第7話
セバスが退出しかけて、ふと思い出したように足を止めた。
「当主様。お忙しいことは承知しておりますが、一度、乾燥小屋の者たちにもお顔をお見せになってはいかがでしょう」
「あ、それなら今日の帰りに寄るつもりだったの。差し入れも持っていこうと思っていて」
セバスの表情が和らいだ。
「それは、皆も喜ぶことでしょう」
「セバスもありがとう。ずっと任せきりになっていたから、気になっていたの」
領地を離れているあいだも、乾燥小屋からは定期的に報告が届いていた。
今のところ、大きな問題は起きていない。
新しい販路を増やしているわけでもなく、決まった商会へ決まった量を出荷するだけなら、現場の皆だけでも十分に回せているようだった。
私がいなくても、それぞれが自分の仕事をきちんと続けてくれている。
そのことが、何よりありがたかった。
「いいえ。ですが、もう少しでイチジクの季節になります」
「そうなのよね。林檎より忙しくなるし、今のままというわけにはいかないわ」
原料として持ち込まれる果実の量も増える。そうなれば、作業する人を増やす必要も出てくるだろう。
「だから、グラーフ領から責任者を任せられそうな方を紹介していただいたの」
「さようでございましたか」
紹介されたのは、グラーフ領の集積所で、荷の出入りや在庫の記録を管理している男性だった。
普段から現場にも出ており、作業の流れもよく分かっているらしい。
アーネストによれば、今より一段上の仕事を任せても問題ない人物だと、集積所の責任者からも報告を受けているそうだ。
「それに、いつまでもセバスに乾燥小屋まで任せるわけにもいかないものね」
口にしながら、私は乾燥小屋で働く人たちの顔を思い浮かべた。
初めは、その中から責任者を選ぶことも考えた。ただ、乾燥小屋全体を見るとなれば、作業の指示だけでは足りない。
原料がどれだけ入り、どれだけ商品になったのか。何箱を出荷し、在庫がどれほど残っているのか。商会から届く書面にも目を通し、何かあれば私へ報告してもらう必要がある。
今働いている人たちの誰か一人へ、いきなりすべてを任せるより、まずは経験のある人に責任者をお願いした方がいいと思った。
「……でも、いつかは乾燥小屋で働いている人の中から、責任者を任せられる人が育つようにしたいわね」
セバスが頷く。
「よろしいお考えかと存じます」
◆
セバスと別れたあと、私はアーネストを探しに行った。
屋敷では、使用人たちが早速、改装に向けて荷物をまとめ始めていた。片づけが終わったところから、順に工事へ入る予定になっている。
一階には姿が見当たらなかったので、階段を上がった。
二階の廊下を歩く。
以前から、この屋敷はそれほど賑やかではなかった。
それでも、父の執務室へ向かうときには、今日は何を言われるのだろうと重い足取りでここを歩いた。
兄と顔を合わせれば、仕事のことで小言を言われることもあった。
姉の部屋の前を通れば、夜会の前などは何人もの侍女が出入りし、衣装や装飾品を運んでいた。
それも、もうない。
父の執務室の扉は閉じられたまま。
兄の部屋から声が聞こえることもない。
姉の部屋の前を行き来する侍女の姿もなかった。
廊下の奥まで進むと、私の部屋の扉が少しだけ開いていた。中を覗くと、アーネストは、机の前に立っていた。
「お待たせしました」
そう言いかけて、私は足を止めた。
アーネストの視線は、机の上に落ちている。そこには、開いたままの帳面があった。
「あ……」
慌てて駆け寄る。
「み、見ないでください……!」
帳面を閉じようとして、焦ったせいで手元がもつれた。ようやく閉じると、私はそれを胸に抱えるようにして隠した。
「す、すみません。散らかっていて……」
中身は走り書きばかりだった。
思いついたことや、その日に確認すること。仕事の計算まで、空いているところへそのまま書き込んでいる。こんなものを見られるなんて、恥ずかしすぎる。
アーネストは何も答えなかった。ただ、私を見ている。
「……いつ書いた」
「え?」
「金貨三百」
息が止まった。
帳面を抱える手に、力が入る。
「いつ書いた」
もう一度問われ、私は視線を落とした。
「……あのときです。アーネスト様が、この屋敷に来てくださったあとです」
「……あの頃、俺を避けていたのは、それが理由か?」
私は小さく頷いた。
「俺は……君にそれを用意しろと言ったつもりはない」
「……そ、そうですよね。私が先走ってしまって……」
言葉がうまく続かない。
「アーネスト様は前から、気にしないとおっしゃってくださっていたのに……私が勝手に……」
「だが」
アーネストはそこで言葉を切った。何かを飲み込むように、短く息を吐く。
「君には、そう聞こえたんだな」
私は何も言えなかった。
次の瞬間、そっと抱き寄せられた。
「悪かった」
背中へ回された腕に、少し力がこもる。
「俺は、君なら自分の足で立てると、そう言いたかった」
「……」
「俺の言い方が悪かった。すまない」
私は、アーネストを見上げた。
眉間には深い皺が寄っている。
――私が思っているよりも、この人は不器用なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ笑いそうになった。なのに、目の奥が熱くて、うまく笑えなかった。
私は、彼の胸へ額を寄せる。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
アーネストの腕の中で、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていく。
……この人を、好きになってよかった。




