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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました  作者: 福嶋莉佳
一章

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第1話

母が亡くなる前、私に言い残した言葉は、家のことだった。


「エリナ……家のこと、お願いね。あなたが一番、頼りになるから……」


そう言って、母は目を閉じた。


その言葉は私の胸の奥に落ちて、そのまま沈んだ。


――ずっと。


今になって思えば、あれは呪いだったのかもしれない。



カリカリ、とペンの音だけが続いている。


……間に合うだろうか。


書類から目を離せないまま、そんなことを考えていた。


「……お嬢様。エリナお嬢様」


執事のセバスの声に、はっと顔を上げる。どうやら、何度も呼ばれていたらしい。彼は、わずかにうんざりしたような顔をしていた。


「領地の件で、少々厄介な話が来ております」


「……え、また?」


喉まで出かかった言葉を、慌てて飲み込む。


机の上には、まだ手をつけきれていない書類が積み上がっている。今月分の調整だけでも終わりが見えないのに。


「お父様は?」


「居間にいらっしゃいます」


嫌な予感がした。こういう話は、いつも私のところに回ってくる。


それでも、足は居間へ向かっていた。


扉を開けると、父と兄と姉が揃ってソファに座っていた。


父――ローレンスは、優雅に紅茶を飲んでいる。兄のレオンは、本を片手に頁をめくっていた。姉のリディアは、開いた扇子で指先を遊ばせている。


セバスが一歩前に出て、淡々と説明を始めた。


「隣領との境界について、また小競り合いがありまして――」


話は、そう長くはなかった。


「ああ、そうか」


レオンが、本から目を上げることもなく相槌を打つ。


「またなのね」


リディアは、面倒そうに肩をすくめただけだった。父は何も言わない。視線は、テーブルの上に落ちたままだ。


沈黙が落ちる。


「……お父様。どうしましょう」


誰も口を開かないから、私が尋ねた。


「お前がやればいいだろう」


レオンが、あっさりと言う。


……やっぱり、そうなる。


「ですが、今、急ぎで片づけなければならない案件が――」


「だからだろう」


被せるように、兄が言った。


「お前が一番分かっているし、一番早い」


「……お兄様、それでは――」


「他に誰がやる?」


言葉を遮るように、レオンが続ける。


父が、短く言った。


「家のことだ。後回しにできるものは、後でいい」


――どれも、後回しにはできないのに。


ちらりと姉を見る。


リディアは、テーブルの上の紅茶に視線を落としていた。まだ湯気の立つそれを、ゆっくりと一口含む。


「先延ばしにはできないの?」


「……難しいと思います」


「そう」


リディアはカップをソーサーへ戻した。


「でも、私には夜会の準備があるの。それに、詳しいことも分からないし」


そう言って、立ち上がる。


「もういいかしら? 衣装の最終確認をしなくてはいけないの」


「……私がやります」


言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「では、任せた」


レオンが即答する。


「大丈夫よ。エリナなら、きっと上手くできるわ」


リディアも、当然のように続けた。


父はようやく顔を上げ、短く頷く。


「よろしく頼む」


それだけだった。


セバスが必要書類を差し出してくる。


「では、詳細はこちらに」


私はそれを受け取った。


母の言葉が、頭の中で静かに響く。


『家のこと、お願いね』


深く息を吸って、頷いた。


「……分かりました」



重い足取りで、自室へ戻る。


扉を開けた瞬間、肩が強張った。


広くはない部屋なのに、床も机も、すでに余白はほとんど残っていない。


「ああ……全然、片づけも進まない……」


サイドテーブルの上には、紅茶のカップが置かれていた。いつ淹れてもらったものだったか、思い出せない。


呼び鈴を鳴らす。


――反応はない。


少し待ってから、もう一度鳴らした。それでも、誰も来なかった。


……たぶん、姉の夜会の支度だろう。


着つけだの、髪結いだの、準備は多い。屋敷では、必要最低限の侍女しか雇っていない。誰かの用事が重なれば、すぐに手が足りなくなる。


そして、そういうときに後回しになるのは、いつも私だった。


私はカップを手に取った。


「……苦い」


冷めきった紅茶を、それでもそのまま飲み干す。


机に向かい、領地の件の資料を広げた。


五年前に引かれた仮の境界線。三十年前に作られた古い地図。収穫期にだけ越境する水路。


どちらの領地も、先祖同士の約束を理由に譲らないらしい。


「約束をした当事者は、もう誰も生きていないのに……」


そんな揉め方をしないでほしい。


一人で呟きながら、どちらにも角が立たないよう、無難な案を組み立てていく。けれど、それだけにかかりきりになるわけにもいかない。


放っておけば積み上がる案件にも、順番に手を伸ばす。


「後回しにはできないって……言ったのに……」


小さく呟き、ペンを走らせた。書き上げた書類をまとめ、セバスへ渡すための封筒に入れる。


手帳を開き、明日の予定を確認した。


「……休めると思ったのに」


机の上には、ほんの少しだけ余白が生まれていた。その代わり、頭の奥がずしりと重い。


最後の書類に目を通し終えた頃、窓の外はすっかり暗くなっていた。


「……嘘。もう、こんな時間?」


ペンを置く。


「……いたっ」


乾燥で裂けた指先が、じんと痛んだ。そこへインクが染み込み、思わず顔をしかめる。


指先を押さえながら、深く息を吐いた。ベッドへ向かい、そのまま身体を倒す。


シーツが軋む音を聞きながら、天井を見つめた。


「……疲れた……」

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― 新着の感想 ―
 母からの信頼が、そのまま呪縛になってるうえ、相手が故人ゆえに向こうから取り消しできないのきついですねえ。  業務を全くやろうとしない、しても分からないではなく一番分かる人物がいるから分かろうとしない…
父親なにもしないって婿養子だったんかねえ
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