第5話
馬車が、がたんと揺れた。
クッションに身を預けたまま、私はぼんやりと瞬きをする。
……そういえば。
「夜会に出るの、初めて……?」
今さらのように気づいて、言葉を失った。
私、これが――
社交界デビュー?
膝の上に置いた手が、きゅっと強張る。
視線が、自然とドレスに落ちた。
……この、不似合いなドレスで。
「どうしよう……」
あのときは、深く考えずに
顔出しするだけって思っていた。
挨拶して、すぐ帰ればいい。
それだけの話だと。
なのに。
馬車が進むたび、不安だけが膨らんでいく。
窓の外を流れる夜景を眺めながら、思わず小さく呟いた。
「……こんなことなら、社交礼法書でも買っておくべきだった……」
何か、心を落ち着けるものが欲しかった。
鞄から招待状を取り出し、もう一度、目を通す。
「ええと……今日は……ヴァルクレイン伯爵家の夜会……」
名前には、見覚えがある。
書類の上でなら、何度も見た。
……でも。
実際に会うのは、初めてだ。
「挨拶だけ済ませたら、帰ろう。
具合が悪くなったって言えばいい」
それくらい、許されるはずだ。
――うん……そう、よね?
馬車は、ゆっくりと速度を落とし始めていた。
◆
馬車が止まり、扉が開いた。
一歩、外に出た瞬間。
「……わ……」
私は、思わず息を呑んだ。
シャンデリアがまばゆくきらめく。
天井から降る光が、行き交うドレスの刺繍や宝石をかすめ、 動きに合わせて瞬いた。
優雅な音楽が満ち、
そこへ甘く濃い香水の香りが重なる。
違うはずのものが溶け合い、
別の世界のような空気を形づくっていた。
――これが、夜会。
背中が、ぞわりとする。
「……帰りたい」
反射的に思ってしまって、慌てて否定する。
だめよ、エリナ。
令嬢として、それは駄目。
私は、ドレスの裾をそっと整え、
背筋を伸ばした。
逃げ腰のままじゃ、余計に目立つ。
視線を彷徨わせると、ほどなく、目に入った。
会場の中心、人が自然と道を空けている場所。
――あの方が、ヴァルクレイン伯爵夫妻。
並んで立つ姿を、遠目に眺める。
伯爵は、穏やかそうな微笑みを絶やさず、
周囲の会話に静かに耳を傾けている。
一方で――
隣に立つ夫人は、背筋をすっと伸ばし、
場を切り取るような存在感があった。
……ああ、なるほど。
姉が、夜会を押し付けた理由。
――この方が、苦手なのかもしれない。
「よし……行こう」
自分に言い聞かせて、一歩、踏み出す。
歩くたび、視線が刺さる。
怯みそうな気持ちを押し殺し、
私は、伯爵夫妻の前で立ち止まった。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
声が震えないよう、意識して言う。
「エリナ・フォン・リュークハルトと申します」
どきどきしながら、相手の反応を待つ。
先に反応したのは、伯爵夫人だった。
――上から下まで。
一瞬で、全部を見られた気がした。
「あら、あなた……」
マルグリット・ヴァルクレイン伯爵夫人は、
ふっと首を傾げる。
「お姉様は?」
胸が、きゅっと詰まる。
「本日は、家の都合で姉が出られず……
私が代理で参りました」
そう答えると、夫人は一瞬だけ黙った。
「そうなの……」
にこり、と微笑んではいるけれど、
さっきよりも、ほんの少しだけ温度が下がった気がした。
「まあ、いいわ。
せっかくいらしたのですもの。
どうぞ、お席へ」
夫人は、扇子を軽く閉じる。
「こちらですわ」
伯爵夫人に促され、私は慌てて従った。
歩き出してすぐ、気づく。
……入口から、ずいぶん離れている。
――帰る、って言い出しにくい。
会場の奥へ進むにつれ、
周囲の視線が、はっきりと集まってくる。
そんなに、このドレス……変?
胸のあたりを、無意識に押さえる。
形式としては、間違っていないはずなのに。
――歩き方が、ぎこちないから?
背筋を伸ばし、歩幅を意識する。
なるべく、ゆったりと歩く。
……それでも、視線は消えなかった。
そんなことを気にしているうちに、
ふと気づく。
――夫人の姿が、見当たらない。
――えっ、嘘!?
夫人は別の客の輪へと、自然に溶け込んでいる。
……置いていかれた。
しかも、会場のど真ん中に。
ど、どうしよう……。
とりあえず、何か飲もう。
そうだ。
飲み物を手に取れば、
場に馴染んでる風くらいは装えるはず。
給仕から、グラスを受け取る。
口をつけようとした、そのとき。
どんっ。
「――あら、ごめんなさい」
肩がぶつかり、思わず身体が傾いた。
「あ……」
慌てて顔を上げる。
目の前には、年の近そうな令嬢が立っていた。
完璧に整えられた髪。
身体の線にぴたりと沿う、上等なドレス。
――似合っている。
最初に浮かんだのは、その感想だった。
令嬢は、私を見て、
ほんの一瞬だけ、目を細める。
「……」
そしてそのまま、何事もなかったかのように視線を外し、
別の客のもとへと歩いていった。
――今のは、一体……。
「……あ」
残されたのは――
グラスの中身がこぼれ、
淡い染みを作ったドレスを着た、私だけだった。
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