第4話
茶房の開店を前に、今日はグラーフ家に客として来ていただくことになっていた。
実際にお客様を迎えたとき、使用人たちが問題なく動けるか確かめるためだ。
「いらっしゃいませ」
玄関へ入ると、以前からリュークハルト家に仕えている侍女が、深く腰を折った。緊張しているように見える。
私は思わず声をかけそうになり、慌てて扇子で口元を隠した。
隣を見ると、義母が微笑んでいる。どうやら、私が何か言いそうになったことに気づいたらしい。
案内されたのは、庭に面した客席だった。窓からは、手入れを終えた花壇がよく見える。
淡い若草色の壁に、布をかけた丸卓。その上には、リュークハルト家で使われていた白い茶器が並べられていた。
「庭もなかなかのものだな」
義父が、椅子へ腰を下ろしながら窓の外へ目を向ける。
「リュークハルト家の庭師たちも、よく仕上げたものだ」
「はい。皆、とても張り切ってくれました」
義母は、室内をゆっくりと見回した。
「こちらも、思っていたよりずっと素敵になったわね。白い茶器にして正解だったわ」
「そうですね。思っていた以上に、部屋になじんでくれて」
「ええ。あまり食器まで華やかにすると、かえって落ち着かなくなっていたかもしれないわ」
向かいでは、アーネストが茶器を眺めている。
「アーネスト様は、いかがですか?」
尋ねると、彼は少しだけ室内を見回した。
「悪くない」
「ふふ……なら、よかったです」
ほどなくして、果実茶と菓子が運ばれてきた。
干し林檎を使った焼き菓子に、小さく切った干し無花果。果実茶からは、ほのかに甘い香りが立ち上っている。
侍女は少し手を震わせていたものの、茶をこぼすこともなく、決められた順番どおりに給仕を終えた。
「よくできているわ」
義母が、小さな声で言う。
「まだ少しぎこちないですけれど……」
それでも、以前リリアに指摘された頃とは、ずいぶん違っていた。立ち方も、茶器の扱い方も、客へ声をかける間合いも、以前この屋敷で働いていた頃より、ずっと洗練されている。
義父が、果実茶を一口飲んだ。
「うまいな」
「ありがとうございます」
私もカップへ口をつける。果実の甘い香りが、ふわりと鼻へ抜けた。
「焼き菓子にも果実を使っていますけれど、香りが重なりすぎてはいませんか?」
「この程度なら問題ないんじゃないか?」
義父が焼き菓子を一口食べる。
「紅茶も用意するんだろう?」
「はい。普通の紅茶も、何種類か置く予定です」
「なら、客が好きな方を選べばいい」
「そうね」
義母も、焼き菓子へ手を伸ばした。
「お菓子に合わせてお茶を選べるようにすれば、何度来ても違う組み合わせを楽しめるでしょうし」
「それなら、通ってくださる方にも楽しんでいただけそうですね」
そんな話をしながら菓子をいただいたあと、今度は入口近くに設けた売り場を見ることになった。
棚には、小袋に詰めた干し林檎や干し無花果が並んでいる。その隣には、小瓶に入った林檎や木苺のジャム。持ち帰り用の焼き菓子や、果実茶の茶葉も置かれていた。
「ここで売る品は、できるだけ茶房でもお出しすることにしたんです。実際に召し上がって、気に入っていただいたものを、そのまま持ち帰っていただけたらと思って」
義父が、干し林檎の袋を手に取った。
「これなら、帰りに土産として買っていく者もいるだろうな」
義母も、ジャムの瓶を手に取る。
「ただ、贈り物にするなら、もう少し箱や包みを工夫してもよさそうね」
「なるほど……でしたら、箱に入れるなら、瓶の蓋が見えすぎないようにして……」
顎へ手を添え、考え始めたところで。
「エリナ」
アーネストの声がして、顔を上げる。
「今日は客ではなかったのか」
「……あ」
義父が声を上げて笑った。
「す、すみません」
慌てて瓶を棚へ戻す。
けれど、胸の奥は温かかった。
