第1話
母が亡くなる前、私に言い残した言葉は、家のことだった。
「エリナ……家のこと、お願いね。あなたが一番、頼りになるから……」
そう言って、母は目を閉じた。
その言葉は私の胸の奥に落ちて、そのまま沈んだ。
――ずっと。
今になって思えば、あれは呪いだったのかもしれない。
◆
カリカリ、とペンの音だけが続いている。
……間に合うだろうか。
書類から目を離せないまま、そんなことを考えていた。
「……お嬢様。エリナお嬢様」
執事のセバスの声に、はっと顔を上げる。どうやら、何度も呼ばれていたらしい。彼は、わずかにうんざりしたような顔をしていた。
「領地の件で、少々厄介な話が来ております」
「……え、また?」
喉まで出かかった言葉を、慌てて飲み込む。
机の上には、まだ手をつけきれていない書類が積み上がっている。今月分の調整だけでも終わりが見えないのに。
「お父様は?」
「居間にいらっしゃいます」
嫌な予感がした。こういう話は、いつも私のところに回ってくる。
それでも、足は居間へ向かっていた。
扉を開けると、父と兄と姉が揃ってソファに座っていた。
父――ローレンスは、優雅に紅茶を飲んでいる。兄のレオンは、本を片手に頁をめくっていた。姉のリディアは、開いた扇子で指先を遊ばせている。
セバスが一歩前に出て、淡々と説明を始めた。
「隣領との境界について、また小競り合いがありまして――」
話は、そう長くはなかった。
「ああ、そうか」
レオンが、本から目を上げることもなく相槌を打つ。
「またなのね」
リディアは、面倒そうに肩をすくめただけだった。父は何も言わない。視線は、テーブルの上に落ちたままだ。
沈黙が落ちる。
「……お父様。どうしましょう」
誰も口を開かないから、私が尋ねた。
「お前がやればいいだろう」
レオンが、あっさりと言う。
……やっぱり、そうなる。
「ですが、今、急ぎで片づけなければならない案件が――」
「だからだろう」
被せるように、兄が言った。
「お前が一番分かっているし、一番早い」
「……お兄様、それでは――」
「他に誰がやる?」
言葉を遮るように、レオンが続ける。
父が、短く言った。
「家のことだ。後回しにできるものは、後でいい」
――どれも、後回しにはできないのに。
ちらりと姉を見る。
リディアは、テーブルの上の紅茶に視線を落としていた。まだ湯気の立つそれを、ゆっくりと一口含む。
「先延ばしにはできないの?」
「……難しいと思います」
「そう」
リディアはカップをソーサーへ戻した。
「でも、私には夜会の準備があるの。それに、詳しいことも分からないし」
そう言って、立ち上がる。
「もういいかしら? 衣装の最終確認をしなくてはいけないの」
「……私がやります」
言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「では、任せた」
レオンが即答する。
「大丈夫よ。エリナなら、きっと上手くできるわ」
リディアも、当然のように続けた。
父はようやく顔を上げ、短く頷く。
「よろしく頼む」
それだけだった。
セバスが必要書類を差し出してくる。
「では、詳細はこちらに」
私はそれを受け取った。
母の言葉が、頭の中で静かに響く。
『家のこと、お願いね』
深く息を吸って、頷いた。
「……分かりました」
◆
重い足取りで、自室へ戻る。
扉を開けた瞬間、肩が強張った。
広くはない部屋なのに、床も机も、すでに余白はほとんど残っていない。
「ああ……全然、片づけも進まない……」
サイドテーブルの上には、紅茶のカップが置かれていた。いつ淹れてもらったものだったか、思い出せない。
呼び鈴を鳴らす。
――反応はない。
少し待ってから、もう一度鳴らした。それでも、誰も来なかった。
……たぶん、姉の夜会の支度だろう。
着つけだの、髪結いだの、準備は多い。屋敷では、必要最低限の侍女しか雇っていない。誰かの用事が重なれば、すぐに手が足りなくなる。
そして、そういうときに後回しになるのは、いつも私だった。
私はカップを手に取った。
「……苦い」
冷めきった紅茶を、それでもそのまま飲み干す。
机に向かい、領地の件の資料を広げた。
五年前に引かれた仮の境界線。三十年前に作られた古い地図。収穫期にだけ越境する水路。
どちらの領地も、先祖同士の約束を理由に譲らないらしい。
「約束をした当事者は、もう誰も生きていないのに……」
そんな揉め方をしないでほしい。
一人で呟きながら、どちらにも角が立たないよう、無難な案を組み立てていく。けれど、それだけにかかりきりになるわけにもいかない。
放っておけば積み上がる案件にも、順番に手を伸ばす。
「後回しにはできないって……言ったのに……」
小さく呟き、ペンを走らせた。書き上げた書類をまとめ、セバスへ渡すための封筒に入れる。
手帳を開き、明日の予定を確認した。
「……休めると思ったのに」
机の上には、ほんの少しだけ余白が生まれていた。その代わり、頭の奥がずしりと重い。
最後の書類に目を通し終えた頃、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「……嘘。もう、こんな時間?」
ペンを置く。
「……いたっ」
乾燥で裂けた指先が、じんと痛んだ。そこへインクが染み込み、思わず顔をしかめる。
指先を押さえながら、深く息を吐いた。ベッドへ向かい、そのまま身体を倒す。
シーツが軋む音を聞きながら、天井を見つめた。
「……疲れた……」
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