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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
二十章

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第8話

男爵としての仕事そのものは、これまでしてきたことと大きく変わらなかった。


ただ、一つだけ大きく違う。


今は、その判断に対する最終的な責任が、すべて私にある。


その日も領内から届いた報告書に目を通していると、ひとつ気になる記述があった。


上流側の村で、用水路の水量が落ちている。このままでは数日後には、下流の畑にも影響が出るかもしれない、とある。


私は前年の同じ時期の報告書を取り出した。


「ええと……そうだった。去年も、この辺りで土砂が溜まっていたのよね」


報告書の端へ、指示を書き込んでいく。


「まず、上流の取水口と水路を確認してもらって……土砂が原因なら、そのまま人を出して除去を。水量そのものが減っているなら、下流までの配分を一時的に調整してもらって……下流の村にも報告して、と」


そこまで書いて、手を止めた。


確か、去年も同じ場所で土砂が溜まっている。今年だけのことではないのなら、毎年取り除くだけではいけないだろう。


「……それから、土砂が溜まる原因も確認して……水路や周辺に補修が必要なら、必要な工事と費用をまとめて報告してください……」


書き終えて、次の報告書へ手を伸ばす。


ふと視線を感じて顔を上げると、アーネストがこちらを見ていた。


「……どうかなさいましたか?」


「いや」


そう答えたアーネストの口元が、わずかに緩んでいる。


「……なんだか嬉しそうですね。何かあったのですか?」


「君が、当たり前のように仕事をしているのを見ていただけだ」


私は目を瞬いてから、そっと視線を逸らした。


「……恥ずかしいです。あまり見ないでください……」


ただでさえ、独り言も多いのに。


「それは無理だ」


「どうしてですか?」


「見ていたいから」


「……うう」


そろそろと次の報告書を手に取る。


今度は、独り言を言わないようにしよう。


そう意識しながら仕事を続けたけれど、アーネストの視線は、ずっとこちらへ向けられたままだった。


しばらくして、最後の報告書を読み終える。


私は椅子から立ち上がった。


「お待たせしました」


「では、行くか」


「はい」


私たちは並んで屋敷を出た。


玄関前には、グラーフ家の馬車が待っている。


今日向かうのは、母の墓だった。



リュークハルト家の屋敷から少し離れた丘に、一族の墓地がある。


母が亡くなったばかりの頃は、寂しくなるたび、何度もここへ足を運んだ。


領地の仕事を任されるようになってからは、次第に忙しくなり、訪れることも少なくなっていった。


母の命日も、私が口にしなければ、父も兄も姉も特に何かをすることはなかった。


墓前へ白い花を供え、目を閉じた。


アーネストは、少し離れたところで待ってくれている。


「お母様……私、正式にリュークハルト男爵位を継ぎました」


ゆっくりと目を開き、墓石に刻まれた母の名を見つめる。


「領地の仕事も、皆に助けてもらいながら進めています。だけど……」


一度、言葉が途切れた。


「ごめんなさい。お母様が守ろうとした家族を、私は一つにしておくことができませんでした」


父も、兄も、姉も、もう領地にはいない。


それは、私が決めたことだった。


「でも、領地は守ります。そこで暮らす人たちも、これからのリュークハルト家も」


母から託されたものを、すべて同じ形で残すことはできなかった。


それでも、守れるものは守っていきたい。


「それから……私、結婚しました」


アーネストへ、そっと目を向ける。


「もうすぐ、婚礼を挙げます。しかも……私が初めて好きになった方なんです」


母が聞いたら、どんな顔をするだろう。

驚くだろうか。それとも、安心してくれるだろうか。


「とても素敵で、格好良くて……私を大切にしてくださいます」


言いながら、自然と笑みがこぼれた。


「私も、あの方を大切にしたいと思っています」


もう一度、母の墓へ向き直る。


「これからも、見守っていてください」


そのとき、背後から足音が聞こえた。


アーネストが、私の隣へ進み出る。彼は墓前へ白い花を供えると、墓石に刻まれた母の名を見つめ、頭を下げた。


「初めてご挨拶申し上げます。アーネスト・グラーフです」


落ち着いた声が、墓地に響く。


「エリナを妻に迎えました。これからは、二人でともに歩んでまいります」


アーネストは、もう一度深く頭を下げた。


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


墓地を離れるとき、アーネストが手を差し出した。その耳が、わずかに赤くなっているように見える。


私はその手に自分の手を重ね、並んで歩き出した。


「……聞こえていましたか?」


「聞くつもりはなかった」


やっぱり、聞こえていたのだ。


恥ずかしいからと、わざわざ離れて待ってもらったのに。


でも、お母様には伝えたかった。こんな方が、私の夫になったのだと。


隣をちらりと見上げる。


アーネストはなかなか視線を合わせてくれない。


「ふふっ」


こらえきれずに笑うと、つないだ手に力がこもった。


「アーネスト様。このあと、どこへ行くのですか?」


「帰りに、グラーフ領の町へ寄る」


「町へ? 何かご用事が?」


「母上が、参考になりそうな茶房があると言っていた。店を開く前に、一度見ておいた方がいいだろう」


胸が弾み、つないでいた手を思わず握り返した。


「嬉しいです。まだ、どのような雰囲気のお店にするか、決めきれていなくて……。アーネスト様は、行かれたことがあるのですか?」


「ない」


即座に返ってきた答えに、私は目を瞬いた。


「商談に使うような茶房ではないからな」


それなら、二人で初めて訪れることになる。そう思うと、さらに楽しみになった。


「ということは……可愛らしいお店だったりして?」


アーネストは、少し考えるように目を細めた。


「母上が勧める店だ。おそらく、そうだろうな」


「アーネスト様は、そのようなお店でも平気なのですか?」


「何がだ」


「花がたくさん飾られていたり、可愛らしい食器が並んでいたりしても……」


好きな人と、そのような店へ行くことに、私は少し憧れていた。男性である彼は、可愛らしい店に入ることを気にしないのだろうか。


「店を見るために行くんだろう」


「そうですけれど……」


アーネストは、なぜ私が気にしているのか分からないようだった。少し間を置いてから、つないだ手を握り直した。


「君と行くのなら、どこでも構わない」


私は目を見開いた。顔が熱くなるのを感じながら、はにかむように笑い、前を向く。


母への報告を終えた寂しさは、まだ胸の奥に残っていた。


それでも、隣にはアーネストがいる。これからのことを、一緒に考えてくれる人がいる。


私はつないだ手をもう一度握り返し、アーネストとともに馬車へ向かって歩いた。

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