第5話
そこは、兄が使っていた部屋だった。
以前は、大きな寝台に、書き物をするための机、衣装棚、それから長椅子まで置かれていた。一人で使うには十分すぎるほど、広い部屋だった。
今は寝台も机もなく、中央には大きめの丸卓と椅子が置かれ、壁紙も張り替えられている。もう、兄の部屋だった頃の面影はほとんど残っていない。
「こちらは、予約のお客様向けの個室にする予定でございます」
「綺麗に用意されてるわね……」
自分で決めたことなのに、実際に目にすると少し不思議だった。
私はそれ以上立ち止まらず、先へ進んだ。
父の書斎だった場所も、大きく変わっていた。
壁際の棚は一部だけ残され、中央には大きな卓が置かれている。
「こちらは、商談室だったわね」
「はい。奥は事務を行う部屋にする予定でございます」
私は、部屋を見回した。
ここへは、何度も報告に来た。
領内から届いた書類を確認して、必要なものをまとめる。収支を計算し、問題が起きていれば、その内容を書き添える。
そうして作った報告書を持って、この部屋へ来た。
父の机の前に立ち、一つずつ説明しようとすると――。
『ああ』
父はいつも、ほとんど同じように頷いた。
そして、書類へ印を押す。
それで終わりだった。
「……」
今度はここで、商人たちが向かい合う。
品物について話し、値段を決め、これからの取引について相談する。
同じ部屋なのに、これからはまったく違うことに使われるのだ。
「当主様。先ほど、使いの者が参りました」
「使い? あ、もしかして」
「はい。グラーフ家からご紹介いただいた商人が、まもなくこちらへ到着するそうです」
「もう?」
思ったより早い。
一階のどこかで話そうかと考え、ふと中央に置かれた大きな卓を見る。
「……ねえ、セバス。早速、この部屋を使ってもいいかしら」
セバスが、わずかに微笑んだ。
「もちろんでございます」
「よかった。では、ここへ通してもらえる?」
「かしこまりました」
セバスは一礼し、商人を迎えるため部屋を出ていった。
その背中を見送ったあと、リリアが室内を見回しながら微笑んだ。
「本当に、素敵な茶房になりそうですね」
「そうね。皆も楽しそうに準備してくれているし」
私も嬉しくなって頷く。
「……ですが」
リリアが、ぽつりと付け加えた。
「開店前に一度、皆様には接客の作法を見直していただいた方がよろしいかもしれませんね」
「え?」
「先ほどから、奥様がお通りになっても、皆様ほとんどご挨拶なさっておりませんので」
そういえば。
卓を運んでいた従僕も、布を確認していた侍女たちも、私を見ると軽く頭を下げる程度で、すぐに作業へ戻っていた。
けれど、私はまったく気にしていなかった。
以前、この屋敷で暮らしていた頃も似たようなものだったからだ。
「それに、今は開店前で忙しいから……」
「ですが、お客様にも同じでは困ります」
「それはそうね……」
「それに」
リリアの表情が、すっと真面目なものへ変わった。
「今の奥様は、リュークハルト男爵家の当主であり、グラーフ伯爵夫人でございます」
「……あ」
「いくら以前からお仕えしている方々とはいえ、簡単な会釈だけで済ませるというのは、感心いたしません」
そうだ。
私は今、リュークハルト家の当主であると同時に、グラーフ伯爵夫人なのだ。
私が軽く扱われれば、それはグラーフ家まで軽く扱われているように見えるかもしれない。
「皆様に悪気があるとは思っておりません。奥様が以前から気さくに接してこられた分、つい昔と同じ感覚になってしまうのでしょう」
「うん……たぶん、そうだと思う」
私は小さく頷いた。
「リリア、私の代わりに気づいてくれてありがとう」
リリアは、やわらかく微笑んだ。
「奥様のお役に立つことが、私の務めでございますから」
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
やがて扉が開き、セバスが一人の男性を伴って入ってくる。
年の頃は五十前後だろうか。上等な上着を身につけ、その後ろにはいくつもの箱を抱えた若い男たちが控えている。
「お初にお目にかかります、グラーフ伯爵夫人。ヴァルト商会を預かっております、オスカー・ヴァルトと申します」
そう名乗ると、深く頭を下げた。
「本日はお声がけいただき、光栄に存じます」
「こちらこそ、急なお願いを聞いてくださってありがとうございます。どうぞ、お掛けください」
「ありがとうございます」
オスカーは、もう一度一礼してから、勧めた椅子へ腰を下ろした。
私も向かいの席へ座る。
――初めて会ったこの人は、最初から私を伯爵夫人として扱っている。
私はもう、以前この屋敷で暮らしていた頃の私とは違うのだ。
「本日は、グラーフ家の皆様への贈り物をお探しとうかがっております」
「はい。お義父様とお義母様、それから……夫へ、それぞれ何か贈りたいと思っているのです」
「かしこまりました。お好みなどはお決まりでしょうか」
「それがまだ、何を贈るかも決めていないんです」
「でしたら、いくつかご覧いただきながらお考えになるのがよろしいかと存じます」
「そうしていただけると助かります」
分からないことを、分かったふりをしても仕方がない。
こういう品物についてなら、目の前の商人の方がずっと詳しいのだから。
ただ、話の流れまで相手に任せてしまわないようにしなくては。
「では、まずこちらを」
オスカーが片手を上げる。




