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都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳(福島リカ)
一章

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第6話

空気が、わずかに揺れた気がした。


――まずい。


このドレスで、ここに突っ立ったままでは。

それに、この目立ち方は……伯爵夫人にも迷惑がかかる。


私は、そっとグラスを近くのテーブルに置いた。


深呼吸ひとつして。

近くにいた使用人へ、声を低くかける。


「すみません……

 少し、控え室をお借りできますか」


使用人は一瞬だけ状況を見て、

すぐに小さく頷いた。


「こちらへ」


……さすが伯爵家の使用人。

察しが早い。


静かに、その後をついていった。



「どうしよう……」


淡い染みが、細かな刺繍にかかっている。

濡れた布で押さえてみても、うまく取れない。


布を傷めそうで、動きも鈍くなる。


「うう、お古とはいえ上質なドレスなのに……」


そして、ふと思いつく。


「……これを理由に、帰ってたら――」


そのとき。


「あら、大変ね」


はっとして、顔を上げる。


――伯爵夫人。


染みをひと目見て、静かに言った。


「このまま客席に戻るのは、よろしくないわ。

 今日は、うちの夜会ですもの」


「は、はい……。

 では、私はこれで……」


身を引こうとすると、

夫人は扇子を閉じたまま続けた。


「控え室に、予備のドレスがあるの。

 サイズも……たぶん、合うと思うわ」


「え……?」


「着替えてらっしゃい。

 こちらで用意するわ」


私は、一瞬だけ言葉を失った。


「そ、そんな……ご迷惑では……」


思わず、そう聞いてしまった。


伯爵夫人は、私の顔をまっすぐ見て、

眉ひとつ動かさずに答えた。


「主催者としての判断よ。

 あなたが悪目立ちするのは、

 こちらの不手際でもあるわ」


「も、申し訳ございません……」


けれど、責める響きはなかった。


「それに……

 そのドレス、布はいいけれど、

 色があなたを殺しているわ」


扇子の端で、控えめに染みの辺りを指す。


「似合わない、という意味じゃないの。

 合っていないだけ」


言い切られてしまった……。

でも、嫌な気分にはならない。


「それに……夜会よ。

 場に溶け込めない装いは、

 それだけで疲れるでしょう」


「……はい」


「着替えたら、私のところに来なさい」


そう言って、夫人は使用人に目配せをした。


「この方を、奥の控え室へ」


「かしこまりました」


私は、深く一礼する。


「……ご配慮、ありがとうございます」


夫人は、ほんの一瞬だけ口角を上げた。


「礼は、あとでいいわ。

 まずは落ち着きなさい」



案内された控え室は、静かだった。


それはそれで、落ち着かない。


「こちらになります」


使用人が、丁寧に扉を開ける。


中には、ドレスが一着だけ、用意されていた。


淡い色合い。

派手さはないのに、

生地の艶と落ち感が一目で分かる。


「伯爵夫人が、お選びになりました」


使用人が、静かに告げる。


「お似合いになると」


思わず、息を呑んだ。


「……上品で……素敵……」


声が、勝手に漏れる。


「お召し替えをお手伝いいたします」


使用人はそう言って、

ためらいなく私の背に回った。


留め具を外し、

汚れたドレスを受け取る動きは、

驚くほど手際がいい。


――ここまで面倒を見てくださるなんて。

一流の家は、やっぱり違う。


……そういえば、

私の家で、茶会が開かれた記憶はない。


新しいドレスに袖を通され、

紐を整えられる。


「苦しくありませんか」


「……大丈夫です」


鏡の前に立たされて、

はっと息を呑んだ。


さっきまでの浮いている私とは、違う。


「わぁ……」


ドレスを変えただけで、

こんなに印象が変わるなんて。


すると、使用人が小さく首を傾げた。


「失礼いたします」


返事をする間もなく、

頬に軽く刷毛が触れる。

次に、唇。


「え?」


「お色味だけ、少し」


鏡に映る口紅の色は、

先ほどよりも落ち着いていて、

ドレスの色と、不思議なくらい馴染んでいた。


髪も、少しだけ整えられる。

引き出されたのは、

飾り気のない小さな留め具。


「こちらの方が、よろしいかと」


「……そこまで、していただいて……」


思わずそう言うと、

使用人は淡々と答えた。


「伯爵夫人のご判断ですので」


その一言で、

これが特別扱いではなく、

この家の普通なのだと分かった。


鏡の前で、まだ少し戸惑っていると――


「仕上がったようね」


背後から、落ち着いた声がした。


はっとして振り返る。


夫人が戻ってきて、そこに立っていた。


夫人は、私を頭の先から足元まで、

静かに眺める。


「……ええ。おほほっ。

 やはり、この色ね」


そう言って、扇子を閉じる。


「あなたは、派手な色に埋もれるタイプじゃないわ。

 光る布も、余計な装飾もいらないのよ」


そう言いながら、

扇子の先で、なぞるように視線を落とす。


「線が、きれいなのだから」


思わず、息を呑む。


「姉上のドレスより、ずっと似合っているわ」


私は、どう答えていいか分からず、

小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


夫人は、ほんの一瞬だけ口元を緩める。


「礼はいいわ。

 これは、主催者の責任よ」


そして、くるりと踵を返した。


「さあ、行きましょう」


「……え?」


「控え室に隠れている必要はないでしょう」


扇子越しに、ちらりと私を見る。


「今のあなたなら、十分あの場に出られるわ」


私は一瞬、目を瞬かせた。


「私の隣を歩きなさい」


そう言われて、

私は一拍遅れて、頷いた。


「……はい」


――と、そのとき。


扉へ向かいかけた夫人が、ふと足を止める。


「確認するわ。

 ――夜会は、初めて?」


一瞬、言葉に詰まってから、

正直に答える。


「……はい」


「人前に出るのも、慣れていないわね」


「そうです……」


夫人は何も言わず、歩き出す。


沈黙に耐えきれず、

思わず、ぽろりと零してしまう。


「……年上の方や、領民と話すのには、

 慣れているんですけど……」


言ってから気づく。


――あ、言わなきゃよかった。


けれど、夫人は眉ひとつ動かさなかった。


「そう」


気まずくて、

私はやや肩をすくめ、黙ってついていった。



広間へ戻った瞬間――

空気が、ふっと変わった。


視線が、集まっている。

でも、先ほどとは、明らかに違う。


「……?」


歩みを進めるたび、

小さな声が、断片的に耳に入ってきた。


「……あの方……」

「さっきと、雰囲気が違わない?」

「……上品ね」

「控えめなのに、目を引くわ」


――え。


思わず、足が止まりそうになる。


心臓が、どくんと大きく跳ねた。


夫人のおかげ、だけど……。


無意識に、胸元や裾を気にする。

さっきまで感じていた居心地の悪さが、

少しだけ、薄れている。


ふと、視線の先に、

華やかな令嬢たちの輪が見える。


色とりどりのドレスに、軽やかな笑顔。

慣れた仕草で、グラスを掲げている。


「こちらよ」


落ち着いた声に、はっとする。


伯爵夫人の後を、

慌ててついていく。


向かった先――

それは、広間の一角。


数人の若い貴族たちが集まり、

その中心で、穏やかに話している人物。


――ヴァルクレイン伯爵。


夫人は立ち止まり、

扇子を軽く閉じた。


「あなたは、ここ」


にこり、と微笑む。


「こちらの方が、合うでしょう?」


「……え?」


伯爵がこちらを見て、

ほんの一瞬、目を細めた。


若い貴族たちも、私に気づく。

令嬢は、もちろんいなかった。

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