第5話
カイルは瓶を手に取り、スプーンでひと匙すくった。
「……うまいですね」
もう一口食べて、頷く。
「甘さも重くないですし、パンにも合いそうです」
「本当ですか?」
「ええ。酒場でも出せそうですし、肉料理にも合うと思います」
私は少しだけ肩の力を抜いた。
「よかった……」
カイルは瓶を見ながら言った。
「しかし、こういうのを一人で考えたんですか?」
「いえ、アイデアをいただいて、みんなで作ったんです」
「なるほど」
カイルはもう一度、瓶を軽く揺らした。
私はその様子を見ながら、ふと考える。
――相手次第だ。
あの言葉が、また頭に浮かぶ。
私は少しだけ迷ってから口を開いた。
「あの……」
「何ですか?」
「カイルさんは……ご結婚は、されていないんですか?」
「ええ、まだです」
カイルは肩をすくめた。
「商人は落ち着くまで妻を持たない者も多いんですよ。
家を空けることもありますし、金の出入りも激しいですから」
「……そうなんですね」
私は瓶の中のジャムに視線を落とした。
少しだけ間を置く。
「男性は……」
言葉を探すように息を継ぐ。
「どんな相手なら、結婚したいと思うものなんでしょうか」
カイルは少し考えてから答えた。
「そうですね……家を任せられる相手でしょうか」
「任せる?」
「商人は家を空けることも多いですし、金の出入りも激しい。
商売の都合で動くこともあります」
瓶を指で軽く叩く。
「そういう暮らしを分かったうえで、家を預かってくれる相手でないと続きません。
逆に言えば、それができるなら十分です」
私は一瞬言葉を飲み込み、それからおずおずと尋ねた。
「……家柄は、気にしないんですか?」
「まったく気にしないわけではありません。商売は信用ですから。相手の家がきちんとしているかは見られます」
少し間を置いて、カイルは続けた。
「でも、それだけで決める人は長く続かないと思います」
私は顔を上げる。
カイルは平然と言った。
「家柄が良くても、家を回せない相手では意味がありません。逆に、家を回せるなら、多少のことは大した問題じゃないでしょう」
少しだけ笑う。
「商人は結局、実際に役に立つ方を選びますから」
私は膝の上の手をぎゅっと握った。
カイルはそれに気づいたのか、軽く首をかしげた。
「どうしました?」
「……何でもありません」
「そうですか」
瓶を机に戻す。
「まあ、エリナ様なら困らないでしょう」
「え?」
「家も回せますし、商売のことも考えられる。
それだけできれば、十分ですよ」
私は苦笑した。
……でも。
相手が貴族なら、どうなのだろう。
お父様は、貴族以外との結婚を許すのだろうか。
私は紅茶の湯気を、ぼんやりと見つめた。
◆
兄の部屋をノックした。
「なんだ」
「エリナです。乾燥部門の収支を見ていただけますか?」
「入れ」
兄の部屋に入ると、兄は机の向こうの椅子に座ったまま、こちらを見た。
「そこに置け」
私はそっと帳面を差し出す。
兄はそれを受け取ると、黙ったまま頁をめくった。
やがて、兄の手が止まる。
「……金貨二枚強になったか」
兄は顔を上げないまま、数字を指でなぞった。
「干し林檎がずいぶん伸びたのか」
「はい。小売店やパン工房で、思った以上に使っていただけて」
「林檎は、まだ始めて数か月だったな」
「はい。三棟目も動き始めたところです」
兄は一枚戻って、もう一度帳面を見た。
「売り先は、今も同じか」
「はい。王都の商会と、パン工房です」
「来月も、同じくらいは見込めるのか」
「品質と量が安定すれば、続けたいと言っていただいています」
少しだけ間が落ちた。
兄は帳面を閉じる。
「……なら、悪くない」
「そうですか……」
「だが、これで浮かれるな。
まだ始まったばかりだ」
「……はい」
兄は帳面を軽く指先で叩いた。
「結果が続くなら、話は変わる」
それだけ言って、視線を書類へ戻す。
私は帳面を抱え直し、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、お兄様」
返事はなかった。
一礼して、私は部屋を出た。
兄の部屋を出て廊下を歩いていると、曲がり角で姉と鉢合わせた。
「お姉様」
「エリナ、まだ仕事なの?」
「ええ……少しだけ」
短く答えてから、私は少し迷った。
「……お姉様、夜会で干し林檎、贈り物にして配ってくださったでしょう?」
「ええ」
「……反応、どうだった?」
姉は少しだけ考えてから言った。
「悪くなかったわよ」
「本当?」
「ええ。甘すぎないのがいいって言ってた人が多かったわ。どこで買えるのか聞いていた人もいたわね」
私は胸をなで下ろした。
「お姉様、ありがとう……」
「礼を言われるほどのことじゃないわ」
姉は肩をすくめる。
「評判が悪かったら、私だって困るもの」
私は少しだけ迷った。
けれど、今なら聞けるかもしれないと思い、恐る恐る口を開いた。
「あの……お姉様」
「なに?」
「結婚の時の持参金って……やっぱり、相手の家によってかなり違うの?」
姉は一瞬だけ目を瞬いた。
「急にどうしたの」
「その……この前、グラーフ伯爵夫人にも少し伺ったのだけれど、家ごとに違うっておっしゃっていて……」
私は少しだけ視線を落とした。
「たとえば、男爵家ならこのくらい、とか……子爵家、伯爵家なら……みたいな、目安があるのかなって思って……」
姉は少しだけ黙ってから、息をついた。
「目安はあるようで、ないわ」
「……ないの?」
「伯爵夫人のおっしゃる通りよ。相手の家格もあるし、こちらがどこまで整えられるかでも変わるし」
私は黙って姉を見る。
姉は少しだけ視線を逸らした。
「ただ……相手が上の家なら、楽な額で済むと思わない方がいいわね」
「どのくらい……?」
「そうね。男爵家同士なら、金貨三十枚から五十枚くらいで収まる話もあるでしょうけど」
そこで姉は一度言葉を切った。
「子爵家なら、その倍近く見られてもおかしくないわ。伯爵家ともなれば……金貨三百枚を超えても、珍しくはないもの」
「……三百枚……」
「もちろん現金だけじゃないわ。衣装や装身具、家具、馬車の支度まで含めて“それだけ整えられる家か”を見られるの」
「……そう」
「だから言ったでしょう。簡単な額じゃないのよ」
そう言い残して、姉は去っていった。
「……三百……」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
家の負債と、同じ額だ。
しかもそれが、特別高いわけでもない。
男爵家同士でさえ、三十枚だなんて……。
指先が、じわりと冷える。
――エリナ様なら困らないでしょう。
カイルの声が、ふいに胸の奥によみがえった。
本当に?
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。




