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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳@集英社WEB小説大賞金賞
五章

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第8話 

夫人が茶器を置き、ふと微笑んだ。


「エリナさん。名義を取られたのなら――きちんとお礼を申し上げる方がいらっしゃるのでは?」


目を瞬く。


「……お礼、ですか?」


「ええ。あなたが一人で掴んだわけではないでしょう?」


夫人はカップから手を離した。


「名義は立場です。立場を得たら、挨拶をする。それが次に繋がるの」


喉が、ひくりと鳴った。


「……はい」


夫人はくすりと笑う。


「せっかくですもの。堂々といらっしゃいな」


――その言葉が、胸に残った。


屋敷に戻ったその日のうちに、アーネストへ書状を出した。


『名義取得のご報告と御礼を申し上げたく、拝謁の機会を賜れましたら幸いに存じます』


彼はきっと多忙だ。時間など設けてもらえないかもしれない。


そう思っていたのに、返書はその日のうちに届いた。


『承知した。○日○時。執務室にて』


手紙を持つ手が、わずかに震えた。


◆


そして今日。


鏡の前に立ち、自分の姿を確かめる。


身につけているのは、明るい桃色のワンピースだった。襟元と袖口には細いレースがあしらわれている。


「……可愛すぎ?」


裾へ視線を落とす。


もっと落ち着いた色の方が良かっただろうか。


けれど、これを選んでくれた夫人は言っていた。


『明るい色も似合ってるわ』


それから、少し困ったように肩をすくめて、


『夫が選んでくれたのだけれど……さすがに私には若すぎましてね』


そう言って譲ってくれた一着だった。


鏡の中の自分をもう一度見つめる。


「……もう時間ね……」


手土産の包みを持ち、部屋を出た。


廊下を歩いていると、角を曲がったところで姉と鉢合わせる。


姉の視線が、ゆっくりと私の頭から足元まで滑った。わずかに眉が動く。


「……その服、見慣れないわね」


私は裾をつまんだ。


「……いただいたの」


「グラーフ伯爵に?」


「えっ……違うよ。別の方に」


姉は一瞬だけ黙った。


「……あなたの顔色を明るく見せるわね」


「そ、そうかな……」


「それで、どこへ着ていくの?」


「……ご挨拶に」


「誰に?」


「……グラーフ伯爵」


「……そう」


姉はそれだけ言うと、少し距離を詰めた。袖口に触れ、布地を指先で確かめる。


「悪くないわ。けれど、覚えておきなさい」


「え……?」


「明るい色は場を和らげるけれど、軽くも見えるわ」


息を呑む。


「あなたが何を得たのかを示しに行くのなら、服に着られないことね」


「うん……」


「……でも、似合っているわ」


そう言うと、姉はすぐに背を向けた。


「時間なのでしょう? 遅れる方が印象は悪いわよ」


「……はい」


姉の背中を見送ってから、私は玄関へ向かった。


◆


馬車に揺られながら、窓の外を眺める。


自領の屋敷は、もう遠くなっていた。


規格外の干し無花果は、すべて買い取ってもらえた。金額はもちろん正規品より安い。それでも、一か月分以上の品が無駄にならずに済んだ。


「……助かった」


小さく息を吐く。


名義も手に入った。前受金も受け取った。


ここから、本格的に事業が始まる。


乾燥小屋をどうするか。棚をどう増やすか。人手をどこまで確保するか。工程の基準も決め直さなければならない。


やることは、山ほどある。


窓の外では畑道が続き、やがて石畳が増えていった。街道も広くなり、伯爵家の領地へ近づくにつれて、人や荷馬車の往来が目に見えて増えていく。


「……まさか、私が」


ぽつりと声が漏れた。


グラーフ伯爵との出会いが、こんなにも自分の世界を変えるなんて、思ってもみなかった。


馬車が小さく揺れ、車輪が石を踏む音が変わる。


「お礼を言うだけなのに……」


指先が落ち着かない。


お忙しい方だもの。


そんな時間はないはずなのに、わざわざ予定を空けてくださった。


無駄なく報告しないと。


やがて伯爵邸が視界に入った。


胸の奥が落ち着かないのは、緊張なのか、それとも期待なのか。自分でもよく分からない。


思わず指先を握りしめる。


馬車が速度を落とし、高い鉄門の前へ近づいた。門番が確認を済ませると門が開き、そのまま敷地へ入っていく。


砂利を踏む音が続き、やがて屋敷の前で止まった。


御者が扉を開ける。


私が馬車から降り立った、そのとき――屋敷の扉が開いた。


中から、一人の令嬢が姿を現す。


菫色のドレスを身につけ、背筋を伸ばして歩いてくる。


ふと、視線が合った。


令嬢は足を止め、ゆっくりと私を見ると、小さく微笑んだ。


「……失礼。お客様かしら」


思わず背筋を伸ばす。


「……はい。ご挨拶に」


はっとして名乗った。


「エリナ・フォン・リュークハルトと申します」


「まあ、リュークハルト様」


令嬢は微笑みを崩さない。


「クラウゼン子爵家のヴィオラと申します」


軽く会釈したあと、その視線が一瞬だけ私の装いを確かめた。


「伯爵にご挨拶にいらしたのね。今日は来客も多いようですけれど……」


小さく首を傾げる。


「お時間は頂いていらして?」


「はい……」


ヴィオラの目が、ほんのわずかに細くなった。


「まあ、それはよろしゅうございました」


扇を軽く閉じる。


「伯爵はお忙しい方ですもの。どなたでもお会いできるわけではございませんし、お時間を頂いていらっしゃるのなら安心いたしましたわ」


柔らかな笑みのまま、最後に付け加える。


「お邪魔にならないと良いのですけれど」

5章はここまでです。

次回土曜から連載再開します。

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― 新着の感想 ―
お姉さん、意地悪そうで優しさも隠れてる気がします。 お見合い相手やねこそう、、、
 二種以上の淡い色のドレスに、桃のワンピース……浮かれすぎにも慣れと贅沢に呑まれすぎにもならぬ域で、これまでと違う反応を見せつつ着こなすエリナさん。  今回のリディアさんの発言は単なる忠告とも、妹に贈…
この婚約者候補、性格悪そうだなぁ。
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