第6話
空気が、わずかに揺れた気がした。
――まずい。
このドレスで、ここに突っ立ったままでは。
それに、この目立ち方は……伯爵夫人にも迷惑がかかる。
私は、そっとグラスを近くのテーブルに置いた。
深呼吸ひとつして。
近くにいた使用人へ、声を低くかける。
「すみません……
少し、控え室をお借りできますか」
使用人は一瞬だけ状況を見て、
すぐに小さく頷いた。
「こちらへ」
……さすが伯爵家の使用人。
察しが早い。
静かに、その後をついていった。
◆
「どうしよう……」
淡い染みが、細かな刺繍にかかっている。
濡れた布で押さえてみても、うまく取れない。
布を傷めそうで、動きも鈍くなる。
「うう、お古とはいえ上質なドレスなのに……」
そして、ふと思いつく。
「……これを理由に、帰ってたら――」
そのとき。
「あら、大変ね」
はっとして、顔を上げる。
――伯爵夫人。
染みをひと目見て、静かに言った。
「このまま客席に戻るのは、よろしくないわ。
今日は、うちの夜会ですもの」
「は、はい……。
では、私はこれで……」
身を引こうとすると、
夫人は扇子を閉じたまま続けた。
「控え室に、予備のドレスがあるの。
サイズも……たぶん、合うと思うわ」
「え……?」
「着替えてらっしゃい。
こちらで用意するわ」
私は、一瞬だけ言葉を失った。
「そ、そんな……ご迷惑では……」
思わず、そう聞いてしまった。
伯爵夫人は、私の顔をまっすぐ見て、
眉ひとつ動かさずに答えた。
「主催者としての判断よ。
あなたが悪目立ちするのは、
こちらの不手際でもあるわ」
「も、申し訳ございません……」
けれど、責める響きはなかった。
「それに……
そのドレス、布はいいけれど、
色があなたを殺しているわ」
扇子の端で、控えめに染みの辺りを指す。
「似合わない、という意味じゃないの。
合っていないだけ」
言い切られてしまった……。
でも、嫌な気分にはならない。
「それに……夜会よ。
場に溶け込めない装いは、
それだけで疲れるでしょう」
「……はい」
「着替えたら、私のところに来なさい」
そう言って、夫人は使用人に目配せをした。
「この方を、奥の控え室へ」
「かしこまりました」
私は、深く一礼する。
「……ご配慮、ありがとうございます」
夫人は、ほんの一瞬だけ口角を上げた。
「礼は、あとでいいわ。
まずは落ち着きなさい」
◆
案内された控え室は、静かだった。
それはそれで、落ち着かない。
「こちらになります」
使用人が、丁寧に扉を開ける。
中には、ドレスが一着だけ、用意されていた。
淡い色合い。
派手さはないのに、
生地の艶と落ち感が一目で分かる。
「伯爵夫人が、お選びになりました」
使用人が、静かに告げる。
「お似合いになると」
思わず、息を呑んだ。
「……上品で……素敵……」
声が、勝手に漏れる。
「お召し替えをお手伝いいたします」
使用人はそう言って、
ためらいなく私の背に回った。
留め具を外し、
汚れたドレスを受け取る動きは、
驚くほど手際がいい。
――ここまで面倒を見てくださるなんて。
一流の家は、やっぱり違う。
……そういえば、
私の家で、茶会が開かれた記憶はない。
新しいドレスに袖を通され、
紐を整えられる。
「苦しくありませんか」
「……大丈夫です」
鏡の前に立たされて、
はっと息を呑んだ。
さっきまでの浮いている私とは、違う。
「わぁ……」
ドレスを変えただけで、
こんなに印象が変わるなんて。
すると、使用人が小さく首を傾げた。
「失礼いたします」
返事をする間もなく、
頬に軽く刷毛が触れる。
次に、唇。
「え?」
「お色味だけ、少し」
鏡に映る口紅の色は、
先ほどよりも落ち着いていて、
ドレスの色と、不思議なくらい馴染んでいた。
髪も、少しだけ整えられる。
引き出されたのは、
飾り気のない小さな留め具。
「こちらの方が、よろしいかと」
「……そこまで、していただいて……」
思わずそう言うと、
使用人は淡々と答えた。
「伯爵夫人のご判断ですので」
その一言で、
これが特別扱いではなく、
この家の普通なのだと分かった。
鏡の前で、まだ少し戸惑っていると――
「仕上がったようね」
背後から、落ち着いた声がした。
はっとして振り返る。
夫人が戻ってきて、そこに立っていた。
夫人は、私を頭の先から足元まで、
静かに眺める。
「……ええ。おほほっ。
やはり、この色ね」
そう言って、扇子を閉じる。
「あなたは、派手な色に埋もれるタイプじゃないわ。
光る布も、余計な装飾もいらないのよ」
そう言いながら、
扇子の先で、なぞるように視線を落とす。
「線が、きれいなのだから」
思わず、息を呑む。
「姉上のドレスより、ずっと似合っているわ」
私は、どう答えていいか分からず、
小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
夫人は、ほんの一瞬だけ口元を緩める。
「礼はいいわ。
これは、主催者の責任よ」
そして、くるりと踵を返した。
「さあ、行きましょう」
「……え?」
「控え室に隠れている必要はないでしょう」
扇子越しに、ちらりと私を見る。
「今のあなたなら、十分あの場に出られるわ」
私は一瞬、目を瞬かせた。
「私の隣を歩きなさい」
そう言われて、
私は一拍遅れて、頷いた。
「……はい」
――と、そのとき。
扉へ向かいかけた夫人が、ふと足を止める。
「確認するわ。
――夜会は、初めて?」
一瞬、言葉に詰まってから、
正直に答える。
「……はい」
「人前に出るのも、慣れていないわね」
「そうです……」
夫人は何も言わず、歩き出す。
沈黙に耐えきれず、
思わず、ぽろりと零してしまう。
「……年上の方や、領民と話すのには、
慣れているんですけど……」
言ってから気づく。
――あ、言わなきゃよかった。
けれど、夫人は眉ひとつ動かさなかった。
「そう」
気まずくて、
私はやや肩をすくめ、黙ってついていった。
◆
広間へ戻った瞬間――
空気が、ふっと変わった。
視線が、集まっている。
でも、先ほどとは、明らかに違う。
「……?」
歩みを進めるたび、
小さな声が、断片的に耳に入ってきた。
「……あの方……」
「さっきと、雰囲気が違わない?」
「……上品ね」
「控えめなのに、目を引くわ」
――え。
思わず、足が止まりそうになる。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
夫人のおかげ、だけど……。
無意識に、胸元や裾を気にする。
さっきまで感じていた居心地の悪さが、
少しだけ、薄れている。
ふと、視線の先に、
華やかな令嬢たちの輪が見える。
色とりどりのドレスに、軽やかな笑顔。
慣れた仕草で、グラスを掲げている。
「こちらよ」
落ち着いた声に、はっとする。
伯爵夫人の後を、
慌ててついていく。
向かった先――
それは、広間の一角。
数人の若い貴族たちが集まり、
その中心で、穏やかに話している人物。
――ヴァルクレイン伯爵。
夫人は立ち止まり、
扇子を軽く閉じた。
「あなたは、ここ」
にこり、と微笑む。
「こちらの方が、合うでしょう?」
「……え?」
伯爵がこちらを見て、
ほんの一瞬、目を細めた。
若い貴族たちも、私に気づく。
令嬢は、もちろんいなかった。




