【番外編】アーネストパッパ視点【十章あたり】
「アーネストに、気になる令嬢がいるみたいなの」
妻からそう聞かされたとき、私はしばらく言葉が出なかった。
「あいつに?」
「ええ。そう言ってるじゃない」
「クラウゼン嬢か?」
「違うわ。とても初々しい娘よ。見ているこちらまで楽しくなってしまうの」
「初々しい……」
どうにも、あいつとその言葉が結びつかない。
これまで縁談はいくつも持っていった。家柄も申し分なく、本人の評判も悪くない令嬢ばかりだったはずだ。それでもアーネストは、誰に対してもろくに興味を示さなかった。
結婚そのものを嫌がっているわけではないらしいし、グラーフ家を継いだ以上、さすがに後継者を残すつもりがないとまでは言わないだろうが、いつまでもこの調子では困ると思っていたところだ。
「まあ、ようやくアーネストが結婚について考えるようになったのなら、悪い話ではないな」
ようやく、家を継いだ先のことまで考える気になったということか。
だいたい爵位だって、アーネストが自分でやりたいと言い出したから、私はさっさと譲ったのだ。別に、あの時点で引退する必要があったわけではない。能力に問題はなかったし、本人が望むなら任せればいいと思ったまでだ。
それに、あれはあれで自分の母親のことを考えていたのだろう。私が当主を退けば、その分、妻と過ごす時間も増える。そんなことまで考えていたのかもしれない。
ありがたいと言えばありがたい。ただ、それなら本人がもう少し母親の相手をしてやればいいのではないかとも思う。
昔から妙なところで気を回すくせに、肝心なところは不器用な息子だ。
「なら、少し調べてみるか……」
顎に手を当てて呟くと、妻がすぐに口を開いた。
「先に言っておくわ」
「ん?」
「あまりよくないわよ」
「……どこの家だ?」
「リュークハルト男爵家」
その名を聞いて、私は眉を寄せた。
「よりにもよって、なぜそこなんだ」
家格が釣り合わないことだけなら、まだいい。グラーフ家が今さら嫁の家柄だけで困ることはない。
問題は資産だ。
その後、少し調べさせてみたが、どうも余裕のある家ではないらしい。知れば知るほど、嫌な予感がしてくる。
「……借金まであるんじゃないだろうな」
アーネストがようやく自分から興味を持った相手だというのに、よりによって随分と面倒そうな家を選んだものだ。
そんなことを考えていた頃、最近、妻の機嫌がいいことに気づいた。
いや、妻はもともと明るい。よく笑い、人と話すことを好む女だった。
それでも、もう子供を望めないと分かった頃は違った。本人なりに受け入れようとしていたのだろう。人前ではいつも通りに振る舞っていたが、以前のようになるまでには随分とかかった。
その妻が今、机いっぱいに布地の見本やドレスの図案を広げている。
私はそのうちの一冊を覗き込んだ。
「新しいドレスでも買うのか?」
それにしては、妻が普段選ぶものより随分と若い。色合いも意匠も落ち着いてはいるが、明らかに妻の選びそうなものではなかった。
「ええ。わたくしのものではありませんけれど」
妻はページをめくりながら答えた。
その横顔を見て、思わず口にする。
「楽しそうだな」
妻は顔を上げた。
「ええ、とても」
本当に嬉しそうだ。
妻の人を見る目は信用している。長年、グラーフ家の夫人として大勢の人間を見てきた女だ。その妻が、ここまで気に入っている。
ならば、一度くらい本人を見てみる価値はあるだろう。
それでも、家格も資産もない男爵家の娘という点は引っかかった。
本当に大丈夫なのか。
そう思いながら、私はエリナ・フォン・リュークハルトという令嬢に会った。
そして――。
彼女が帰り、応接室の扉が閉まった。
私は椅子に座ったまま、机の上に残されたジャムの瓶を眺める。
金貨三百。
男爵家なら、地道に返したところで何年かかるか。
普通の娘なら、どうするだろう。そもそも、自分が返そうなどと考えるだろうか。
父親ですらまともな段取りを示していないものを、あの娘は諦めず、自分で商いまで始めて何とかしようとしている。
やり方には危ういところもある。何でも自分で背負おうとしすぎる。
それでも――。
「……いい子だな」
口にすると、向かいに座っていた妻がすぐに笑った。
「でしょう?」
妙に得意げだ。自分の見立てが当たったとでも言いたげな顔をしている。
私はもう一度、閉じた扉へ目を向けた。
「……あいつは、エリナ嬢を妻にしたいと?」
「ええ。口にはまだ出していませんけれど」
「言ってないのか」
「でも、顔を見れば分かるもの」
「そうか?」
私には分からん。
あいつの顔を思い浮かべてみたが、いつもの無愛想な顔しか出てこなかった。
もう一度、妻を見る。
――お前の変化なら分かるんだがな。
エリナ嬢のためにドレスを選んだ話をするときも、茶会へ招いた話をするときも、本当に楽しそうだった。
……そうか。
お前も、あの娘がいいのか。
私は腕を組んだ。
「なら、家とは切り離さんとな」
妻が瞬きをした。
「え?」
「リュークハルト家だ。婚姻の話をするなら、あの家の負債とエリナ嬢は切り離しておいた方がいい」
あれだけ自分で考えて動ける娘なら、家柄を理由に惜しむような相手でもない。問題は、あの家の金だ。
「持参金は……まあ、いいか。どうせまともな額は用意できんだろう。そもそも、娘の婚姻に向けて準備しているのかも怪しい」
「あなた?」
「商いを続けるなら、それは本人のものとして――」
「あなた」
妻が笑いを含んだ声で遮った。
「早いわよ」
「ん?」
「まだ求婚もしていませんのよ」
私は妻を見る。
妻はとうとう声を立てて笑った。
「アーネストが聞いたら、また嫌な顔をするわ」
「なぜだ。妻にしたいんだろう?」
「ええ、そうですけれど」
「なら、必要になる話だ」
「本当に気が早いんだから」
そう言いながら、妻はひどく嬉しそうだった。
あいつがようやく、自分で選んだ相手だ。それに、妻がこれだけ嬉しそうにしている。
なら、いいだろう。
私は机の上の瓶を手に取った。
私から見ても、悪くない。
瓶を眺めていると、向かいで妻がまた楽しそうに笑った。
※その後、マッマに注意されて婚姻ワードは控えるようになりました。




