第4話
「ずいぶん、やわらかくなりましたね」
リリアは、私の手のひらへ香油をなじませながら言った。
婚礼の日取りが決まってから、義母の勧めで、毎晩こうして手入れをしてもらっている。
いくつか用意された香油の中から、白い花の香りがするものを選んでくれたのは、リリアだった。
初めの頃に比べると、乾燥して硬くなっていた指先はずいぶんやわらかくなり、爪にもつやが出ている。
「これなら、指輪もよく映えますね」
リリアが楽しそうに微笑んだ。
「えっ……そ、そうかな」
思わず、左手の薬指へ目を落とす。
アーネストから贈られた指輪は、婚礼の儀で改めてはめてもらうため、今は義母に預かっていただいている。
あの指輪を、もう一度アーネストにはめてもらえる。
そう思うだけで、胸が弾んだ。
「婚礼が楽しみですね」
「……うん」
小さく頷きながら、ふと思う。
アーネストは、私のために指輪を選んでくれた。
義父と義母にも、茶房のことをはじめ、これまでたくさん助けていただいている。
それなのに、私はいただいてばかりだ。
「ねえ、リリア。少し相談してもいい?」
「もちろんでございます」
「アーネスト様と、お義父様、それからお義母様へ……私からも何か贈りたいの」
リリアの顔が、ぱっと明るくなった。
「まあ。それは皆様、お喜びになると思います」
「でも、あまり大したものは贈れないし……」
「高価なものでなくてもよろしいのではないでしょうか。奥様が皆様のために選ばれたものでしたら、それだけで十分かと」
「そうかな……」
何がいいだろう。
菓子や茶葉、果実酒。
いつもの私なら、きっと食べたり飲んだりすればなくなるものを選んでいただろう。その方が、相手にも負担にならない。
けれど――。
私は、香油のなじんだ自分の手を見つめた。
アーネストから贈られた指輪は、これからもずっと私の手元に残る。
「……残るものが、いいかなと思うの」
リリアが、やわらかく微笑んだ。
「よろしいと思います。ご家族への贈り物なのですから、形に残るものを選ばれても」
「家族なら……そっか、そうよね。でも、そういうものって、どこで探せばいいのかしら」
宝飾品や小物を扱う店なら、王都にもいくつもあるのは知っている。ただ、私はそうした店に詳しいわけではないし、王都まで出かければ数日はかかる。
そうなれば、贈り物のこともアーネストたちに知られてしまうだろう。
「でしたら、商人をお呼びいたしましょうか」
「知り合いがいるの?」
「グラーフ家と長くお付き合いのある商人がおります。贈り物をお探しだと伝えれば、いくつか品を持って参りますよ」
思わず顔が明るくなる。
「お願いしてもいい?」
「かしこまりました。贈るお相手と、おおよそのご予算を伝えておきますね」
「ありがとう、リリア」
何を選ぼう。
義父には、何が似合うだろう。
義母なら。
それから、アーネストには――。
考え始めると、自然と頬が緩んだ。
そのとき、はっと思い出す。
「そういえば……私、伯爵夫人になってから、自由に使っていいお金をいただいているのよね?」
「はい。もちろんでございます」
そうだった。
婚姻したあと、家令から説明を受けた。
衣装や身の回りの品、個人的な贈答などに使えるよう、私個人の費用が用意されている。今のところ必要な支払いはすべて家令が処理してくれているので、自分で使った覚えがほとんどない。
「そこから、贈り物のお金を出してもいいのかしら」
「奥様のために用意されているものですから、もちろんでございます」
「よかった……いくらあるか知りたいのだけど」
「家令に確認して参ります」
しばらくして、リリアが一枚の書付を手に戻ってきた。
「こちらが、現在奥様がお使いになれる額でございます」
「ありがとう」
私は何気なく書付へ目を落とした。
そして。
「……」
書かれている数字を、もう一度見る。
「……え?」
思わず、書付へ顔を近づけた。
見間違いかと思った。けれど、何度見ても桁は変わらない。
「リリア……これ……私が使っていいお金なの?」
「もちろんでございます」
「……ひえ……」
思わず、変な声が出た。
◆
数日後。
私は、改装の様子を確認するという名目で、リュークハルト邸を訪れていた。
今日はここへ、リリアが手配してくれた商人に来てもらうことになっている。
グラーフ邸へ呼べば、アーネストたちに気づかれてしまうかもしれない。そのため、改装の確認に合わせて、こちらで会うことにしたのだった。
馬車が門をくぐったところで、私は思わず窓へ顔を寄せた。
「わあ……」
屋敷が、明るい。
長い年月で薄汚れていた外壁は、きれいな白に塗り直されている。黒ずんでいた窓枠も補修され、木部には新しく塗料が塗られていた。
「かわいい……」
以前とは、まるで印象が違う。
馬車が玄関前へ到着し、私は差し出された手を取って降りた。
「お待ちしておりました、当主様」
玄関前で待っていたセバスが、深く頭を下げる。
「お疲れ様。外から見るだけでも、ずいぶん変わったわね」
「外壁は、ほぼ作業を終えております」
「花壇は、これからなのね」
「はい。植える花につきましては季節もございますので、庭師と相談しながら進めております」
セバスの視線を追う。
庭では、何人もの庭師が花壇の土を掘り返していた。
以前から花壇はあったけれど、ここ数年は最低限の手入れしかされていなかった。枯れた株が残り、低木も伸びたままになっていた場所が、今はきれいに整理されている。
どんな庭になるのだろう。
茶房のお客様が、窓から庭を眺めながらお茶を飲む。
そんな光景を想像すると、自然と頬が緩んだ。
セバスに案内され、屋敷へ入る。
玄関広間の壁には、淡い若草色の壁紙が張られていた。腰の高さまである木部も磨き直され、床にもつやが戻っている。
「うん。お義父様のおっしゃったとおり、若草色にしてよかった」
そのとき、廊下の向こうから声が聞こえてきた。
「もう少し窓側へお願いします」
見ると、二人の従僕が小さな丸卓を運んでいる。
その横では、以前からこの屋敷に仕えている侍女が、置く位置を指示していた。別の侍女たちは、新しく届いたらしいテーブルクロスを一枚ずつ広げ、汚れやほつれがないか確認している。
「皆、忙しそうね」
「はい。開店へ向けて、それぞれ担当を決めておりますので」
「……でも」
私は、働く使用人たちを見回した。
忙しそうなのに、以前とは少し違う。
「前より、皆楽しそう」
「ええ。新しい仕事を覚えることを、楽しみにしている者も多いようでございます」
「そう……」
少し前まで、この屋敷がどうなるのか、誰にも分からなかった。ここで働き続けられるのかさえ、不安だったはずだ。
それが今は、皆が新しい仕事へ向けて動いている。
やっぱり、この屋敷を茶房にすることにしてよかった。
庭に面した応接室へ入る。
「もう、すっかり客席らしくなったわね」
窓辺には丸卓と椅子が置かれ、壁際には小さな飾り棚が並んでいる。
私は窓辺へ近づいた。
「こちらの席からなら、庭がよく見えるわ」
「お義父様が、庭の見える席は多くした方がよいと」
「そうだったわね」
義父は、最後までそこだけは譲らなかった。
それを思い出して、少し笑ってしまう。
「では、こちらへ」
セバスに案内され、さらに奥へ進んだ。
廊下では従僕が椅子を運び、侍女がカーテンの丈を確認している。厨房の近くでは、料理人たちが新しく入った棚へ器具を並べていた。
「あ……」
一つの扉の前で、足が止まった。




