最終話
婚礼当日。
支度を終えた私は、礼拝堂に設けられた控え室で、椅子に腰かけていた。
「これで大丈夫でございます」
リリアが背後から、ヴェールの位置をもう一度整える。
「ありがとう、リリア」
そう答えたものの、さっきから何度も膝の上で手を組み直していた。
向かいに座っていた義母が、そんな私を見て楽しそうに笑う。
「そんなに硬くならないで、と言っても難しいでしょうけれど」
「はい……」
分かってはいるけれど、胸の鼓動は先ほどから少しも収まってくれなかった。
やがて、礼拝堂へ向かう時間になった。
「では、私は先に行って待っているわね」
義母はそう言い残し、部屋を出ていった。
残ったリリアが、もう一度ドレスの裾を確かめる。
「参りましょう、エリナ様」
「はい」
私は椅子から立ち上がり、リリアとともに部屋を出た。
礼拝堂へ続く廊下を歩いていると、リリアが隣から私の顔を覗き込む。
「緊張していらっしゃいますか?」
「少し……」
答えてから、首を横へ振った。
「ううん。だいぶ」
リリアが小さく笑う。
「大丈夫でございますよ。今日お越しになっている方々は、皆様、エリナ様と伯爵様を祝福するためにいらしているのですから」
「……そっか」
その言葉を聞くと、少しだけ肩の力が抜けた。
やがて、礼拝堂の前へたどり着く。
大きな扉の前で、私は足を止めた。
「ここからは、エリナ様がお進みください」
「……分かったわ」
ゆっくりと扉が開いていく。
明るい光が差し込んだ。
その向こうには、たくさんの人たちがいた。
並んだ席には、これまで私たちと関わってきた方々の姿がある。
お義父様、お義母様。
ヴァルクレイン伯爵夫妻に、ハーゼルベルク子爵夫妻、《麦の鈴》の夫妻。
ミレーユとセシリアも、笑顔でこちらを見守ってくれている。
ルーカスとエルネスタ、マルティナやヴィオラの姿もあった。
ほかにも、茶会や仕事を通じて知り合った方々が、大勢集まっている。
皆から向けられる温かな視線を感じて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
そして――。
礼拝堂の正面に、アーネストがいた。
黒を基調とした礼装に身を包み、まっすぐこちらを見ている。
私は、一人で歩き出した。
誰かに手を引かれることもなく、自分の足で、アーネストのもとへ向かう。
一歩ずつ近づくにつれ、彼の表情がよく見えるようになった。
いつもより、目を細めている。
やがて彼の前までたどり着くと、アーネストが私へ手を差し出した。
私は、その手を取る。
指先が触れた瞬間、先ほどまでの緊張が少しだけ和らいだ。
二人で司祭の前へ並ぶ。
「これより、お二人の婚礼の誓いを執り行います」
礼拝堂に、司祭の穏やかな声が響いた。
「アーネスト・グラーフ。これより先、生涯をともに歩み、喜びも苦しみも分かち合い、妻を大切にすることを誓いますか」
「誓う」
あまりにも間髪を入れない返事で、口元が緩みそうになった。
続いて、司祭が私を見る。
「エリナ・リュークハルト。これより先、生涯をともに歩み、喜びも苦しみも分かち合い、夫を大切にすることを誓いますか」
私は一度、ゆっくりと息を吐いた。
「誓います」
アーネストが私の手を取る。
そして、あの白銀の指輪を、ゆっくりと指へ通してくれた。
指輪が収まったのを見た途端、自然と顔がほころぶ。
今度は、私の番だった。
用意されていた指輪を手に取り、アーネストの手をそっと支える。少しだけ緊張しながら、その指へ指輪を通した。
司祭が私たちを見渡した。
「お二人の誓いは、ここに結ばれました。これより先、互いを支え、ともに歩まれますように」
礼拝堂に、拍手が広がった。
その音の中で、アーネストが私の方へ向き直る。
そっとヴェールが持ち上げられ、視界が明るくなった。
目が合う。
アーネストは、ただ、私を見つめていた。
「あの……アーネスト様?」
「……綺麗だ」
思わず目を瞬く。
「……こ、ここで仰るのですか?」
最後まで言えなかった。
アーネストの顔が近づき、唇がそっと重なった。