数か月前まで、この屋敷で一人寂しくなって、泣いたこともあった。自分から出ていった場所でもある。それなのに今は、ここへ来ることが楽しみになっている。
そう思いながら店内を見回していたとき、ふと二階へ続く階段が目に入った。
「……私、少し二階へ行ってきます」
「何かあるのか?」
アーネストが尋ねる。
「自分の部屋を、少し見ておきたくて」
「そうか」
アーネストはそれ以上何も聞かず、棚へ視線を戻した。
私は一人、階段を上った。
◆
扉を開ける。
「……」
そこだけは、ほとんど変わっていなかった。
寝台と衣装棚、小さな卓。そして、窓の近くに置かれた机。家具だけは、以前と同じように残してある。ただ、中身はほとんどない。
衣装も、本も、身の回りの品も、今はグラーフ邸にある。
私は窓へ近づいた。
外に広がる景色は、ここで暮らしていた頃とはまるで違っている。花壇には季節の花が植えられ、庭の一角には、外でもお茶を飲めるように小さな卓と椅子まで置かれていた。
屋敷の中も、庭も、ここで働く人たちも、すっかり変わった。なのに、この部屋だけが、取り残されたように昔のままだった。
新しくしてしまってもよかった。この部屋も、客室か何かに使うことはできた。
それでも私は、ここだけは残した。
「……これで、よかったのよね」
誰にともなく呟く。
今の暮らしは、以前とは比べものにならないほど恵まれている。
アーネストも、義父も、義母も、リリアをはじめグラーフ家で働く皆も、私を大切にしてくれている。困ったときには助けてもらえるし、嬉しいことがあれば、一緒に喜んでもらえる。
だからこそ、忘れてはいけない。
私は、窓際の机へ近づいた。指先で、天板をそっと撫でる。
この机は、もともと母が使っていたものだった。母が亡くなったあと、私の部屋へ運ばれてきた。昔から何度も使ってきたから、小さな傷の場所まで覚えている。
「お母様……」
誰にも話していないことがある。
アーネストにも。
この机から、母の手紙が見つかっていた。
グラーフ邸へ荷物を移すため、机の中を整理していたときだった。
初めから私に読ませるつもりだったのか。それとも、ただしまっていただけなのか。それは分からない。
簡単には見つからない場所へ、ひっそりと隠されていた。
そこには、母の気持ちが綴られていた。
私へ家を託すことになってしまったこと。父のことも、兄や姉のことも、領地のことも、最後まで整理しきれないまま、結局その先を私へ託すことになってしまったこと。
そして、何度も謝る言葉が書かれていた。
私は、母を恨んではいない。
むしろ、あの手紙を読んだとき、胸が苦しくなった。
お母様は、ずっと一人で悩んでいたのだろうか。
家族も領地も守りたい。誰か一人だけを切り捨てることもできない。その間で、ずっと迷い続けていたのかもしれない。
もっと誰かに頼ることはできなかったのだろうか。私に、何かできなかったのだろうか。
そう考えることもある。
でも、もう確かめることはできない。
私は机の端へ手を置いた。
「……お母様。私、いろんな人に助けてもらったの」
一人で何もかも抱え込まなくてもいいのだと、少しずつ分かるようになった。
人に頼ることは、悪いことではない。助けてもらうことも、誰かに弱いところを見せることも。
「だから私、一人で全部を抱え込まないことにするね」
大切な人には頼りたい。そして、大切な人から頼ってもらえる人でいたい。
どちらか一方だけが我慢するのではなく、どちらか一方だけが支えるのでもなく。そんな関係を、これから築いていきたい。
階下から、かすかに声が聞こえた。
「エリナ」
アーネストだった。
「父上が、どれがお勧めなのか聞いている」
思わず笑みがこぼれる。
「分かりました。今、行きます」
もう一度だけ、机を撫でる。
それから、私は扉の方へ向かった。
階下からは、茶器の触れ合う音と、人々の話し声が聞こえている。
私は、その音のする方へ足を進めた。




