第3話
屋敷に戻った頃には、空がすっかり茜色に染まっていた。
玄関前まで来ると、扉が少し遅れて開いた。中から顔を出した使用人が、私の姿に気づいて慌てて頭を下げる。
「……お帰りなさいませ」
「ただいま」
声が、思ったよりも掠れていた。
「……いっぱい話したからかな」
応接室で張り詰めていた糸が、ようやく切れた気がする。
屋敷へ入り、長い廊下を歩く。
「このまま部屋に戻りたい……」
けれど、そういうわけにもいかない。
「……お父様には、報告しないと」
私はその足で、父の執務室へ向かった。部屋の前で一度、深く息を吸ってから扉をノックする。
「……失礼します」
中から短い返事が聞こえたので、扉を開ける。
父は机に向かったまま、書類から顔も上げなかった。
「終わったか」
「はい。水路の管理費を両領で積み立てる案について、先方も暫定的に合意しました」
「そうか」
……いつも通りの反応だ。
「それでは――」
「詳しい内容は、あとで報告書にまとめて置いておけ」
顔を上げないまま、父は言った。
「次の話し合いまでに決めることも書いておけ」
「……分かりました」
私は小さく頷き、一礼して執務室を出た。
扉が閉まった瞬間、肩の力が抜ける。
「……やっと終わった」
数歩進んだところで、足が止まった。
「違う……まだ、話し合いの内容をまとめないといけないんだった」
両領が毎年積み立てるという基本方針。積立額の算定方法と、修繕を行う際の手順。それから、先方が持ち帰って確認する事項……。
頭の中には残っているけれど、忘れないうちに書き出しておかなければならない。
「でも、先に少しくらい休んでもいいよね……」
私は力の抜けた足取りで、自室へ向かった。
そういえば、お腹も空いている。今日の夕食は何だろう。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、途中で足が止まった。
姉の部屋の扉が、開いていた。
「……今日も夜会?」
中では、姉付きの侍女と手伝いの女中が忙しなく動き回っている。そしてベッドの上には、見覚えのないドレスが広げられていた。
深い葡萄色の生地に、金糸の刺繍。裾には細かな花模様が入り、胸元には同じ色の宝石まで縫いつけられている。
ぎょっとして、思わず声が出た。
「また買ったの?」
鏡の前に座っていた姉リディアが、鏡越しにちらりとこちらを見た。侍女が、姉の唇へ紅を引いている。
「当たり前でしょ。今度は重要な夜会なんだから」
「でも、この間も仕立てたばかりじゃない」
「だから?」
姉は何でもないことのように言う。
侍女が紅筆を離すと、リディアは鏡の中の自分を確かめた。
「夜会ごとに同じような格好をしていたら、家の格まで疑われるでしょう」
「……だからといって」
――うちは、裕福じゃない。
そう言いかけて、言葉が喉で止まった。
「それは、お父様が考えることでしょ」
私は何も返せない。口だけが、情けなく開いたままだった。
そのとき、開いた扉の向こうを兄のレオンが通り過ぎていくのが見えた。
「……お兄様」
呼び止めると、兄は振り返りもせずに歩き続ける。
私は慌てて部屋を離れ、その後を追った。
「お姉様、またドレスを買っていて……」
兄は足を止めないまま、即答した。
「必要経費だろ」
「でも、この間も仕立てたばかりで――」
「夜会に出るのは姉さんだ」
「……そうだけど」
兄は肩をすくめた。
「人前に出るのが苦手なお前の代わりに、姉さんが参加してくれてるんだろ」
一瞬だけ、横目でこちらを見る。
「感謝しろよ、姉さんに」
そう言われると、何も言えなかった。
「……はい」
兄はそれきり、振り返らずに行ってしまった。
◆
部屋に戻り、扉を閉めたところで、私は小さくうめいた。
「うう……」
先ほど見た、姉のドレス。
あの刺繍と仕立ては、王都で人気の仕立て屋〈ル・クローネ〉のものだ。
……想像しただけで、頭が痛くなる。
姉のお下がりをもらっているせいで、変なところだけ目が肥えてしまった。生地の質も、刺繍の細かさも、縫い目の丁寧さも、嫌でも分かる。
あれが、安いはずがない。
「水路の修繕費の積み立ても、考えなきゃいけないのに……」
思わず頭を抱える。
両領で同額を出すとしても、こちらの負担が消えるわけではない。毎年の積立額を、どこから捻出するのか。
それを考えるのは、きっと私なのだろう。
ふと、以前に姉から言われた言葉が蘇った。
『夜会なんて退屈でしょう? 見知らぬ人と話すの、苦手じゃない』
……その通りだ。
仕事の話なら、いくらでも言葉が出てくる。予算も条件も、頭の中で順番に整理できる。
でも、雑談になると途端に口ごもってしまう。
『私が行ってあげる』
そう言われたとき、ありがたいと思った。実際、助かっている。
姉は私と違って華やかだ。夜会へ行けば、誰とでも楽しそうに話している。
私には、あんなことはできない。
――でも。
クローゼットの隙間から、姉から譲られたドレスの裾がはみ出している。
「そんなに、着飾る必要があるの……」
以前、一度だけ姉にぼやいたことがある。
すると姉は、当然のように言った。
『家の体面ってものがあるでしょ』
……確かに。
お金がないなんて、世間に知られるわけにはいかない。
私は机の上の書類を脇へ寄せ、その下に埋もれていた一冊の本を引っ張り出した。
恋愛小説。私の、ささやかな趣味だ。
読んでいる間だけは、現実を忘れられる。
「最近、まともに読めていないな……」
ぱらぱらと頁をめくる。
ちょうど、主人公が仮面舞踏会へ忍び込む場面だった。
正体を隠した令嬢が、煌びやかな広間の隅で一人きりになっている。そこへ見知らぬ青年が近づき、彼女へ手を差し出す。
『お一人ですか、可憐なお嬢さん』
「……こんなこと、本当にあるのかな」
思わず呟く。
仮面越しに見つめ合い、そのまま二人は踊り始める。
夜会か……。
私も夜会に出れば、誰かと出会えるのかな。
……でも、普段は領民としか話していないのに、何を話せばいいんだろう。
「……はぁ」
私は本を閉じ、そのままベッドへ倒れ込んだ。
お腹が空いていたはずなのに、起き上がる気力が残っていない。
報告書も、夕食も、少し休んでから。
そう思って目を閉じた。
私は着替えることもないまま、そのまま眠りに落ちた。
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