第8話
男爵としての仕事そのものは、これまでしてきたことと大きく変わらなかった。
ただ、一つだけ大きく違う。
今は、その判断に対する最終的な責任が、すべて私にある。
その日も領内から届いた報告書に目を通していると、ひとつ気になる記述があった。
上流側の村で、用水路の水量が落ちている。このままでは数日後には、下流の畑にも影響が出るかもしれない、とある。
私は前年の同じ時期の報告書を取り出した。
「ええと……そうだった。去年も、この辺りで土砂が溜まっていたのよね」
報告書の端へ、指示を書き込んでいく。
「まず、上流の取水口と水路を確認してもらって……土砂が原因なら、そのまま人を出して除去を。水量そのものが減っているなら、下流までの配分を一時的に調整してもらって……下流の村にも報告して、と」
そこまで書いて、手を止めた。
確か、去年も同じ場所で土砂が溜まっている。今年だけのことではないのなら、毎年取り除くだけではいけないだろう。
「……それから、土砂が溜まる原因も確認して……水路や周辺に補修が必要なら、必要な工事と費用をまとめて報告してください……」
書き終えて、次の報告書へ手を伸ばす。
ふと視線を感じて顔を上げると、アーネストがこちらを見ていた。
「……どうかなさいましたか?」
「いや」
そう答えたアーネストの口元が、わずかに緩んでいる。
「……なんだか嬉しそうですね。何かあったのですか?」
「君が、当たり前のように仕事をしているのを見ていただけだ」
私は目を瞬いてから、そっと視線を逸らした。
「……恥ずかしいです。あまり見ないでください……」
ただでさえ、独り言も多いのに。
「それは無理だ」
「どうしてですか?」
「見ていたいから」
「……うう」
そろそろと次の報告書を手に取る。
今度は、独り言を言わないようにしよう。
そう意識しながら仕事を続けたけれど、アーネストの視線は、ずっとこちらへ向けられたままだった。
しばらくして、最後の報告書を読み終える。
私は椅子から立ち上がった。
「お待たせしました」
「では、行くか」
「はい」
私たちは並んで屋敷を出た。
玄関前には、グラーフ家の馬車が待っている。
今日向かうのは、母の墓だった。
◆
リュークハルト家の屋敷から少し離れた丘に、一族の墓地がある。
母が亡くなったばかりの頃は、寂しくなるたび、何度もここへ足を運んだ。
領地の仕事を任されるようになってからは、次第に忙しくなり、訪れることも少なくなっていった。
母の命日も、私が口にしなければ、父も兄も姉も特に何かをすることはなかった。
墓前へ白い花を供え、目を閉じた。
アーネストは、少し離れたところで待ってくれている。
「お母様……私、正式にリュークハルト男爵位を継ぎました」
ゆっくりと目を開き、墓石に刻まれた母の名を見つめる。
「領地の仕事も、皆に助けてもらいながら進めています。だけど……」
一度、言葉が途切れた。
「ごめんなさい。お母様が守ろうとした家族を、私は一つにしておくことができませんでした」
父も、兄も、姉も、もう領地にはいない。
それは、私が決めたことだった。
「でも、領地は守ります。そこで暮らす人たちも、これからのリュークハルト家も」
母から託されたものを、すべて同じ形で残すことはできなかった。
それでも、守れるものは守っていきたい。
「それから……私、結婚しました」
アーネストへ、そっと目を向ける。
「もうすぐ、婚礼を挙げます。しかも……私が初めて好きになった方なんです」
母が聞いたら、どんな顔をするだろう。
驚くだろうか。それとも、安心してくれるだろうか。
「とても素敵で、格好良くて……私を大切にしてくださいます」
言いながら、自然と笑みがこぼれた。
「私も、あの方を大切にしたいと思っています」
もう一度、母の墓へ向き直る。
「これからも、見守っていてください」
そのとき、背後から足音が聞こえた。
アーネストが、私の隣へ進み出る。彼は墓前へ白い花を供えると、墓石に刻まれた母の名を見つめ、頭を下げた。
「初めてご挨拶申し上げます。アーネスト・グラーフです」
落ち着いた声が、墓地に響く。
「エリナを妻に迎えました。これからは、二人でともに歩んでまいります」
アーネストは、もう一度深く頭を下げた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
墓地を離れるとき、アーネストが手を差し出した。その耳が、わずかに赤くなっているように見える。
私はその手に自分の手を重ね、並んで歩き出した。
「……聞こえていましたか?」
「聞くつもりはなかった」
やっぱり、聞こえていたのだ。
恥ずかしいからと、わざわざ離れて待ってもらったのに。
でも、お母様には伝えたかった。こんな方が、私の夫になったのだと。
隣をちらりと見上げる。
アーネストはなかなか視線を合わせてくれない。
「ふふっ」
こらえきれずに笑うと、つないだ手に力がこもった。
「アーネスト様。このあと、どこへ行くのですか?」
「帰りに、グラーフ領の町へ寄る」
「町へ? 何かご用事が?」
「母上が、参考になりそうな茶房があると言っていた。店を開く前に、一度見ておいた方がいいだろう」
胸が弾み、つないでいた手を思わず握り返した。
「嬉しいです。まだ、どのような雰囲気のお店にするか、決めきれていなくて……。アーネスト様は、行かれたことがあるのですか?」
「ない」
即座に返ってきた答えに、私は目を瞬いた。
「商談に使うような茶房ではないからな」
それなら、二人で初めて訪れることになる。そう思うと、さらに楽しみになった。
「ということは……可愛らしいお店だったりして?」
アーネストは、少し考えるように目を細めた。
「母上が勧める店だ。おそらく、そうだろうな」
「アーネスト様は、そのようなお店でも平気なのですか?」
「何がだ」
「花がたくさん飾られていたり、可愛らしい食器が並んでいたりしても……」
好きな人と、そのような店へ行くことに、私は少し憧れていた。男性である彼は、可愛らしい店に入ることを気にしないのだろうか。
「店を見るために行くんだろう」
「そうですけれど……」
アーネストは、なぜ私が気にしているのか分からないようだった。少し間を置いてから、つないだ手を握り直した。
「君と行くのなら、どこでも構わない」
私は目を見開いた。顔が熱くなるのを感じながら、はにかむように笑い、前を向く。
母への報告を終えた寂しさは、まだ胸の奥に残っていた。
それでも、隣にはアーネストがいる。これからのことを、一緒に考えてくれる人がいる。
私はつないだ手をもう一度握り返し、アーネストとともに馬車へ向かって歩いた。




