第1話
ブラン伯爵領を出たあとも、すぐにリュークハルト領へ戻るつもりはなかった。
戻るだけでも金がかかる。それに、今さらリュークハルト領へ戻る必要もない。それなら、この辺りで金を稼いだ方がいい。
何より、ここまで離れていれば、グラーフ伯爵の影響も届きにくいだろう。金を稼ぎながら人脈を広げ、再審を引き受けてくれる代理人を探すこともできる。
幸い、仕事探しにはそれほど苦労しなかった。
街道沿いの町にある、比較的大きな商会を訪ねた。
俺がリュークハルト家の人間であり、ブラン伯爵の親類であることは、伯爵家へ確認を取ればすぐに分かった。
もちろん、伯爵家の親類がなぜ一人で仕事を探しているのかと、不審そうな顔はされた。だから正直に事情を話した。
商会主は、しばらく黙って俺の話を聞いていた。
「それは……大変だったな」
最後には、同情するようにそう言った。
そして、読み書きと計算ができるなら、ひとまず試してみようと言われた。
任されたのは、各倉庫から届く入荷と出荷の報告をまとめ、注文書と出荷予定を照らし合わせる仕事だった。
取引先ごとの数量を一覧にし、支払い予定を帳面へ移し、最後に商会主へ渡すための報告を作る。
初めこそ見慣れない書式に戸惑ったが、数日もすれば慣れた。
「早いな」
まとめた書類を確認していた商会主が言った。
「数も合っているし、字も読みやすい」
「この程度でしたら」
そう答えながらも、悪い気はしなかった。
リュークハルト家にいた頃、こんなふうに仕事を褒められた記憶はほとんどない。後継者なのだから、できて当然だった。
だが、ここでは違う。
仕事を終えれば、その分だけ評価される。給金も、自分のものになる。
――なんだ。
外で働くというのは、こんなものだったのか。
こんなことなら、もっと早く大叔父上のところを出ればよかった。鉱石を背負って坑道を歩いた時間など、まったくの無駄だった。
それから二か月ほど経つ頃には、少しずつ任される仕事も増えていった。
複数の倉庫から届く報告を確認し、注文された品が予定どおり揃っているかを見る。商会主へ上げる前の確認まで任されるようになった。
やはり、俺にはこちらの方が向いている。
「レオン、今日はどうする?」
店主に声をかけられ、俺はいつもの席へ腰を下ろした。
「いつものを」
卓へ置かれた酒を一口飲む。
仕事を終えると、泊まっている宿の一階にある酒場で一杯飲むのが日課になっていた。
リュークハルト家にいた頃も、食事の席で嗜むことはあったが、毎日のように飲むことはなかった。だが、一日の仕事を終えたあとに飲む酒は、屋敷で飲んでいた頃より、はるかにうまく感じられた。
この調子なら、思っていたより早く金も貯まる。
代理人を雇えるだけの金さえできれば――。
そう考えていた数日後だった。
朝、商会へ行くと、一枚の報告が机の上へ置かれていた。
近隣の大きな宿へ納める予定の、高級な魚介についての報告だった。
「三十、遅れているのか」
輸送中なら、今ここにないものは仕方がない。
俺はそのまま、出荷予定の一覧へ記載した。
その日の午後、上司が慌ただしい様子で俺のところへやってきた。
「レオン。例の魚介、三十箱届いていないと聞いたんだが、いつ届く?」
「さあ」
「……さあ? 確認していないのか?」
「遅れているとの報告でしたので」
「だから、いつまで遅れるんだ」
「そこまでは書かれていませんでした」
「……代わりの品は?」
「必要でしたか?」
男の顔色が変わった。
「明日が納品日だぞ!? 今からじゃ、間に合わなかった場合の手配が間に合わない!」
そう言うなり、慌ただしく部屋を出ていく。
なぜ俺に文句を言うんだ。
翌朝、別口で手配された三十箱が届いた。
急ぎで用意したため、通常よりかなり高い値段になったらしい。さらに、急ぎの輸送費まで上乗せされている。
それでも、納品に穴を開けるよりはましだろう。
ところが、昼を過ぎた頃だった。
倉庫の方が騒がしくなった。
「届きました!」
何事かと思い、顔を上げる。
「昨日遅れていた三十箱です!」
倉庫へ行くと、荷車から次々と箱が降ろされていた。氷を詰めた箱の中には、予定していた魚介が収められている。
「なぜ今さら届くんだ」
「今朝には近くまで来ていたそうです。道がぬかるんで、少し遅れただけだったみたいですよ」
「……なんだ。そうだったのか」
結局、納品に必要な百箱とは別に、三十箱が余ることになった。
商会主はすぐに別の取引先へ声をかけさせたが、急に三十箱もの高級な魚介を引き取れるところなど、そう多くはない。
一部は大きく値を下げて売り、残ったものもさらに安く処分することになった。
最初から、あれほど慌てて別口で手配しなければよかったのではないか。
そう思っていた夕方、俺は商会主の部屋へ呼ばれた。
卓の上には、昨日俺がまとめた報告書が置かれている。
「レオン。なぜ、荷がどの程度遅れているのか確認しなかった」
「そう言われましても。輸送が遅れたのは俺の責任ではありません」
「誰もそんな話はしていない……」
「では、何が問題なのですか」
商会主が眉間を押さえた。
「納品に間に合うのか確認し、間に合わない可能性があるなら知らせる。それが君に任せた仕事だった」
「輸送を担当している者が、遅れていると報告するのなら、到着予定まで一緒に知らせるべきではありませんか」
「それはそうだ」
商会主はあっさり認めた。
「向こうの報告にも不備はあった。だが、今回の確認を任されていたのは君だ。問い合わせていれば、今日の昼までには届く見込みだと分かったそうだ」
胸の奥がざわついた。
「それは、結果論でしょう」
「何?」
「本当に今日届くかどうかなど、昨日の時点では分からなかったはずです。大事を取って別口で仕入れると決めたのは、あなた方ではありませんか」
商会主が、しばらく俺を見た。
「ああ。君にこの仕事を任せられると判断したのは、こちらの落ち度だ」
卓の上へ、別の紙が置かれた。
余った魚介を値下げして処分した損失と、急ぎで別口から仕入れた分の追加費用が記されている。
金額を見て、息が止まった。
「……こんなに?」
「高級品だからな。損失のすべてを君に払わせるつもりはない。だが、君にも責任はある。給金から一定額は差し引く」
「どうしてですか」
「確認を怠ったからだ」
「到着予定を報告しなかったのは、輸送を担当した者でしょう!」
「そちらにも責任は取らせる。それから、もう出荷前の確認は任せられない」
意味が分からない。俺の失敗ではないのに。
最初の報告がきちんとしていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
そんな俺の顔を見て、商会主の眉がわずかに上がった。
「それほど不満なら、辞めてもらって構わないが」
「……では、辞めます」
今度は商会主が少し驚いた顔をした。
本当に辞めるとは思っていなかったのだろう。今さら後悔しても遅い。
「自分たちの不手際まで俺の責任にされて、給金まで差し引かれるようなところで働くつもりはありません」
俺は立ち上がった。
商会主は何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
「そうか。なら仕方ない」
俺はそのまま部屋を出た。
背後で扉が大きな音を立てて閉まる。
二か月以上、真面目に働いてきた。仕事だって評価されていた。
それなのに、一度問題が起きれば、こうして責任を押しつけられる。
やはり、雇われて働くというのは、ろくなものではない。
俺は振り返ることなく、商会をあとにした。




