第2話
翌朝。
意識が浮上するより先に、身体が動いていた。
寝ぼけたまま、私は枕元の呼び鈴を鳴らす。
――ちりん。
しばらく待ったが、扉の向こうに人の気配はない。少し間を置いて、もう一度鳴らした。
「……やっぱり、来ない」
鈴の音だけが、静かな部屋に残った。
うちは、裕福な家ではない。
以前はもう少し使用人がいたけれど、給金の支払いが遅れるようになってから、勤続の長い者から少しずつ辞めていった。
残った使用人も、今は姉の夜会続きに人手を取られている。昨夜使ったドレスや装飾品の片づけだけでも手いっぱいで、朝から私の呼び鈴に応じる余裕などないのだろう。
そもそも、私には専属の侍女がいない。
「仕方ないか……」
ため息をついて、ベッドから降りる。
洗面台に置かれていた水差しから陶器の鉢へ水を注ぎ、顔を洗った。
髪は櫛で整え、後ろで一つにまとめる。多少不格好でも、顔にかからなければいい。
次に、クローゼットを開いた。
中に並んでいるのは、ほとんどが姉の着なくなった服だった。
鮮やかな赤紫。光沢のある若草色。袖口を幾重ものレースで飾ったものに、胸元へ小さなリボンをいくつも縫いつけたもの。
どれも生地だけは上等だ。けれど、姉に合わせて仕立てられた服は、色も飾りも私には華やかすぎた。
「どれを着よう……」
一着ずつ眺めながら、私は眉を寄せる。
今日は隣領との話し合いだ。さすがに、胸元いっぱいに花の刺繍が入った桃色のドレスで出向くわけにはいかない。
「これなら……まだ、ましかな」
奥から、くすんだ青色のデイドレスを引き出した。襟元は詰まり、袖も手首まである。裾も広がりすぎていない。
胸元に銀糸で蔓草の刺繍が施されているのが少し気になるけれど、ほかの服に比べればずっとましだった。
鏡の前で身体に当ててみる。
姉より背の低い私に合わせて裾は直されているものの、肩の辺りがわずかに余っていた。
「……まだ、まし。うん」
それ以上考えるのをやめた。
背中の留め具にも、もう慣れている。手の届きにくいところだけ少し苦労しながら留め、腰の紐を結ぶ。
最後にもう一度だけ鏡を見てから、私は部屋を出た。
◆
食堂に入ると、すでに父と兄が席についていた。
父は届いた書簡に目を通し、兄のレオンは眠そうに紅茶を口へ運んでいる。
「……おはようございます」
「おう」
父は視線だけをこちらへ寄越し、すぐに書簡へ戻した。
「おはよ」
兄は、あくび混じりに答える。
席につきながら、私は空いている椅子を見た。
「お姉様は?」
「ああ。まだ寝てる」
兄がパンをちぎりながら答える。
「夜会続きで疲れたから、今朝は起こすなってさ」
「昨夜は、遠いお屋敷だったのですか?」
「いや。グラーフ家だから、そこまで遠くないだろ」
それなら、帰宅が遅かったのは距離のせいではないらしい。昨夜も随分遅くまで楽しんでいたのだろう。
私は冷めたパンをスープへ浸しながら、口を開いた。
「今日、隣領との件で話し合いに行きます」
「うん」
父は、それだけ言った。
「任せた」
兄も、当然のように続ける。
私は一瞬だけ、父の顔を見た。
昨夜、遅くまで帳簿と記録を並べて考えた案について、尋ねないのね……。
どのような方針で話すつもりなのかも。
「……私一人で、ですよね」
「他に誰がいるんだ?」
兄は、本当に不思議そうに言った。
父も否定しなかった。
私はスプーンを置き、小さく息を吸う。
「……分かりました」
もう一度、スープを口へ運ぶ。具はほとんど残っておらず、薄い塩味がするだけだった。
◆
隣領との話し合いは、伯爵家が管理する境界近くの別邸で行われることになっていた。
私は約束の時刻より、少し早く到着した。
「別に、早く来る必要なんてないのにね」
