第6話
伯爵夫人は満足そうに頷いた。
「ええ、これだわ」
仕立て屋は静かに布を畳み、それから小さな革袋を取り出した。
中から細い紐と帳面が現れる。
「では、採寸いたします」
私は思わず目を瞬かせた。
「さ、採寸……?」
伯爵夫人は楽しそうに頷く。
「当然でしょう? ドレスは体に合わせるものよ」
軽く手を振られて、私は慌てて背筋を伸ばした。
仕立て屋が近づく。
「肩幅を失礼します」
紐が肩に当てられる。
「胸囲」
「胴囲」
次々と数字が帳面に書き込まれていく。
伯爵夫人は腕を組み、じっとその様子を見ていた。
「ウエストは絞りすぎないで」
「はい」
「この娘は動くでしょうから」
私はそれを聞きながら、別のことを考えていた。
――さっきの布。
淡い光沢の絹。
見れば見るほど、頭のどこかが勝手に勘定を始める。
あれだけの布地に、仕立て代。
飾りまで入れば、いったいいくらになるのだろう。
仕立て屋は淡々と紐を動かした。
「背丈」
また数字が帳面に書き込まれる。
やがて採寸が終わると、仕立て屋は帳面を閉じた。
「これで大丈夫です」
伯爵夫人は満足そうに頷く。
「ええ」
それから私を見た。
「仮縫いは数日後になるわね」
「は、はい」
「その時、また来るわ」
私は一瞬きょとんとした。
「え?」
「だって、途中を見るのも楽しいじゃない」
思わず瞬きをする私に、伯爵夫人はもう仕立て屋の方へ向いていた。
「いいドレスにしましょうね」
「あ、ありがとうございました」
私は慌てて頭を下げた。
伯爵夫人は楽しそうに笑う。
「こちらこそ」
それから軽く手を振った。
「楽しみにしているわ」
◆
伯爵夫人の馬車が門の向こうへ消えていく。
私はその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
……嵐のようだった。
「次はちゃんと準備しておこう……」
ぽつりと呟く。
部屋も、もう少し片付けておかないと。
そう思いながらも、胸の奥は少しだけあたたかかった。
ああいうふうに、あれこれ言われながら構われるのは――
なんだか少し、嬉しかった。
「……そういえば」
母が生きていた頃も、いつも忙しそうだった。
優しくなかったわけじゃない。
でも、あんなふうにゆっくり相手をしてもらった記憶は、あまりない。
そんなことを考えながら屋敷へ戻ると、廊下の先に姉が立っていた。
「……すごかったわね」
思わず足が止まる。
「お姉様……」
姉は私を上から下まで見た。
「伯爵夫人が自分で仕立て屋を連れてくるなんて、なかなかないわよ」
「そう、なんですか?」
「普通は、手紙で店を紹介するくらいでしょうね」
声は軽い。
けれど、その目はじっと私を見ていた。
「ずいぶん気に入られたのね」
「そ、そんなことは……」
「どうかしら」
姉は肩をすくめた。
「少なくとも、ただの親切ではなさそうだけれど」
その時、奥から兄が来た。
「何の話だ」
姉は視線を兄に向けたまま言う。
「伯爵夫人の話よ」
兄は私を見た。
「……何をした」
「茶会用のドレスの相談を……」
「それだけか?」
その言い方に、私は少し言葉に詰まった。
姉が先に口を開く。
「干し林檎を茶会で紹介するそうよ」
兄は一瞬だけ黙った。
「……そうか」
そこへ父も現れる。
「伯爵夫人は何と?」
私は慌てて姿勢を正した。
「仮縫いの時にも、お越しになるそうです……」
父はしばらく黙っていた。
「……伯爵夫人が、仮縫いにも来られるのか」
「はい……」
父は一度だけ息を吐く。
「そうか」
短い返事だったが、その声は少し低かった。
「それは……ありがたいことだ」
兄がわずかに眉を寄せる。
「そこまでのことか?」
父は兄をちらりと見た。
「伯爵家の夫人が、わざわざ何度も足を運ばれる。それだけで、伯爵家が目をかけていると周囲は見るだろう」
父の視線が私に戻る。
「軽い話ではない。茶会では、粗相のないようにしなさい」
それから少しだけ声を和らげた。
「干し林檎のことも、落ち着いて説明すればいい」
「はい」
姉はそんな父を横目で見てから、もう一度私を見た。
「まあ、いいんじゃない?」
さらりと言う。
「せっかく整えてもらうんだもの。ちゃんと立ちなさい」
それだけ言って、姉は先に歩き出した。
私はその背中を見送る。
……機嫌がいいのか、悪いのか。
それはやっぱり、よくわからなかった。
◆
翌日、私は乾燥小屋へ向かった。
茶会で紹介するのなら、なおさら今の仕事場を自分の目で見ておきたかった。
棚には薄く切り分けられた林檎が整然と並び、女たちの手が忙しく動いている。
私は小屋の中を見回しながら、近くにいた女へ声をかけた。
「林檎の数が増えたけど……大丈夫?
