第8話
夫人が茶器を置き、ふと微笑んだ。
「エリナさん。名義を取られたのなら――きちんとお礼を申し上げる方がいらっしゃるのでは?」
目を瞬く。
「……お礼、ですか?」
「ええ。あなたが一人で掴んだわけではないでしょう?」
夫人はカップから手を離した。
「名義は立場です。立場を得たら、挨拶をする。それが次に繋がるの」
喉が、ひくりと鳴った。
「……はい」
夫人はくすりと笑う。
「せっかくですもの。堂々といらっしゃいな」
――その言葉が、胸に残った。
屋敷に戻ったその日のうちに、アーネストへ書状を出した。
『名義取得のご報告と御礼を申し上げたく、拝謁の機会を賜れましたら幸いに存じます』
彼はきっと多忙だ。時間など設けてもらえないかもしれない。
そう思っていたのに、返書はその日のうちに届いた。
『承知した。○日○時。執務室にて』
手紙を持つ手が、わずかに震えた。
◆
そして今日。
鏡の前に立ち、自分の姿を確かめる。
身につけているのは、明るい桃色のワンピースだった。襟元と袖口には細いレースがあしらわれている。
「……可愛すぎ?」
裾へ視線を落とす。
もっと落ち着いた色の方が良かっただろうか。
けれど、これを選んでくれた夫人は言っていた。
『明るい色も似合ってるわ』
それから、少し困ったように肩をすくめて、
『夫が選んでくれたのだけれど……さすがに私には若すぎましてね』
そう言って譲ってくれた一着だった。
鏡の中の自分をもう一度見つめる。
「……もう時間ね……」
手土産の包みを持ち、部屋を出た。
廊下を歩いていると、角を曲がったところで姉と鉢合わせる。
姉の視線が、ゆっくりと私の頭から足元まで滑った。わずかに眉が動く。
「……その服、見慣れないわね」
私は裾をつまんだ。
「……いただいたの」
「グラーフ伯爵に?」
「えっ……違うよ。別の方に」
姉は一瞬だけ黙った。
「……あなたの顔色を明るく見せるわね」
「そ、そうかな……」
「それで、どこへ着ていくの?」
「……ご挨拶に」
「誰に?」
「……グラーフ伯爵」
「……そう」
姉はそれだけ言うと、少し距離を詰めた。袖口に触れ、布地を指先で確かめる。
「悪くないわ。けれど、覚えておきなさい」
「え……?」
「明るい色は場を和らげるけれど、軽くも見えるわ」
息を呑む。
「あなたが何を得たのかを示しに行くのなら、服に着られないことね」
「うん……」
「……でも、似合っているわ」
そう言うと、姉はすぐに背を向けた。
「時間なのでしょう? 遅れる方が印象は悪いわよ」
「……はい」
姉の背中を見送ってから、私は玄関へ向かった。
◆
馬車に揺られながら、窓の外を眺める。
自領の屋敷は、もう遠くなっていた。
規格外の干し無花果は、すべて買い取ってもらえた。金額はもちろん正規品より安い。それでも、一か月分以上の品が無駄にならずに済んだ。
「……助かった」
小さく息を吐く。
名義も手に入った。前受金も受け取った。
ここから、本格的に事業が始まる。
乾燥小屋をどうするか。棚をどう増やすか。人手をどこまで確保するか。工程の基準も決め直さなければならない。
やることは、山ほどある。
窓の外では畑道が続き、やがて石畳が増えていった。街道も広くなり、伯爵家の領地へ近づくにつれて、人や荷馬車の往来が目に見えて増えていく。
「……まさか、私が」
ぽつりと声が漏れた。
グラーフ伯爵との出会いが、こんなにも自分の世界を変えるなんて、思ってもみなかった。
馬車が小さく揺れ、車輪が石を踏む音が変わる。
「お礼を言うだけなのに……」
指先が落ち着かない。
お忙しい方だもの。
そんな時間はないはずなのに、わざわざ予定を空けてくださった。
無駄なく報告しないと。
やがて伯爵邸が視界に入った。
胸の奥が落ち着かないのは、緊張なのか、それとも期待なのか。自分でもよく分からない。
思わず指先を握りしめる。
馬車が速度を落とし、高い鉄門の前へ近づいた。門番が確認を済ませると門が開き、そのまま敷地へ入っていく。
砂利を踏む音が続き、やがて屋敷の前で止まった。
御者が扉を開ける。
私が馬車から降り立った、そのとき――屋敷の扉が開いた。
中から、一人の令嬢が姿を現す。
菫色のドレスを身につけ、背筋を伸ばして歩いてくる。
ふと、視線が合った。
令嬢は足を止め、ゆっくりと私を見ると、小さく微笑んだ。
「……失礼。お客様かしら」
思わず背筋を伸ばす。
「……はい。ご挨拶に」
はっとして名乗った。
「エリナ・フォン・リュークハルトと申します」
「まあ、リュークハルト様」
令嬢は微笑みを崩さない。
「クラウゼン子爵家のヴィオラと申します」
軽く会釈したあと、その視線が一瞬だけ私の装いを確かめた。
「伯爵にご挨拶にいらしたのね。今日は来客も多いようですけれど……」
小さく首を傾げる。
「お時間は頂いていらして?」
「はい……」
ヴィオラの目が、ほんのわずかに細くなった。
「まあ、それはよろしゅうございました」
扇を軽く閉じる。
「伯爵はお忙しい方ですもの。どなたでもお会いできるわけではございませんし、お時間を頂いていらっしゃるのなら安心いたしましたわ」
柔らかな笑みのまま、最後に付け加える。
「お邪魔にならないと良いのですけれど」
5章はここまでです。
次回土曜から連載再開します。