案内された部屋へ入ると、相手方はすでに揃っていた。
隣領伯爵家の代理として来たのは、三人だった。白髪の混じった年配の文官と、書類を抱えた若い補佐。
そして、中央の席で腕を組んでいる男には、見覚えがあった。
「隣領伯爵家の代官、マルセルです」
男は立ち上がることなく、薄い笑みを浮かべた。
「本日は、わざわざ当方の管理地までお越しいただいたそうで」
「本件について、話し合いの場を設けていただき、ありがとうございます」
そう返し、私は向かいの席へ腰を下ろした。
相手方の視線が、一瞬だけ私の胸元に集まった。
やっぱり、話し合いに着てくる服ではないよね……。
「それで?」
マルセルは、こちらの用意した書類を見ることもなく言った。
「本日の責任者は、どちらに?」
「私が対応いたします」
次の瞬間、若い補佐が顔を上げた。年配の文官も、わずかに眉を動かす。
そしてマルセルは、はっきりと鼻で笑った。
「……ああ。そちらも人手不足ですか」
椅子の背へ身体を預け、私を眺める。
「まさか、これほどお若い方が来られるとは思いませんでしたのでね」
「案件の整理と提案については、私が一任されております」
「提案ねえ」
マルセルは息を吐いた。
「境界線の件でしょう? 正直、今さら話し合う余地などないと思っておりますが」
隣に座る年配の文官が、制止するような視線を送る。
だが、マルセルは気づかないふりをして続けた。
「こちらは、先祖代々の取り決めに基づいて動いている。そちらが納得できないのは勝手ですが――」
そこで言葉を切り、改めて私を見る。
「失礼ですが、あなた。この手の交渉には慣れていらっしゃるのですか?」
一瞬、頬が熱くなるのを自覚した。
――舐めてくれちゃって。
私は資料を一枚、机の中央へ置いた。
「まず、こちらをご覧ください」
マルセルは露骨に面倒そうな顔をしたものの、紙へ目を落とした。
次の瞬間、その眉がわずかに動く。
「……これは?」
「収穫期に両領の境界を越えて使用されている水路について、過去十年分の記録をまとめたものです」
私は資料の上部を指で示した。
「水路の使用実績。修繕の時期。それから、維持にかかった費用です」
マルセルは黙って頁をめくる。
隣の若い補佐が、身を乗り出して書類をのぞき込んだ。
「修繕費、浚渫費、人足代……。これは、すべて実際の支出ですか?」
「はい。両領に残っている記録と、商会や職人へ支払った金額を照合しています」
私は表の下段を軽く叩いた。
「現在は修繕が必要になるたびに、どちらが費用を負担するかで揉めています。その結果、必要な整備が後回しになっている」
一拍置いてから、マルセルを見る。
「このままでは、水路そのものが数年以内に使用できなくなる可能性があります」
私は、もう一枚の資料を差し出した。
「ですから、こちらを提案します」
若い補佐が内容を読み、声を落とす。
「過去十年分の平均管理費を基準にして、両領が毎年、同額を積み立てる……?」
「はい。水路をどちらか一方の財産として扱うのではなく、両領の管理を必要とする設備として扱います」
マルセルは、しばらく黙っていた。
資料を閉じ、指先で机を軽く叩く。
「……なるほど」
先ほどまで浮かべていた薄笑いは、消えていた。
「境界線そのものの決着をつけず、管理責任だけを共有する。そういうことですか」
「はい」
年配の文官が、低く息を吐いた。
「少なくとも、理屈は通っておりますな」
マルセルは資料をもう一度開いた。
先ほどまでとは違う目で私を見る。
「失礼しました」
わずかに姿勢を正す。
「続きを、聞かせていただけますか」
私は、にこりと微笑んだ。
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