◆
婚礼の儀式を終えたあとは、グラーフ邸の大広間へ場所を移した。
長い卓には料理が並び、私とアーネストを囲むように招待客たちが席についている。
皆の杯に酒が行き渡ったところで、義父が立ち上がった。
「今日こうして、二人の門出を皆とともに祝えることを嬉しく思う。アーネスト、エリナさん。これからも二人で支え合って歩んでいきなさい」
「はい」
「……ああ」
義父が笑い、杯を掲げる。
「では、二人のこれからに。乾杯!」
「「「乾杯!」」」
いくつもの杯が掲げられた。
私も杯を持ち上げる。隣を見ると、アーネストと目が合った。
互いに杯を掲げ、口をつける。
冷たい飲み物が喉を通ると、ようやく一息つけたような気がした。
食事が一段落すると、大広間の脇には菓子や果物、軽い酒や茶が用意された。
席を立つ人も増え、先ほどまでよりずっと気楽な雰囲気で、あちこちに会話の輪ができている。
私とアーネストも席を立ち、皆へ挨拶して回ることになった。
真っ先にこちらへやってきたのは、ミレーユとセシリアだった。
「エリナ様、本当におめでとうございます! 呼んでいただけて嬉しかったです」
「こんな素敵な婚礼に参加できるなんて、私たちまで幸せな気分になりました」
「ありがとうございます。お二人にも来ていただけて嬉しいです」
セシリアが、私の婚礼衣装を眺める。
「その婚礼衣装、《フィル・ブラン》に仕立ててもらったものですよね? 本当によくお似合いです」
「まるで最初から、エリナ様のために考えられた意匠みたいです」
「そう言っていただけると嬉しいです。お二人の今日のドレスも、とても素敵ですよ」
「本当ですか? この日のために仕立てたんですよ」
二人は嬉しそうに笑った。それから、ふと顔を見合わせる。
「それにしても……思ったとおりでしたね」
「ええ。本当に」
「……何がですか?」
ミレーユが、ちらりと隣のアーネストを見る。
「だって、あの熱い眼差し」
「あんなに分かりやすかったのに、エリナ様ったら全然気づいていなかったでしょう?」
「そ、そうでしょうか……?」
「そうですよ。あのときだって、不思議そうに首を傾げていらしたじゃないですか」
セシリアが身を寄せ、私の耳元へ顔を近づける。
「ですから、もう少し詳しく、お二人の出会いについて――」
そのとき、アーネストが私の手を取った。
「まだ挨拶する相手がいる」
「え? あ、はい」
そのまま促され、私は二人の前から連れ出された。
背後から、こらえきれないような笑い声が聞こえてくる。
「放っておけ」
そう言うアーネストの歩みは、いつもより少しだけ速かった。
次に声をかけてくださったのは、《麦の鈴》の夫妻だった。
「エリナさん、おめでとう」
夫人が嬉しそうに杯を掲げる。
「私、思っていたよりずっと早くて驚いたわ。もう少し婚姻まで時間がかかると思っていたもの」
「そうなのですか?」
「僕は、案外早いと思ってたけどね」
ご主人が笑った。
「グラーフ伯爵、分かりやすかったから」
アーネストが黙る。
私はそっと杯へ口をつけた。
……もしかして、気づいていなかったのは私だけだったのかしら。
「……次へ行くぞ」
「は、はい……」
また手を引かれ、その場を離れる。
少し離れたところでは、サラ夫妻とカレン伯爵夫人が、卓に並べられた焼き菓子や干し果実を囲んでいた。
「この焼き菓子、美味しいわ。干し林檎のバランスがいいのね」
サラが、小さく切った焼き菓子を眺めている。
「最近、干し果物を使った菓子をよく見かけるようになったわね……今度の茶会で、わたくしも出してみようかしら」
カレン伯爵夫人が興味深そうに皿へ目を向けた。
「でしたら、菓子にするだけではなく、木の実と合わせても面白いですよ」
「まあ。それなら、ほかの茶会とも差をつけられそうね」
カレン伯爵夫人の目が輝いた。
そのまま三人で、どの果実を使うのがよいか話し始める。
どうやら、しばらく止まりそうになかった。
その向こうでは、ユリウスがオルブライト子爵夫妻と話していた。
