第3話
どうしてここに――
そう思ったが、言葉にはならなかった。
アーネストは室内を一瞥し、グラーフ伯爵夫人へ軽く頭を下げる。
「話の途中か」
「ええ」
伯爵夫人は穏やかに答えた。
「ちょうどいいところよ」
アーネストの視線がこちらに向く。
ほんの一瞬だけで、すぐに外れた。
「……続けてくれ」
私は思わず伯爵夫人の方を見る。
けれど伯爵夫人は、微笑んだまま、続きを促していた。
私は言い淀みながらも、言葉を選んで口を開いた。
「姉が、結婚したい相手がいるのですが……話も進んでいるようで……でも、こちらはまだ準備ができていなくて……」
目を伏せたまま、続きを探すように息を継ぐ。
伯爵夫人はすぐには口を挟まなかった。
一度、場の空気ごと見渡すように間を置いてから、静かに言う。
「つまり……ご縁はあるけれど、整えるものが足りない、ということね」
「……はい」
「そういう話は、珍しくないわ」
伯爵夫人はカップを持ち上げ、そのまま続けた。
「良いご縁ほど、家の事情とぶつかるものよ」
「そうなのですね……」
「けれど、慌てて整えればいいというものでもないわ」
「はい……」
「持参金も支度も、一度出して終わりではないもの。その後も家は続いていくでしょう?」
まさに、そこだった。
出せるかどうかだけではない。
出したあと、家がどうなるのか。
「……では、やはり」
言葉が細くなる。
「難しい、のでしょうか……」
伯爵夫人は答えなかった。
代わりに、低い声が落ちる。
「相手次第だ」
思わず顔を上げる。
アーネストは私を見てはいなかった。
卓に視線を落としたまま、淡々と言う。
「本当に望んでいるなら、持参金の額だけで決まる話でもない」
一拍置いて、さらに続ける。
「逆に、そこにこだわる相手なら、整えても別の理由を持ち出す」
胸の奥が、わずかに揺れた。
伯爵夫人が面白がるように目を細める。
「ずいぶん冷静な言い方をするのね」
「事実だ」
短い返答だった。
伯爵夫人は肩をすくめ、それから私に向き直る。
「でも、安心なさい」
「……え?」
「あなたが今すぐ、そのお金をどうにかしなければならない話ではないわ」
その言葉に、息が止まる。
伯爵夫人ははっきりと続けた。
「それを背負うのは、本来あなたではないの」
「……」
「あなたが気にしているのは分かるわ。でも」
視線が、卓上のジャムへ移る。
「あなたには、あなたが進めるべきことがあるでしょう?」
喉の奥が、わずかに詰まる。
「姉君の縁談と、あなたの仕事は、切り分けて考えた方がいいわね」
伯爵夫人はそう言って、ジャムの瓶を指先で軽く叩いた。
「ごちゃごちゃにすると、どちらも駄目になるわ」
「……はい」
その返事に、伯爵夫人は満足そうに微笑んだ。
「よろしい」
そして、ごく自然な調子で言う。
「では話を戻しましょうか。このジャム、次の茶会に出すなら、もう少し瓶の大きさを揃えたいわね」
「……はい」
「保存の具合も、しっかり揃えておきたいわ。味がよくても、当たり外れがあっては贈り物にはしにくいもの」
「はい。そこも詰めてみます」
そう返し、私は瓶へ視線を落とした。
話はそのまま、瓶の大きさや蓋の包み方へ移っていく。
けれど、胸の奥に引っかかったものは、まだ消えてはいなかった。
◆
話がひと段落したところで、私は静かに立ち上がった。
「本日は、ありがとうございました」
頭を下げる。
「とても参考になりました」
伯爵夫人は軽く頷いた。
「またいらっしゃい」
私はもう一度礼をして、部屋を後にする。
扉の外では、侍女がすでに控えていた。
「こちらへ」
案内に従い、歩き出す。
足取りは、思っていたより重かった。
――相手次第だ。
あの言葉が、頭の奥に残っている。
……そもそも、
私を望んでくれる人なんているのだろうか。
ふと、そんな考えがよぎる。
「……落としているな」
低い声が、背中に落ちた。
思わず足が止まる。
振り向くと、アーネストが少し後ろに立っていた。
「……え?」
「顔だ」
それだけ言って、わずかに視線を寄越す。
「考えすぎだ」
言葉が出ず、目を瞬かせるだけになる。
アーネストはそれ以上何も言わず、歩き出した。
追いつくことも、引き止めることもできず、
私はその背中を見送った。
◆
扉が閉まり、エリナの気配が遠ざかったあと、部屋に静けさが戻った。
伯爵夫人が、ふっと息をつく。
「驚いたわね」
卓に残された瓶へ視線を落とす。
「干し林檎で終わるかと思っていたのに、まさかこんな形にして持ってくるなんて」
アーネストは答えなかった。
伯爵夫人は小さく笑う。
「もちろん、まだ甘いところはあるわよ。あれで“貴族向けの贈り物”とは言えないもの」
カップを持ち上げ、ゆるく傾ける。
「けれど、だからこそ伸びる余地があるわ。こうして持ち込まれれば、こちらとしても贈答に使える品がひとつ増えるのだもの」
視線が、瓶から息子へ移る。
「品としても悪くないし、あの子自身も悪くない。ずいぶん面白いものを見つけたじゃない」
「拾ってはいない」
「似たようなものでしょう?」
伯爵夫人は肩をすくめた。
アーネストは黙ったままだった。
伯爵夫人はその顔を見て、くすりと笑う。
「それにしても。ああいう場であなたがあんなふうに口を挟むなんて、エリナ嬢、どう思ったかしらね」
「……何の話だ」
「“相手次第”よ」
伯爵夫人は目を細めた。
「ずいぶん親切なことを言うようになったじゃない」
「事実を言っただけだ」
「ふうん? 前なら、もっと切って捨てる言い方をしていたと思うけれど」
返す言葉はなかった。
伯爵夫人はもう一度瓶へ目を落とす。
「まあ、少なくとも――見る目は悪くなかったわね」
アーネストは黙ったまま、卓の瓶へ視線を落とした。




