を返すために働くのは勝手だ。だが、自分一人で家を立て直せると思うな。それは娘の役目ではない」


伯爵夫人が私の肩をそっと抱いた。


「この人、言い方が不器用なだけなの」


「余計なことを言うな」


「でも本当でしょう?」


先代伯爵は少し間を置いてから、低く言った。


「……商いは続けろ」


私はゆっくり顔を上げた。


先代伯爵は私ではなく、瓶の方を見たまま言う。


「考え方は悪くない。売り先も、今の絞り方でいい」


「……はい」


「ただし。家の借金と、お前の商いを一つにするな」


「……」


「返済のために始めたとしても、続けるなら別物として考えろ。混ぜれば、どちらも潰れる」


それは、伯爵夫人にも言われたことだった。


私は膝の上の手を握りしめたまま、小さく頷く。


「……はい」


「ほら。今日は十分よ」


背を撫でる手が、やさしく一度だけ上下した。


「これ以上は、この子が考えすぎてしまうわ」


先代伯爵は否定せず、しばらく黙っていた。


やがて低く言う。


「今日は帰れ」


私は目元を押さえたまま、かすかに息を整える。


「……はい」


伯爵夫人は机の上の瓶を見て、話を戻すように口を開いた。


「ジャムは次の茶会で使わせていただくわね」


「あ、ありがとうございます……」


先代伯爵が短く付け足す。


「数は絞れ。品切れを先に覚えさせろ」


伯爵夫人がくすりと笑った。


「ええ。言い方はぶっきらぼうだけれど、大事なことよ」


私は胸の奥に残る熱を抱えたまま、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


返事はすぐにはなかった。


けれど、その沈黙は先ほどまでとは少し違っていた。


私はもう一度小さく礼をして、静かに部屋を辞した。

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― 新着の感想 ―
この父親にしてあの息子(アーネスト)ありと実感させられましたw よその家庭のことに、ここまでズバズバ言えるのはすごいが、きちんとエリナのためになっているのは流石 作者さんのキャラ立てが上手い! あと最…
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