第5話
沈黙が落ちた。
アーネストは珈琲を一口含み、ゆっくりとカップを置いた。
「お前がいなくなったら、その家は回るのか」
「……え」
反射的に言葉が出た。
「無理です」
言った瞬間、はっとして口を押さえた。
あまりにも迷いなく答えてしまった。
「即答だな」
「……」
私は思わず、俯いた。
「兄は……判断はできます。でも、細かい調整や揉め事は長引きますし……全部を回すのは、難しいと思います」
口にしながら、胸の奥がざわついた。
「一生、兄の隣で生きるのか」
「え……そんな……」
否定しかけて、言葉が止まる。
考えたことが、なかった。
兄の隣で、足りないところを埋める。それがこの先も続くものだと、どこかで決めつけていた。
「縁談の話は」
「……ありません」
「一件もか」
「……はい」
胸が、ひやりと冷えた。
そういえば、名前が挙がったことはあっても、具体的に進んだことはない。
兄も父も、いつも話題を変えていた。
「都合がいいな」
思わず顔を上げた。
「都合……?」
「手放す理由がない。それが“家族の務め”か」
指先が、わずかに震えた。
私は、家族を支えていると思っていた。
でも、もし。
支えていたのではなく、都合よく使われていただけだとしたら。
アーネストは窓の外を流れる川へ目を向けたまま言った。
「お前は、どうしたい」
思考が真っ白になった。
「……何をですか……?」
「お前の人生の話だ」
視線だけが、こちらへ向く。
「支える側でいるのか。前に立つのか。それとも――別の場所へ行くのか」
卓上を指先で軽く叩く。
「選ばない限り、流れは変わらない」
胸の奥がざわつく。
「わ……わかりません……」
声が震えた。
今まで、家族だから。大切な相手だから。私が頑張らないと。
それが正しいと、疑いもしなかった。
それに――
「爵位は、兄が継ぐことは決まっていますし……」
言葉が途切れる。
「結婚の話なんて……ありませんし……」
私に、選択肢なんてないのではないか。
膝の上で、指先をぎゅっと重ねる。
「選択肢ならある」
瞬きをする。
「家に残り、兄の隣で働き続ける。だがその場合、条件を持て」
「……条件?」
「肩書きだ。責任の所在を明確にしろ。口約束ではなく、書面で残せ」
息が詰まった。
そんな発想は、なかった。
「婚姻を選ぶ。だが“嫁ぐ”のではない。役割を持って移れ」
アーネストはカップを持ち上げる。
「自分の立場を作れ」
「……立場?」
「家の中ではなく、外にだ。顧問でも、監督でもいい。名を出せ」
珈琲から立つ湯気が揺れる。
「お前は、もう仕事ができる。問題は、名義がないことだ」
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
「……そんなこと、父が許すでしょうか」
「許させる」
即答だった。
「家を回せる人間を、無条件で縛れると思うな。交渉してみろ」
交渉する側になるという発想など、一度もなかった。
アーネストが、わずかにこちらへ視線を戻す。
「例えば――俺と縁談を進める場合でも同じだ」
「……え?」
思わず目を見開く。
アーネストは何事もなかったように珈琲を口にする。
「どこへ行くにせよ、立場を持てと言っている。名のない働き手になるな」
ぽかんとしてしまう。
アーネストは焼き菓子を顎で示した。
「冷めるぞ」
はっとして手を伸ばす。
小さく一口かじると、甘さがゆっくりと広がった。
「……美味しい……」
思わず小さな声がこぼれる。
アーネストが言う。
「選ぶ練習だ」
「……え?」
「小さいことからでいい」
窓の外では、川が止まることなく流れていた。
◆
馬車は、茶屋を離れてからも一定の調子で揺れていた。
窓の外には川沿いの道が続き、市の気配が少しずつ遠ざかっていく。さっきまでの喧噪が嘘のように、風の音だけが耳に残った。
私は花束を膝に抱えたまま、ぼんやりと外を見つめていた。
――昨日から今日までのことを、頭の中でなぞる。
市の広さ。
荷揚げ場を行き交う人や荷物。
茶屋で飲んだ紅茶の香り。
そして、「立場」「名義」「条件」という、簡単に口にされて胸の奥へ沈んだ言葉たち。
……私、知らなかったんだな。
世間のことも。
家のことも。
ふいに、母の声がよみがえる。
――家のこと、お願いね。
あの言葉は、どういうつもりで私に残されたのだろう。
今は、その言葉を思い出すだけで胸の奥が少し痛む。
選ぶことなんて、できるのかな。
膝の上で指先を絡める。息を吸ってみても、胸のざわつきは収まらない。
ちらりと向かいを見る。
アーネストは書類に目を落としたまま、黙々と頁をめくっている。
……この人は、どうして私に教えてくれたのだろう。
ただの気まぐれ?
それとも――
答えは出ないまま、私はまた窓の外へ視線を戻した。
川面が夕日を受けて赤く染まっている。
「あれ……」
ぽつりと声が漏れた。
そういえば。
「……あの。今日、領地視察って言ってませんでしたっけ?」
「視察だ」
アーネストは短く答えた。
「だが今日は、領地より人を見る日だ」
一瞬だけ、こちらを見る。
「お前も含めてな」
馬車の揺れの中で、その言葉だけが妙にはっきりと響いた。