無理はしていないかしら」
「はい、大丈夫です。前より決まりごとも増えましたし、動きやすいです」
「それならよかったわ」
ほっとして視線を巡らせた、その時だった。
少し離れた棚の前に立つ若い娘の顔色が悪いことに気づく。青白く、手元もどこか頼りない。
私は眉を寄せ、そちらへ歩み寄った。
「……どうしたの?」
娘はびくりと肩を揺らし、慌てて背筋を伸ばした。
「い、いえ……大丈夫です」
「大丈夫には見えないけれど」
そう言うと、娘は困ったように唇を噛んだ。
やがて娘は、小さな声で言った。
「悪阻で……」
私は思わず目を瞬かせた。
「悪阻……」
「すみません。でも、少し休めば動けますから」
「それは休まないとだめよ。食品を扱うのだから、具合の悪いまま無理をしてはいけないわ」
けれど娘は、さらに声を小さくした。
「でも……休むと、その分のお金がなくなるので」
その一言に、私は言葉を失った。
そうだ。
休めと言うのは簡単だ。
けれど、休んだ先の暮らしが困るなら、結局また無理をしてここへ出てくるしかない。
娘は続ける。
「今、夫の仕事だけだと少し足りなくて……。私もここで働けるようになって、ようやく楽になったんです」
周囲の女たちは手を止めこそしないが、耳はこちらへ向いているのが分かった。
私は小さく息を吐いた。
「……わかりました」
女たちの視線が集まる。
「病気で休む時だけでなく、悪阻で休む時にも、休んだ日の賃金の一部は補うようにします」
「……え?」
娘が目を丸くした。
「もちろん、ずっと同じ額というわけにはいかないけれど」
「で、ですが……」
「それに、無理して働いたら身体に悪いでしょう。今日はもう帰って休んでください」
娘はなおも戸惑っていたが、やがて深く頭を下げ、小屋を出ていった。
その時、近くで見ていた年嵩の女が、おそるおそる口を開いた。
「お嬢様……それは、本当に?」
「ええ。細かい決まりはこれから詰めるわ。だから皆、体調が悪い時に無理をしないで」
「そんな話……初めて聞きました」
「そうなの?」
「隠して来る者、出なくなりますね……」
私は小さく頷いた。
それから私は、指導役を任せている女へ向き直った。
「急に休む者が出た時の手順も決めましょう」
「はい。でしたら、裏返しと検品は分けて覚えさせた方がよさそうです」
「そうね。その形にしましょう」
やり取りをしながら、私は小さく息を吐いた。
働く者を守るのも、仕事なのだ。
そう考えた時、ふと胸の奥に小さな違和感が落ちた。
こうして無理に気づかれる、ということは、私にはあまりなかった気がする。
私は一度だけ目を伏せ、それから気を取り直すように顔を上げた。




