第6話
家族が出かけてから数日。
屋敷に人の気配は少なくなったが、仕事は途切れなかった。
「エリナ様、水路下流側から確認の書簡が届いております」
「収穫量の報告書も、こちらに」
差し出された紙束を受け取り、ざっと目を通す。どれも一つ一つは小さなことだけれど、放っておけば積み重なって面倒になる。
「水路の件は、私が確認します。収穫量が増えているなら、納屋の空き状況を確認して。搬出の回転が追いついているかも見ておいて」
指示を出すと、控えていた執事が一礼した。
「かしこまりました。確認のうえ、午後にはご報告を」
そう言って下がっていくのを見送り、私はふう、と息を吐いた。
……やっぱり、残ってよかったのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がすっと冷える。
つまり……私がいないと、この家は成り立たないのでは――?
ずっとこうだったはずなのに、なぜか今になって胸が重くなった。
父の政務室を出て、自室へ戻る。扉を開けると、柔らかな香りが鼻先をくすぐった。
窓辺の小さな卓には、あの花が飾られている。市で渡された花束は、いくつか花びらを落としたものの、まだ鮮やかな色を残していた。
「……もちがいいなぁ」
花瓶の水を替え、傷んだ茎の先を少しだけ切る。
――ただの実演だ。
あのときの低い声が、ふいによみがえった。
「それでも……」
花をもらうなんて、物語の中だけの出来事だと思っていた。
呼び鈴を鳴らすと、侍女がすぐに現れる。
「紅茶をお願い」
「かしこまりました」
一礼して下がった侍女は、しばらくすると湯気の立つ紅茶を運んできた。
「ありがとう」
今日は仕事も一区切りだ。久しぶりに本棚へ手を伸ばす。
「久しぶりに読めるな……どれにしよう」
選んだのは、若い伯爵と令嬢の恋愛物語だった。
ソファに腰を下ろし、紅茶の湯気を眺めながら頁をめくる。
――冷静沈着な伯爵は、令嬢を街へ連れ出した。
『君に見せたいものがある』
二人は広場を歩き、茶屋で向かい合い、最後に伯爵が季節の花を一輪差し出す。
『これは、今日の記念だ』
「……え?」
手が止まった。
もう一度、その頁を読む。
街に行って。
お茶して。
花をもらって。
ぱたり、と本を閉じた。
頬がじわりと熱を帯びる。
「これ……一緒……?」
紅茶のカップを持つ手が、わずかに震えた。
「……いや、違うわよね」
慌てて首を振る。
あれは視察だ。領地より人を見る日だと言っていたし。
『お前も含めてな』
馬車の中で聞いた言葉が、やけにはっきりと思い出される。
「どういう意味だったのかな……」
本を膝に置いたまま、天井を見上げる。
「まさかね……」
だって、知り合って間もないのよ?
それに年も離れてるし……お姉様の方がお似合いだわ。
姉の姿が浮かぶ。父譲りのブロンドに、切れ長の青い目。誰が見ても目を引く、整った顔立ち。
それに比べて――
鏡台に映る自分を見る。
母譲りの黒い髪に、目立たない顔立ち。
「はぁ……」
机に額をつけるように伏せる。
お姉様みたいだったら……
――がばっと顔を上げた。
「! な、何言ってるの……!?」
ぶんぶんと首を振る。
「ないない!」
……そんなことない!
そう思っているのに、なぜだか少し落ち着かない。
視線が、また花へ向かう。
「……次の会でも、会えるのかな……」
ぽつりと漏れた言葉に、自分で驚いて口を押さえた。
それでも、次に会えるかもしれないと思うと、ほんの少し楽しみだった。頬がまた熱くなる。
「……小説の読みすぎよ」
誤魔化すように、紅茶を一口飲む。
次に会ったら、何を話そうかな。
仕事の話の方が、いいよね。
……殺伐としているけど。
紅茶を飲みながら、あの日の出来事を思い返す。
市の喧騒や花の香り。川沿いの茶屋で向かい合って話した時間。そして、帰り道の馬車から見た景色。
区切られた畑に、よく手入れされた道。川には何艘もの船が行き交っていた。
「……」
ふと、眉が寄る。
なんで、あんなに差があるんだろう。
資金が違うのは分かる。規模が違うのも分かる。
でも――
そもそも、なんでうちはお金がないの?
考えたこともなかった。
「……あれ?」
兄と父が管理している。それが当たり前だと思っていた。
私は納屋の在庫を数え、村から上がる苦情を聞き、必要な書類をまとめて兄に渡している。
なのに、家の資金がどこから入り、どこへ出ていっているのかは知らない。
「……私も、見た方がいいよね……?」
紅茶を机に置き、そのまま部屋を出た。
政務室へ向かう廊下の途中で、侍女に呼び止められる。
「エリナ様。お客様が」
「え?」
足を止めた。
「旦那様に面会をと」
「お父様? ……どうしよう……」
父の言葉がよみがえる。
――不在だと伝えておいてくれ。
確かに、そう言われている。
ただ、わざわざ屋敷まで足を運んでもらっているのに、用件も聞かずに帰してしまうのはどうなのだろう。
「……用件だけ、聞いておこうかな……」
小さく呟く。
「どなた?」
侍女は、わずかに視線を伏せてから答えた。
「商会の方のようです……」
「……商会?」
胸の奥に、妙な引っかかりが残った。
「……通して」
そう口にしながら、自分でもなぜ気になったのかは分からなかった。




