第7話
早く帰るつもりだったのに。
夫人に手を引かれて、場に戻って――
変に期待してしまったから、こんなことになってしまったのか。
「急に賑やかなところへ連れてきてしまいましたね。
無理に話さなくて大丈夫ですよ」
伯爵が、こちらへ穏やかに声をかけた。
「は……はい……」
まだ熱の引かない頬を押さえるように、私は小さく頭を下げる。
「早々にお騒がせしてしまい、申し訳ございません。
それに、ドレスまで……」
「お気になさらず。
夜会では、よくあることですよ」
淡々とした言葉なのに、どこか柔らかい。
その一言で、胸の奥に入っていた力が、すっと抜けた。
「……ありがとうございます」
再び、男たちの会話が動き出す。
私はその輪の端に立ったまま、音だけを追っていた。
ちらり、と伯爵を見る。
資料で目にした横顔と、今の姿が重なる。
領地の収支報告には、必ず現場の数字が添えられていた。
災害時の備蓄量を削らず、
祝い事の出費は必要最低限に抑える――
そんな記録ばかりが並んでいた。
だからだろうか。
誰かを見下すような気配がない。
――うん。この方なら。
私はおずおずと、声を落とした。
「あの……実は私、
今日が夜会、初めてで……。
どう過ごせばいいのか、分からなくて……」
「ん?」
言った途端、少しだけ後悔する。
初心者の相手なんて、面倒に決まっているのに。
けれど――
「……それなら、なおさら簡単ですよ」
伯爵は一拍置いてから、声量を抑えた。
「今は、ここに立っていればいい。
話の内容が分からなくても、
相槌が打てなくても、問題ありません」
そう言って、ほんの少しだけ、
周囲を示すように視線を巡らせる。
「夜会というのは、
話す場というより――
見せる場ですから」
「み、見せる……?」
思わず、自分のドレスへ視線が落ちる。
さっきまでの私、
見せられる側では、なかったよね……。
そんな不安を見透かしたように、伯爵は言葉を重ねた。
「夫人が、あなたをここに連れてきた。
それだけで、もう役目は果たしていますよ」
にこり、と穏やかに微笑む。
「あとは、無理をしないことです。
それが一番――目立ちません」
……なるほど。
胸の奥に、静かに納得が落ちていった。
◆
少し離れたところで、令嬢たちの輪が弾んでいた。
「まぁ……こちらの夜会、とても素敵ですわね」
「ええ。お花の飾り方も、今年らしくて」
柔らかな声。
褒め言葉ばかりなのに、どこか張りつめている。
「そのドレス、初めて拝見しますわ」
「ありがとうございます。母が選んでくれましたの」
――母が。
その一言が、なぜか胸に引っかかった。
「最近は、どちらの夜会へ?」
「実は、まだあまり……」
「あら、そうですの。これから楽しみですね」
皆、微笑みは崩れない。
けれど、その瞬間、
相手の視線が足元から、すっと離れるのが見えた。
「あれ……」
会話は続いているのに、
いつの間にか、距離ができている。
は、測られている……。
私は無意識に、グラスを持ち替えた。
……入りづらいな。
ここに足を踏み入れたら、
家の事情を丸裸にされてしまいそう。
そう思って、視線をそっと逸らす。
反対側では、男女混合の輪が出来ていた。
「今日は、人が多いですわね」
「春先ですもの。顔合わせには、ちょうど良い時期ですから」
「確かに。冬は移動も大変ですし」
――あ。普通に会話している。
私は、そっと体の向きを変えて、聞き入った。
「最近は、お忙しい方が多いですわね」
「ええ。家の都合も重なって」
令嬢が首を傾げる。
「お住まいは、王都からは?」
男性が答える。
「私はここ数年ほどです。仕事の都合で」
その瞬間――
令嬢たちの目の色が、わずかに変わった気がした。
「そうでしたの」
「ご家族での夜会は、久しぶりですか」
「……」
なぜだろう。
会話は流れているのに、
その流れの中に、私が踏み込む余地がない。
私は、無意識にグラスを持ち替えた。
それぞれの会話の輪を眺めながら、
自分だけが、少し外側に立っている気がしていた。
◆
視線を戻すと、
先ほどの貴族子息たちが、低い声で話し続けている。
「今年も倉庫の件が上がってきましたな。
北区の穀物倉、また床板が腐っているとか」
「去年も修繕したはずだろう?
まったく、倉庫というのは金を食う」
「今年は応急処置でよろしいのでは。
来年は収穫も多い見込みですしな」
誰かがそう言うと、
数人が軽く笑って頷いた。
「穀物なら、商人倉庫に一時的に預ける手もありますぞ。
保管料はかかりますが、今すぐの出費は抑えられる」
「盗難?
多少の目減りは仕方あるまい。
腐らせるよりは、よほどマシだ」
その言葉に、
誰かが肩をすくめて杯を傾けた。
……確かに、そうだけど。
私は無意識に、指先を組んだ。
倉庫が使えなくなってから直すと、
その年の備蓄ごと失うのに……。
「とはいえ、建て替えなんて話になれば、
今すぐそんな金は出せませんしな」
「余裕があるなら、
最初から直しているでしょう?」
私は、小さく頷いた。
「……そうそう。
だから、積み立てが――」
言ってから、はっとする。
しまった。
声が、思ったより出ていた。
その場の空気が、わずかに止まる。
若手貴族が一人、ゆっくりとこちらを振り向く。
続いて、もう一人。
「……?」
視線が集まり、頬が熱くなる。
「……っ、す、すみません……」
声が、喉で止まった。




