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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
九章

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第3話

どうしてここに――


そう思ったが、言葉にはならなかった。


アーネストは室内を一瞥し、グラーフ伯爵夫人へ軽く頭を下げる。


「話の途中か」


「ええ」


伯爵夫人は穏やかに答えた。


「ちょうどいいところよ」


アーネストの視線がこちらに向く。

ほんの一瞬だけで、すぐに外れた。


「……続けてくれ」


私は思わず伯爵夫人の方を見る。

けれど伯爵夫人は、微笑んだまま、続きを促していた。


私は言い淀みながらも、言葉を選んで口を開いた。


「姉が、結婚したい相手がいるのですが……話も進んでいるようで……でも、こちらはまだ準備ができていなくて……」


目を伏せたまま、続きを探すように息を継ぐ。


伯爵夫人はすぐには口を挟まなかった。

一度、場の空気ごと見渡すように間を置いてから、静かに言う。


「つまり……ご縁はあるけれど、整えるものが足りない、ということね」


「……はい」


「そういう話は、珍しくないわ」


伯爵夫人はカップを持ち上げ、そのまま続けた。


「良いご縁ほど、家の事情とぶつかるものよ」


「そうなのですね……」


「けれど、慌てて整えればいいというものでもないわ」


「はい……」


「持参金も支度も、一度出して終わりではないもの。その後も家は続いていくでしょう?」


まさに、そこだった。


出せるかどうかだけではない。

出したあと、家がどうなるのか。


「……では、やはり」


言葉が細くなる。


「難しい、のでしょうか……」


伯爵夫人は答えなかった。


代わりに、低い声が落ちる。


「相手次第だ」


思わず顔を上げる。


アーネストは私を見てはいなかった。

卓に視線を落としたまま、淡々と言う。


「本当に望んでいるなら、持参金の額だけで決まる話でもない」


一拍置いて、さらに続ける。


「逆に、そこにこだわる相手なら、整えても別の理由を持ち出す」


胸の奥が、わずかに揺れた。


伯爵夫人が面白がるように目を細める。


「ずいぶん冷静な言い方をするのね」


「事実だ」


短い返答だった。


伯爵夫人は肩をすくめ、それから私に向き直る。


「でも、安心なさい」


「……え?」


「あなたが今すぐ、そのお金をどうにかしなければならない話ではないわ」


その言葉に、息が止まる。


伯爵夫人ははっきりと続けた。


「それを背負うのは、本来あなたではないの」


「……」


「あなたが気にしているのは分かるわ。でも」


視線が、卓上のジャムへ移る。


「あなたには、あなたが進めるべきことがあるでしょう?」


喉の奥が、わずかに詰まる。


「姉君の縁談と、あなたの仕事は、切り分けて考えた方がいいわね」


伯爵夫人はそう言って、ジャムの瓶を指先で軽く叩いた。


「ごちゃごちゃにすると、どちらも駄目になるわ」


「……はい」


その返事に、伯爵夫人は満足そうに微笑んだ。


「よろしい」


そして、ごく自然な調子で言う。


「では話を戻しましょうか。このジャム、次の茶会に出すなら、もう少し瓶の大きさを揃えたいわね」


「……はい」


「保存の具合も、しっかり揃えておきたいわ。味がよくても、当たり外れがあっては贈り物にはしにくいもの」


「はい。そこも詰めてみます」


そう返し、私は瓶へ視線を落とした。


話はそのまま、瓶の大きさや蓋の包み方へ移っていく。


けれど、胸の奥に引っかかったものは、まだ消えてはいなかった。



話がひと段落したところで、私は静かに立ち上がった。


「本日は、ありがとうございました」


頭を下げる。


「とても参考になりました」


伯爵夫人は軽く頷いた。


「またいらっしゃい」


私はもう一度礼をして、部屋を後にする。


扉の外では、侍女がすでに控えていた。


「こちらへ」


案内に従い、歩き出す。


足取りは、思っていたより重かった。


――相手次第だ。


あの言葉が、頭の奥に残っている。


……そもそも、

私を望んでくれる人なんているのだろうか。


ふと、そんな考えがよぎる。


「……落としているな」


低い声が、背中に落ちた。


思わず足が止まる。


振り向くと、アーネストが少し後ろに立っていた。


「……え?」


「顔だ」


それだけ言って、わずかに視線を寄越す。


「考えすぎだ」


言葉が出ず、目を瞬かせるだけになる。


アーネストはそれ以上何も言わず、歩き出した。


追いつくことも、引き止めることもできず、

私はその背中を見送った。



扉が閉まり、エリナの気配が遠ざかったあと、部屋に静けさが戻った。


伯爵夫人が、ふっと息をつく。


「驚いたわね」


卓に残された瓶へ視線を落とす。


「干し林檎で終わるかと思っていたのに、まさかこんな形にして持ってくるなんて」


アーネストは答えなかった。


伯爵夫人は小さく笑う。


「もちろん、まだ甘いところはあるわよ。あれで“貴族向けの贈り物”とは言えないもの」


カップを持ち上げ、ゆるく傾ける。


「けれど、だからこそ伸びる余地があるわ。こうして持ち込まれれば、こちらとしても贈答に使える品がひとつ増えるのだもの」


視線が、瓶から息子へ移る。


「品としても悪くないし、あの子自身も悪くない。ずいぶん面白いものを見つけたじゃない」


「拾ってはいない」


「似たようなものでしょう?」


伯爵夫人は肩をすくめた。


アーネストは黙ったままだった。


伯爵夫人はその顔を見て、くすりと笑う。


「それにしても。ああいう場であなたがあんなふうに口を挟むなんて、エリナ嬢、どう思ったかしらね」


「……何の話だ」


「“相手次第”よ」


伯爵夫人は目を細めた。


「ずいぶん親切なことを言うようになったじゃない」


「事実を言っただけだ」


「ふうん? 前なら、もっと切って捨てる言い方をしていたと思うけれど」


返す言葉はなかった。


伯爵夫人はもう一度瓶へ目を落とす。


「まあ、少なくとも――見る目は悪くなかったわね」


アーネストは黙ったまま、卓の瓶へ視線を落とした。

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