第3話
あれから数日、俺は知人の屋敷を何軒も訪ねたが、どこも似たような反応だった。
「主人はただいま外出しておりまして」
「本日は先約がございますので」
「申し訳ありません。急なご訪問には対応いたしかねます」
最初の男とは違い、屋敷へ上がることすらできないところもあった。
「……おかしい」
以前なら、俺が名を告げれば、門前で追い返されるようなことなどなかった。
「まさか、グラーフ家が……?」
あの男が何か言っているのか。
そうでなければ、以前は普通に応対していた者たちが、揃って俺を避ける理由が分からない。
俺が助けを求めても相手にするなと、近隣の貴族へ話を通しているのかもしれない。
「どこまでやるつもりなんだ……」
こうして周囲から俺を孤立させ、諦めさせるつもりなのだろう。
だが、そうはいかない。
俺は家督を取り戻さなければならない。リュークハルト家の後継者として育てられてきた俺が、本来あるべき場所へ戻るのだ。
俺は通りを歩きながら、手元に残った金を思い浮かべた。
初めの数日は、貴族や裕福な商人が利用する宿を取っていた。部屋も広く、食事にも不満はなかったが、連泊すると宿代だけで毎日それなりの金が消えていく。
「こんなことに使っている場合じゃない」
貴族法院へ改めて申し立てるにも、何かと入り用になるだろう。寝るだけの場所へ金を使い続けるなど、馬鹿げている。
通りをしばらく歩いたところで、一軒の宿が目に入った。
一階が酒場になっているらしく、開け放たれた扉の向こうから人の話し声が聞こえてくる。看板も建物も簡素で、先ほどまで泊まっていた宿とは比べるまでもない。
「……ここにするか」
本来なら、こんな場所に泊まる身分ではない。
だが、今はそうも言っていられなかった。これは節約だ。家督を取り戻すために、余計な出費を抑えているだけなのだ。
そう考えながら扉をくぐる。
「いらっしゃい」
声をかけてきたのは、カウンターの向こうに立つ中年の男だった。
店内を見回す。
思っていたほどひどくはない。昼を過ぎたばかりだからか客も少なく、端の卓では商人らしい男が二人、食事をしている。奥には職人らしい格好の男もいたが、酔いつぶれて騒いでいるような者はいなかった。
「……まあ、この程度なら」
俺はカウンターへ向かった。
「部屋は空いているか?」
「一人部屋なら空いてますよ」
主人から告げられた額は、これまでの宿よりずっと安かった。
これなら、しばらく滞在してもそれほど痛くない。
「そこを頼む」
「食事はどうします?」
「必要な時に頼む」
「分かりました」
部屋へ荷物を置いたあと、俺は再び一階へ下りた。何軒も屋敷を回って歩いたせいで、さすがに疲れていた。
カウンターの端へ腰を下ろす。
「酒をくれ」
「何にします?」
「安いものでいい」
主人が一瞬こちらを見たが、何も言わず酒を注いだ。
杯を受け取り、一口飲む。
特別うまい酒ではない。だが、値段を考えれば悪くなかった。
「何かつまみますか?」
「ああ。適当に頼む」
しばらくすると、小さな皿が目の前へ置かれた。
薄く切られたチーズと、茶色がかった果物。
何気なく一枚つまみ、チーズと一緒に口へ入れる。甘酸っぱい味と塩気が重なったところで、手が止まった。
「……これは、干し林檎か?」
「ええ。最近、よく出るんですよ。チーズと一緒に食べると酒に合うってんでね」
「これは、どこから仕入れている?」
「リュークハルト領ですよ」
「やはりな。うちの領地からだったか」
主人の手が、わずかに止まった。
「……うちの領地?」
「ああ。俺はリュークハルト家の者だ」
「へえ……もしかして、エリナお嬢さんのご家族で?」
「兄だ」
「ああ、お兄さんでしたか。エリナお嬢さんにはお世話になっております」
「そうか」
俺はもう一枚、干し林檎をつまんだ。
「うまいだろう?」
「ええ。評判はいいですよ」
「当然だ。うちの領地の乾燥物は、ほかとは違うからな」
「そうなんですか」
「ああ。林檎だけじゃない。無花果なんかも作っている。最近は取引先も増えているはずだ」
「へえ……」
「エリナが始めた頃は、心配したものだ。まあ、家の事業として続けさせた甲斐はあった」
「ええ。お若いのに、しっかりしてますよね。この前も、チーズと一緒に出してみてはどうかって教えてくれたんですよ」
「そうか。まあ、あいつは昔から細々としたことを考えるのは得意だったからな」
主人は「へえ」とだけ答え、手元の杯を拭き始めた。
しかし、乾燥物が、まさかこんな宿にまで入っているとは思わなかった。
俺が把握していた以上に、手広くやっていたらしい。
皿に残っていた最後の一枚を口へ入れる。
「もう少し、これを出してくれ」
「干し林檎とチーズですね」
「ああ」
空になった皿を、主人の方へ押した。
「せっかく妹が世話になっている店なんだ。俺も少しくらい味を見ておかないとな」
「分かりました」
主人はそう言って、皿を下げて奥へ戻っていった。
俺は杯に残った酒を口へ運ぶ。
さて、これからどうするか。
知人を頼るのは、思っていた以上に難しそうだった。金を貸してもらえないとなれば、手元にある金だけで代理人を探さなければならない。
だが、今の額では心許ない。
「……金か」
何か、金に換えられるものはなかっただろうか。
俺が持ち出した荷物など、たかが知れている。服を売ったところで、大した額にはならないだろう。
そこまで考えたところで、ふと屋敷の中が頭に浮かんだ。
「……あるじゃないか」
家具や銀器に、絵画。母上が使っていた調度品も、いくつか残っていたはずだ。
売ったところで、母上が俺に残そうとした額には到底及ばない。それでも、ある程度まとまった金にはなるはずだ。
「そうだ……これは当然の権利だ」
これは盗むわけではない。
俺は、本来なら母上の遺言で金を受け取るはずだった。それが父上のせいで、もうほとんど残っていない。なら、その分を別の形で受け取ってもいいはずだ。
まして、その金は家督を取り戻すために使う。無駄遣いするわけでもないのだから、何もおかしくはない。
ただ――正面から話せば、エリナは認めないだろう。
それどころか、グラーフ伯爵まで口を出してくるに違いない。
「……俺の荷物が、まだ残っていたな」
着替えや本、それに細かな私物をいくつか置いたままだったはずだ。
それを取りに来たと言えばいい。
自分の荷物を引き取りに来た兄を、さすがに門前で追い返すことはできないだろう。
屋敷へ入ってから、売れそうなものを確認すればいい。
「よし、明日にでも行ってみるか」
ようやく道筋が見えた気がして、俺は残っていた酒を飲み干した。
ちょうどそこへ、主人が新しい皿を持って戻ってくる。
干し林檎とチーズが、先ほどと同じように盛られていた。
「お待たせしました」
「ああ」
皿を引き寄せ、俺は機嫌よく干し林檎を一枚つまんだ。
主人が、手元の帳面へ何かを書き込む。
「では、追加の一皿で――」
告げられた額に、俺は眉を寄せた。
「……俺からも代金を取るのか?」
「はい?」
「これはリュークハルト領の商品だろう。俺はエリナの兄だぞ」
主人は一度瞬きをした。
「……エリナ様だって、ここで食事をされた時は、きちんと代金を払ってくださいますよ」
「……は?」
「仕入れた品ですからね。誰が食べても、代金はいただきます」
主人は当然のように答えた。




