第4話
市の中心から少し外れた場所に、その茶屋はあった。
川に面して建つ二階建ての木造建築で、白壁には汚れひとつなく、軒には落ち着いた彫刻が施されている。
「……すごく立派……」
思わず足を止める。
市中の茶屋とは思えない。街の中心にあっても、違和感のない佇まいだった。
「商人の顔が集まる場所だ」
隣でアーネストが言う。
「川を使う商いは、金額が大きい。軽く扱えば、信用が落ちる」
なるほど、と小さく息を呑む。
アーネストが扉を押し開けると、中には木の香りが残る広い空間が広がっていた。一階には長机が並び、帳面を広げた男たちが低い声で話し込んでいる。
入ってきた私たちに気づき、数人がこちらを見る。
だが、交わされたのは軽い会釈だけだった。
アーネストも同じように、小さく顎を引く。
――え……それで終わり?
男たちは何事もなかったかのように、再び話し合いへ戻っていった。
「いらっしゃいませ」
奥から店主らしき男が現れた。慌てる様子もなく、普段と変わらない様子でこちらを迎える。
「二階を使う」
「かしこまりました」
そのまま階段へ案内される。
私は後を歩きながら、一階を振り返った。
誰もこちらを見ていない……。
それが、かえって印象に残った。
二階は一階よりも人が少なく、窓際の席からは川と荷揚げ場が見渡せた。船が行き交い、木箱が次々と運ばれていく様子が小さく見える。
「座れ」
促され、向かいに腰を下ろす。
ほどなくして茶が運ばれてきた。店主が一礼して下がったところで、私は小声で問いかける。
「……領主が訪れても、皆さん、挨拶に来られないのですね……」
アーネストは茶を一口含んでから答えた。
「挨拶のために手を止めれば、その分だけ流れが鈍る」
視線は窓の外へ向けられている。
「ここは商いの場だ。私が来たからといって、優先順位が変わることはない」
「優先順位……」
その言葉が胸に残る。
兄も父も言っていた。
『領民は領主を立てるべきだ』
『秩序は上下で成り立つ』
それが当然なのだと、疑いもしなかった。
でも、ここではそれぞれが自分の役目を優先している。
それでも、無礼には見えない。
私は窓の外へ目を向けた。
川は止まらず、流れている。
もしかして。
止めていたのは領民ではなく――立場にしがみついていた、領主の側だったのだろうか。
やがて店主が卓上に品書きを置き、その場を離れた。
焼き菓子に、蜂蜜漬けの果実。塩味の干し肉や、川魚の軽い炙り。それに酒の種類もいくつか並んでいる。
「……」
どれにしよう。
正直、よく分からない。こんな店に入ったことは、ほとんどなかった。
甘いものがいいのか、それとも軽い食事のようなものがいいのか。
「……迷うな」
思わず口に出してしまい、はっとする。
ちらりと向かいを見る。
アーネストは何も言わず、茶を口にしながらこちらを見ていた。
「すみません……」
自分でも驚くほど、小さな声になった。
令嬢なら、こんなことで迷わず選ぶべきなのだろうか。
アーネストは茶を置いた。
「迷うことが、なぜ悪い」
顔を上げる。
「選ぶということは、考えているということだ。好きなものを選べ」
「……はい」
少しだけ肩の力が抜ける。
私は焼き菓子と紅茶を頼んだ。今は甘いものが食べたかった。
アーネストは「コーヒーを」と短く告げる。
注文を終えると、私は手持ち無沙汰になり、膝の上で指先を揃えた。
何か話した方がいいのだろうか。
そう考えていたときだった。
「お前の家では、何を任されていた」
低い声が落ちる。
「え……」
思わず顔を上げた。
「えっと……水路の見回りとか、収穫の数をまとめたりとか……」
思い出しながら答えていく。
「揉めごとがあれば、話を聞きに行きました。兄に渡す前の書類も、分かりやすいようにまとめていました」
どれも、目立つような仕事ではない。
私はカップを手に取り、少しだけ口をつける。
「水路は、誰と回った」
「村の代表と……下流側の家の方と」
「記録は」
「ええと……取水時間と、水位を残しました」
「揉めごとは」
「双方の言い分を書き出して、共通している部分から決めました」
――どうして、こんなことを聞くんだろう。
でも、不思議と嫌ではなかった。
アーネストがこちらを見る。
「それは、条件で分けたか」
「……はい」
「悪くない」
胸が、小さく跳ねた。
「地味な仕事だと、思っているのか」
図星を突かれて、息が詰まる。
「流れを維持する仕事だ」
アーネストが窓の外の川へ顎を向ける。
「継ぐのは兄だろう」
「……はい」
「なら、なぜお前がそこまで任された」
「え……」
どうして、だろう。
父は言った。
――兄が判断する前に、下準備をしておけ。
兄は言った。
――お前のほうが、揉め事は収められる。
それが当然なのだと思っていた。
「……兄の仕事を支えることが、家族としての務めだと……」
言いながら、わずかに声が揺れる。
――思っていた。
あれ……?
どうして私は、そう思っていたんだろう。
アーネストの視線が止まる。
「家族としての務めか」
アーネストはその言葉を繰り返した。
「悪くない考えだ」
その言葉に、ほっとしかける。
「だが、お前がやっていたのは補佐ではない」
「……え?」
「領主の仕事だ」
目を瞬かせる。
アーネストは窓の外へ視線を向けたまま続けた。
「水路の調整。収穫の記録。揉め事の整理……それは、ただ支えるための仕事ではない」
そのとき、控えめな足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
店員が皿を置く。
焼き菓子の甘い香りがふわりと広がり、私の前には紅茶、アーネストの前にはコーヒーが置かれた。
店員が一礼して離れていく。
私は、目の前の焼き菓子へ手を伸ばすことも忘れたまま、アーネストを見つめていた。




