第1話
廊下を案内されながら、さっきの令嬢の姿が頭をよぎる。
綺麗な人だった。
……同い年くらいだろうか。
伯爵のことを、よく知っているような口ぶりだった。
もしかして――伯爵の、恋人……?
胸の奥が少しだけざわつく。
私……何を考えているの。
思わず、持っていた鞄を抱きしめた。
「あ……」
そういえば――。
考えているうちに、廊下の奥で侍従が足を止めた。
「こちらでございます」
重い扉が開かれる。
執務室は、思っていたより飾り気がなかった。広い木の机に、磨かれた濃い色の天板。余計なものはほとんど置かれていない。壁一面には書棚があり、書類箱がきちんと揃えて収められている。
窓から差し込む光の中で、一人の男が立ち上がった。
グラーフ伯爵。
私は、この人のことを何も知らない。
アーネストの視線がこちらへ向く。
「来たか」
久しぶりに聞く声に、思わず背筋が伸びた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「座れ」
机の向かいを示され、椅子に腰を下ろした。
アーネストは椅子の背に軽く手を置く。
「書状は読んだ。名義、取れたそうだな」
「はい……」
膝の上で指を揃える。
「グラーフ伯爵が後押ししてくださったおかげです……」
アーネストは手元の書類へ目を落としたまま言った。
「取ったのはお前だ」
「でも……グラーフ伯爵がいなければ、何も進めることはできませんでした……」
アーネストは一瞬だけ黙り、それ以上は言うなとでもいうように書類を一枚めくった。
「夫人の件は。発注は通ったか」
「……はい。ただ……」
「?」
「規格外が思いのほか多くて……」
言葉を選びながら続ける。
「規格品は二か月分。それとは別に、規格外も買い取っていただけました」
書類をめくるアーネストの手が止まり、顔が上がった。
「規格外も買い取ったのか」
「はい。ジャム用に、と」
アーネストは少しだけ頷いた。
「悪くない」
それから書類を閉じる。
「だが、規格外が多いのは、よくはない」
「……はい」
「売れたのは運がよかっただけだ。出さない工夫も考えろ」
目を伏せ、小さく頷く。
「……はい」
少しの間が空いた。
アーネストはしばらく私を見てから、椅子の背に手を置いたまま言った。
「落ち込むほどの話でもない」
私は顔を上げる。
「規格外が出るのは、どこでも同じだ。問題は、その後どうするかだ」
机の上の書類を指先で軽く叩く。
私は少しだけ息をついた。
「……製造工程の見直しを考えています。これまでは嗜好品扱いでしたので、乾燥の最終確認が曖昧な部分がありました」
一度言葉を切ってから続ける。
「ですので、果物の切り方を統一して……ひっくり返す時間も揃えて……それと、乾燥中の確認も、今は人の感覚に頼る部分が多いので、無作為に取って重さを量って……」
そこまで言ったところで、視線が机の端へ落ちた。
アーネストが眉をわずかに寄せる。
「……どうした」
「え?」
「いつもより考え込んでいる」
「……そうでしょうか……」
「……廊下で誰かに会ったか」
指先がわずかに強張った。
その反応を見て、アーネストが短く言う。
「……クラウゼンか」
私は咄嗟に顔を上げた。
「……何か言われたか」
膝の上で手を握る。
どうして、気になるのだろう。
伯爵が誰と親しくしていようと、私には関係ないはずなのに。
……そもそも、令嬢がそんなことを尋ねるものではない。
胸の奥に残るざわめきを、小さく息を吐いて押し込めた。
「いえ……ご挨拶してくださっただけで……」
そう答えながら、膝の上の手をそっと緩める。
――伯爵はお忙しい方ですもの。
扉の前で聞いた言葉が、ふと頭をよぎった。
「……本日は、報告も済みましたので」
椅子から立ち上がる。
「お忙しいところお時間をいただき、ありがとうございました」
深く一礼した。
「そろそろ失礼いたします」
「そうか」
アーネストは椅子の背に手を置いたまま続ける。
「気をつけて帰れ」
私はもう一度一礼し、踵を返しかけて――はっと足を止めた。
「あ……」
小さく声が漏れる。
「申し訳ありません。忘れておりました」
振り返って鞄を開き、中から小さな包みを取り出した。
「王都で見かけまして……珈琲豆です。もしよろしければ」
両手で差し出す。
アーネストは包みを見てから、ゆっくりと手を伸ばして受け取った。
「……珈琲か」
包みの重さを指先で確かめる。
「気を遣うな」
私は小さく首を振った。
「いえ……いつもお世話になっておりますので」
少しだけ笑い、もう一度深く頭を下げる。
「それでは、失礼いたします」
今度こそ扉へ向かい、部屋を出た。




