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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
九章

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第2話

グラーフ伯爵夫人の屋敷は、アーネストの屋敷からそう離れていない場所にあった。


同じ並木道の先、少し奥まった区画に建つ石造りの邸宅は、なぜか目を引いた。

淡い乳白色の石壁に、大きな窓。庭には季節の花が整然と植えられ、どこを見ても手が行き届いているのが分かる。


馬車がゆるやかに止まる。


私は包みを抱え直し、小さく息を整えた。


玄関扉が開くと、侍女が一礼した。


「ようこそお越しくださいました、エリナ様」


案内されるまま屋敷の中へ進む。


磨き上げられた石床に、やわらかな光が落ちていた。

壁際には白磁の花器と小ぶりの風景画が等間隔に飾られ、ひとつひとつがきちんと選ばれているように見える。


通された客間も、明るく静かだった。

窓辺には薄いレースの幕が揺れ、丸卓の上には白地に銀の縁取りを施した茶器が整えられている。


「いらっしゃい、エリナ嬢」


振り向くと、グラーフ伯爵夫人が微笑んでいた。


私はすぐに裾をつまんで礼をする。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます」


「そんなにかしこまらなくていいのよ」


伯爵夫人はやわらかく目を細めた。


「あなたとゆっくりお話ししたかったの」


その言葉に、胸の奥が少しだけほどける。


「ありがとうございます」


私は抱えていた包みを差し出した。


「先日は茶会でも商会の件でもお世話になりましたので、ささやかですがお礼にお持ちしました」


「あら、気を遣わなくてもよかったのに」


伯爵夫人はそう言って、侍女に包みを受け取らせた。


「いいえ。その……ドレスまでご用意いただきましたので、きちんとお礼を申し上げたくて」


「そんなこと、気にしていたの?」


言葉に詰まる。


気にしないはずがない。

あれだけの仕立てを立て替えてもらったのだから。


「……はい」


「まあ。あなたがきちんと来てくれただけで、十分よ」


その柔らかな返しに、張っていた気持ちが少し緩む。


「中は何かしら」


「紅茶です……お菓子に合いそうなものを選びました」


「あら、素敵。そういう気遣いは嬉しいものよ。

それで――商会はどうだったの?」


「干し林檎を見ていただいて、仮契約という形にはなりました」


「まあ、早かったのね」


「継続するかはまだ様子見ですが……それでも、お話はいただけました」


「十分だわ。最初の一歩としては上出来よ」


「ありがとうございます」


そう言って頭を下げたあと、私はもうひとつの包みを差し出した。


「それと……もう一つ、持ってきたものがあるんです」


「あら、何かしら」


「干し林檎の……試作したジャムです」


「まあ」


伯爵夫人の目が、はっきりと輝いた。


私は包みを開き、小瓶に詰めたジャムを差し出した。


伯爵夫人は瓶を手に取り、光にかざす。


「色も悪くないわね」


蓋を開け、香りを確かめる。


「……ふうん」


小さく息をつき、侍女に視線を送った。


「スプーンを」


用意された銀のスプーンで、ひと匙すくう。

ゆっくりと口に運び――わずかに目を細めた。


「いいわね。甘さも、重すぎない」


もう一口、確かめるように味わう。


「干し果実の風味も残っているわ。これ、贈答に向くわよ」


その一言に、息が止まる。


「茶会の手土産や、季節の贈り物にちょうどいいわ」


伯爵夫人はそう言って、もう一度ジャムへ目を落とした。


「売り方を間違えなければ、十分に通るわね」


私はぎゅっと手を握った。


「ありがとうございます……」


「次の茶会で使ってもいいかしら」


「は、はい」


――次の茶会。


あの場に出させてもらえる。

そう思っただけで、現実味が一段増した気がした。


「なら少し数を揃えましょう。形も、もう少し整えるといいわ」


「はい」


言葉を返しながら、ふと――別のことがよぎる。


姉の声。

応接間での、あのやり取り。


視線を膝の上の手に落とした。


……聞いても、いいのだろうか。


こんなことを、伯爵夫人に。

けれど――他に、相談できる相手がいない。


ゆっくりと顔を上げた。


「……あの」


伯爵夫人の視線が、すぐにこちらへ向く。


「何かしら」


「少し……お聞きしても、よろしいでしょうか」


「ええ、どうぞ」


「結婚の……支度金や、持参金について、なのですが」


伯爵夫人の表情が、わずかに変わった。


「お姉さんのご縁談かしら」


「はい……」


息を軽く吸う。


「結婚には……何が必要なのか、よく分からなくて」


一度、言葉が途切れる。


「支度金や、持参金も……どのくらい用意するものなのか。そういうことを、きちんと聞いたことがなくて……」


伯爵夫人はすぐには答えなかった。

ほんの一瞬だけ、視線がやわらぐ。


「……そうね。あなたは、そういうことを教わる機会がなかったものね。分からなくて当然よ」


その言葉に、膝の上に置いていた手の力がゆるむ。


伯爵夫人は指先でカップの縁をなぞりながら、続けた。


「結婚に必要なものは、大きく分けて二つ。家同士の釣り合いと、体裁ね」


視線がこちらに戻る。


「持参金は、その体裁を整えるためのものよ」


「……体裁」


「ええ。この家はこれだけ用意できます、と示すためのもの。相手に対する誠意でもあるし、家の格の見せ方でもあるわ」


「家の格……」


「額は決まっているわけではないけれど……相手の家と釣り合う程度、というのが基本ね」


姉は、いい家柄だと言っていた。

けれど――うちに、それと釣り合うだけの余裕があるのだろうか。


「ただし、無理をしてまで整えるものでもないわ。その後が続かなくなるもの」


その視線は、やわらかいまま外さない。


「……少し、やり繰りに無理が出ているのかもしれないわね」


私は何も言えず、目を伏せた。


「――失礼」


控えめなノックのあと、扉の向こうから低い声がした。


胸が、ひとつ跳ねる。


伯爵夫人が扉へ向く。


「入っていいわよ」


ゆっくり扉が開く。

入ってきたのは、アーネストだった。

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