先ほど子爵夫人から、姉は現在もブラン伯爵家で花嫁修業を続けているため、今日は出席していないと聞いている。
ブラン伯爵夫妻も領地を離れられず、代わりに嫡男であるはとこが家を代表して参列していた。
ちょうど目が合う。
彼はにこりと笑い、こちらへ片手を上げた。
私も笑って、小さく手を振り返す。
少し離れたところでは、義父とハインツが杯を手に、何やら楽しそうに笑っていた。ずいぶん話が弾んでいるらしい。
義母はハーゼルベルク子爵夫妻と話している。こちらも楽しそうで、時折三人の笑い声が聞こえてきた。
視線を移すと、ヴィオラがいた。
隣に立っているのは、由緒ある子爵家の令息だった。
ヴィオラが何かを話すたび、彼は興味深そうに何度も頷いている。
私と目が合うと、ヴィオラはいつもと変わらない優雅な笑みを浮かべ、杯を掲げた。
私も杯を上げて応える。
その間も、隣の男性はヴィオラの次の言葉を待つように、彼女を見つめていた。
別の一角では、マルセルとカイルが、何やら真剣な顔で話している。
「でしたら、リュークハルト領を経由した方が運送費を抑えられるのでは?」
「ただ、荷の積み替えが一度増えるからな。その分を考えると――」
婚礼の席だというのに、いつの間にか仕事の話になっているらしい。
……でも、その話は少し気になる。
あとで聞いてみようかしら。
そう思った、そのとき。
「エリナ様」
声をかけられ、振り返る。
ヴァルクレイン伯爵夫妻だった。
「……いえ」
伯爵夫人が、いたずらっぽく笑う。
「もう、グラーフ伯爵夫人とお呼びするべきね。本日は、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます」
「料理も素晴らしい。海老が特に美味しかった」
伯爵も杯を掲げる。
「料理人お勧めの海老でしたから。喜んでいただけて、よかったです」
そう答えると、伯爵夫人が私の顔をじっと見つめた。
「ふふ……こうしていると、初めてお会いした夜会を思い出すわ」
「あのときは、本当に何も分からず……ご迷惑をおかけしました」
「違うのよ。あのときから、あなたは光っていたわ。だから声をかけたの」
伯爵夫人は夫へ視線を向けた。
「わたくしの見る目も、なかなかだったと思っているのよ」
すると、伯爵が横から笑った。
「それを言うなら、グラーフ伯爵の方が先だったんじゃないか?」
「……アーネスト様が?」
私は隣を見る。
アーネストは、なぜか視線を逸らした。
「覚えていないかい? 倉庫の修繕について話していたとき、君へわざわざ話しかけに行った男がいただろう?」
「……」
記憶の奥から、あの夜の光景が蘇る。
私の話を途中まで聞いて、
――そこまで考えているなら、悪くない。
そう言って、立ち去っていった人。
私はゆっくりと、隣を見上げた。
「……あれは、アーネスト様だったのですか」
伯爵夫人が楽しそうに笑う。
「しかも、あの夜会が終わってすぐだったわよね。この方、わたくしたちのところへ来たのよ」
「……」
アーネストの眉が、わずかに動いた。
「何をお話しになったのですか?」
「夫人」
アーネストが低い声で遮る。
「あら。別にいいでしょう?」
伯爵が杯を傾けながら、あっさりと言った。
「『あの令嬢は誰だ』って」
「……!」
思わず、アーネストを見上げる。
「本当ですか?」
「……昔の話だ」
アーネストは視線を逸らしたままだった。
けれど、その耳が少しだけ赤くなっている。
ヴァルクレイン伯爵夫妻が、楽しそうに笑う。
私はそんなアーネストの横顔を見つめて――とうとう、こらえきれずに笑ってしまった。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
ここまでエリナの物語を読んでいただけたこと、とても嬉しく思います。
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最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!




