第6話
――あなた……どうか、私の最期の願いを叶えて……。
フリージアが最後にそう言ったことを、今でも覚えている。
私を愛していたのなら、なぜ最期にそのような願いを託したのだろう。
せめて最後くらい、夫である私へ別の言葉があってもよかったではないか。
あのとき感じた不快感を、私は今でも忘れられずにいた。
◆
「今さら、領地も屋敷もなしに、どうしろというんだ……」
以前、グラーフ伯爵へもそう訴えた。
返ってきたのは、知るかと言わんばかりの冷たい態度だった。
あの男には、人の事情を理解しようという気持ちがない。
そもそも、なぜエリナが爵位を望む必要があったのだ。
いずれ他家へ嫁ぐ娘なのだから、家まで継ぐ必要はない。長男であるレオンが家を継ぐ方が、ごく自然なことだと思っていた。
それなのに、フリージアは最後まで、エリナに家を継がせることへ固執した。
結婚したばかりの頃のフリージアは、悪い妻ではなかった。
人前では私を夫として立て、領民や使用人の前でも、私の顔を潰さないよう心を配っていた。
それなのに、一度こうと決めれば、頑なに考えを変えなかった。
私が家を守ろうとしても、最後まで正式な権限を渡そうとはしなかったのだ。
だから私は、自分の力で利益を得ようとした。
保証人となった相手の事業がうまくいけば、フリージアにも、私の判断が正しかったと示せるはずだった。
それが失敗したのは、私だけの責任ではない。
フリージアが私を正式な当主として認め、領地の収益を自由に動かせるようにしていれば、ここまで問題が大きくなることもなかった。
エリナの縁談についても同じだ。
条件のよい相手を探すのに、どれほど苦労したと思っているのだろう。
一時はエリナにもいくつか話が来ていたが、どれも家にとって十分な条件ではなかった。その中から、ようやく最もよい話を選んだというのに、本人は礼を言うどころか拒絶した。
あの子は、自分が何を捨てたのか分かっていない。
もっとも、今はグラーフ伯爵に何を吹き込まれているのか、気づかないのだろう。
少し時間が経てば、父親を追い出したことを後悔するはずだ。
そのときまで、クレア叔母上の屋敷へ身を寄せればいい。
法院の判断では、借金の返済義務は私個人に残った。
だが、クレア叔母上も返済契約の保証人として責任を負うことになったはずだ。
叔母上の家には、返済へ回せるだけの財産がある。まずは叔母上に立て替えてもらい、エリナが考え直したあと、領地の収益から返していけばよい。
そうすれば、すべて元どおりになる。
手元に残っていた金のほとんどを使い、私はようやくクレア叔母上の屋敷へたどり着いた。
裁判では叔母上も取り乱していたが、そろそろ落ち着いている頃だろう。
夫のブラン伯爵は、昔から気難しい男だった。
それでも、クレア叔母上が取りなせば、しばらく置くことくらいは認めるはずだ。
応接室へ通されて待っていると、クレア叔母上とブラン伯爵が入ってきた。
伯爵は向かいへ腰を下ろすなり、深いため息をついた。
「はぁ……」
嫌みのつもりだろうか。
昔から、この男は私を快く思っていない。
しかし、黙ったままでは話が進まない。
「……まさか、グラーフ伯爵があのような男だとは思いませんでした」
私は重々しく口を開いた。
「若いエリナをそそのかし、家族を屋敷から追い出すなど……」
隣に座るクレア叔母上が、深刻そうな顔で頷いた。
「そうなのよ、あなた……そのせいで、エリナったら人が変わったように冷たくなってしまって」
「今は感情的になっているだけです。少し時間が経てば、あの子も考え直すでしょう。ここへ置いていただくのも、ほんのしばらくです」
ブラン伯爵はしばらく私を見ていたが、やがて低い声で尋ねた。
「法院の判断では、借金の返済義務はお前に残ったはずだな」
「ええ。ただ、クレア叔母上も保証人として責任を負うと――」
「それで?」
短い問いに、言葉が止まった。
「お前自身は、どう返すつもりだ。当然、返すつもりはあるのだろう?」
「それについては、エリナと話し合うつもりです。領地からは収入があります。それに、エリナが始めた事業も軌道に乗っている。今後さらに――」
「自分で返そうとは思わんのか」
思わず眉を寄せた。
「家族なら、助け合うものでしょう。私が困っているのに、娘が利益を抱え込む方がおかしい」
「保証人を引き受けるときには家族へ相談せず、返す段になれば家族の責任か」
私の顔が強張った。
だから、この男は嫌なのだ。人の言葉の一部だけを取り上げ、揚げ足を取ることしか考えていない。
クレア叔母上が、取りなすように身を乗り出した。
「あなた、ローレンスも追い詰められていたのよ。フリージア様にも頼れなくなって――」
「クレア。お前にも聞く。なぜ、私へ何の相談もなく保証人になった」
「だって、ローレンスが困っていたから……大切な甥ですもの……」
「その言葉は便利だな」
ブラン伯爵は、背もたれへ体を預けた。
「自分が助けたいときには家族だからと言い、相手に返済させたいときにも家族だからと言う」
「そんな言い方……」
「叔母上は、私たちの家を心配してくださっただけです」
「お前は黙っていろ」
「っ……」
「この領地内に滞在すること自体は認める」
「助かります。エリナが落ち着きさえすれば――」
「娘が考え直すのを待つためではない」
ブラン伯爵が、私の言葉を遮った。
「お前が借金を返すために、だ」
いったい、この男は何を言っているのだ。
「私に、働けと?」
「ほかに誰が返す」
「私は男爵家の――」
「初めから当主ではない身分で、何を言っている」
この男まで、私を当主として認めないというのか。
領地は、これまで大きな問題もなく治めてきた。あの保証の一件にしても、私に十分な裁量が与えられていれば、あそこまで事態が悪化することはなかったはずだ。
「ローレンス。エリナ嬢に近づくことは許さん」
「なぜ、あなたにそのようなことを決められなければならないのです」
「私の妻を、お前の借金の保証人に巻き込んだ身で何を言う」
「叔母上は、ご自分の意思で引き受けてくださったのです。私が無理に頼んだわけではありません」
「そうか。娘には家族なのだから返済を手伝えと言いながら、夫である私には、妻が背負った返済へ口を出すなと言うのか」
「それとこれとは――」
「何が違う」
言葉が出なかった。
「グラーフ伯爵家にも、リュークハルト家にも勝手に出向くな。手紙を送ることも許さん」
ブラン伯爵は立ち上がり、控えていた執事へ顔を向けた。
「領内で、住み込みの働き口を手配しろ。明日から働かせる」
「かしこまりました」
「待ってください」
慌てて声を上げる。
「クレア叔母上の私財を返済へ回すのでしょう? それなら、私は――」
「……お前は、本気でそれを言っているのか」
ブラン伯爵の鋭い視線が、私へ突き刺さる。
「恥を知れ」
肩が、びくりと揺れた。
そのとき、扉が叩かれた。




