第7話
グラーフ伯爵が、こちらを見ていた。
目が合った瞬間、胸がどくんと鳴る。
伯爵はまっすぐこちらへ歩いてきて、私の前で止まった。
「少しいいか」
私は思わず頷いた。
伯爵は私の向かいにいた男へ視線を向ける。
「少し借りる」
男は笑った。
「どうぞ」
「……はい」
伯爵は周囲を一度だけ見回した。
それから言う。
「場所を変える」
「え?」
「話がある」
私は戸惑いながらも頷いた。
伯爵は歩き出す。私は慌てて籠を抱え、その後ろについていった。
広間のざわめきが、少しずつ遠ざかる。
廊下の角を曲がったところで、伯爵は足を止めて振り返った。
「さっきの話」
「え?」
「旅人向けの店だ」
私は慌てて頷く。
「はい」
伯爵は腕を組んだ。
「悪くない。だが、一軒では足りない」
私は目を瞬いた。
「え?」
「売るなら、最初から数を押さえろ」
伯爵は淡々と言う。
「王都へ来る旅人は多い。酒場、宿屋、街道沿いの店」
指で三つ示す。
「最低でも三つは欲しい」
「三つ……」
年間五十箱。
三つの店なら、一店あたり月に一箱。
……うん、できる。
いや、収穫が悪い年は厳しいかもしれない。でも、試すだけなら。
私は口元に手を当て、考え込んだ。
そのときだった。
「あと一つ」
伯爵が言う。
私は顔を上げた。
「え?」
「さっきの件だ」
伯爵は淡々と言う。
「クラウゼン嬢だが、婚約していない」
胸が跳ねた。
「誤解されたままというのも、面倒だからな」
「……そ、そうなのですね……」
よかった……。
――いや、何を考えているの、私!?
頭の中が一気に熱くなる。それでも、口が勝手に動いた。
「お似合いでしたから……つい……」
「そう見えたか」
伯爵は淡々と言う。
「なら、訂正しておく」
その声が落ちたあと、伯爵が一歩こちらへ近づいた。
思わず息を呑む。
伯爵はまっすぐ私を見たまま、言った。
「違う」
「っ……」
頬が熱くなる。
私は思わず目を伏せた。
「……はい」
伯爵は少しだけ考えてから言った。
「この辺りの街道沿いにな、個人で店をやっている連中がいる」
私は顔を上げる。
「興味があるなら、紹介してやってもいい」
「……! ぜひ……!」
私は慌てて頷いた。
「お願いします!」
「来い」
それだけ言って歩き出す。
私は籠を抱え直し、慌ててその後を追った。
さっきまでより、足取りが軽い気がした。
広間へ進む二人を、少し離れた場所から静かに見ている視線があった。
ヴィオラだった。
けれど、私はそれに気づかなかった。
◆
数日後。
グラーフ伯爵に紹介してもらった店に、お試しで干し林檎を置かせてもらえることになった。
パン工房の夫人に「送料が高すぎて……」と相談したところ、
「半分持ちますよ」
と、あっさり言われてしまった。
しかも――
「ついでに、うちでも追加で頼める?」
追加の発注まで入った。
「うーん……」
私は帳面を見ながら呟く。
「パン工房ばかりに偏るのもなぁ」
何かあった時のためにも、売り先は分散しておきたい。
私は指で数字をなぞった。
「ええと……」
領地の分を残して――
「年間三十箱は回せるし……」
私は余白に数字を書き出す。
「店によって売れ方に差が出たとしても……」
そこでもう一度、数字を見直した。
「……銀貨九十枚」
思わず、手が止まった。
凄い……。
書き出してみたら、思っていた以上の金額だ。
「でも……」
私はもう一度、別の数字を書く。
残り五年。
銀貨九十枚を、五年。
「……四百五十枚」
小さく呟く。
その下に、あの契約の金額を書く。
必要額には、遠い。
「……全然足りない」
さっきまで少し明るくなっていた胸の奥が、すうっと冷えていく。
「これだけじゃ駄目……」
売り先を増やしても、足りない。
干し林檎がうまく回っても、足りない。
一つずつ積み上げても、あの金額には届かない。
ふと、伯爵の言葉を思い出す。
――婚約はしていない。
わざわざ言ってくれた。
あの一言を思い出すだけで、胸の奥がまた熱を帯びる。
「でも……」
あの人も、いずれは誰かと結婚するんだ。
伯爵夫人になれるような、家柄も教養も美しさも備えた人と。
私は帳面の上で、指先を止めた。
そのとき――
私は、どこにいるんだろう。
五年後も、まだこの家で返済に追われているのか。
それとも、どこか別の場所へ嫁いでいるのか。
あるいは――何も掴めないまま、全部を諦める日が来るのか。
分からない。
ただ一つ分かるのは、立ち止まっている時間なんてないということだけだった。
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