【番外編】アーネスト視点【二十章第1話】
正直に言えば、少しだけ期待していた。
あんな寝間着で現れて、口づけにも応じたのだ。
てっきり、エリナも今夜がどういう夜なのか分かっているものだと思っていた。
それが蓋を開けてみれば――何も知らなかった。
「……そういうことか」
分かった瞬間、さすがに少し肩を落とした。
期待していなかったと言えば、嘘になる。
むしろ、かなり期待していた。
エリナの寝息が、規則正しく聞こえてくる。
「……寝たのか」
返事はない。
先ほどまであれほど緊張していたというのに、眠りにつくのは驚くほど早かった。俺の胸元へ頬を寄せたまま、すっかり力が抜けている。
「……まったく」
思わず息を吐く。
俺にも限界があると言ったばかりだというのに、本人はそんなことなど知らず、安心しきった顔で眠っている。
少し身体を離そうとすると、胸元に添えられていたエリナの手が、無意識に俺の服を掴んだ。
動きを止める。
「……」
離れるな、と言われたような気がした。
もちろん、本人にそんなつもりはないのだろう。それでも、俺は再び枕へ身体を戻した。
眠っているエリナの頬へ、そっと触れる。
これまでの家で、こいつはいったい何を教えられてきたのだろう。
家の仕事はさせる。領地のことも任せる。負債のために働かせておきながら、自分の身に関わることすら、まともに教える者はいなかった。
眉間に力が入る。
今でも、考えることがある。
もっと早く、あの家から引き離すべきだったのではないか。あそこまで追い詰められる前に、俺が手を差し伸べるべきだったのではないか。
いっそ、もっと早く求婚していれば、あんな思いをさせずに済んだのではないか。
だが、きっとそれも違う。
エリナは苦しい中でも自分で考え、自分で選び、自分の足でここまで来た。
折れなかった。
誰かに言われたからではなく、自分でリュークハルト家を継ぐと決めた。
そして最後には、俺を選んだ。
それを思うと、今でも胸の奥が熱くなる。
「……妻か」
今日から、本当に俺の妻になった。
なら、もう遠慮する必要もない。
欲しいものがあるなら買えばいい。行きたい場所があるなら行けばいい。
こいつが遠慮するたびに、何度でもそう教えてやればいい。
そのくらいは、俺がどうにでもする。
視線を落とすと、エリナの左手が俺の胸元に置かれていた。その手を、そっと取る。
眠っているエリナは起きない。
「……無防備すぎるだろう」
小さく呟いても、返ってくるのは寝息だけだった。
俺を信頼している。
先ほど、そう言った。あまりにも真っ直ぐに、何の疑いもなく。
嬉しい。
だが同時に、その信頼を利用するような真似だけはしたくないと思った。
知らないなら、知ってから選べばいい。その上で嫌だと言うなら、待つ。
……いつまででも、とは言えないが。
少なくとも、今夜くらいは。
エリナの左手へ目を落とす。
婚姻は認可された。それなのに、この指にはまだ何もない。
用意していなかったわけではない。
何度も宝石商を呼んだ。いくつも石を見て、意匠も考えた。
だが、どれを見ても決めきれなかった。
華美すぎれば、エリナは困るだろう。かといって、あまりに簡素なものでは俺が納得できない。
毎日身につけられて、それでいて、見れば俺が贈ったものだと分かるものがいい。
そう考えているうちに、とうとう婚姻認可の日を迎えてしまった。
「……明日にでも、もう一度呼ぶか」
そう考えながら、エリナの指を自分の指でそっと確かめる。
細い。
このくらいか。
すると、エリナが小さく身じろぎし、そのままさらに俺の方へ寄ってきた。
「……アーネスト様……」
「何だ」
返事があるはずもない。
それなのに。
「……すき……」
「……」
今夜、眠れる気がしなくなった。
しばらく天井を見つめたあと、深く息を吐く。
「……本当に、勘弁してくれ」
そう言いながらも、腕をほどく気にはなれなかった。
エリナの身体を抱き寄せ、髪へそっと口づける。
「おやすみ、エリナ」
今度こそ返事はなかった。
それでも、腕の中にある温もりだけで十分だった。
そして翌日、寝不足のまま父と兄を追い出しに向かったという(笑)




