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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
二十章

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第6話

姉は婚礼までのあいだ、オルブライト邸で過ごすことになった。


屋敷を発つ日の朝。


身支度を終えた私は、隣にいたアーネストへ声をかけた。


「そろそろ時間です。行きましょうか」


「ああ」


アーネストは椅子から立ち上がると、背もたれに掛けていた上着を羽織った。机の上には、朝から確認していた書類がいくつも積まれている。


「あの、アーネスト様。お忙しいのでしたら、私は一人でも……」


「問題ない」


アーネストはそれだけ言うと、開いていた書類を閉じた。


「ですが、お姉様を見送るだけですよ? そのためだけに来ていただくのも……」


「君の姉君が屋敷を出るのだろう」


「……はい」


「なら、行く」


それ以上、説明するつもりはないらしい。


私は少しだけ頬を緩めた。


「ありがとうございます」


二人でリュークハルト邸へ向かうと、玄関前にはすでに馬車が止まっていた。その横には、姉の荷物が並べられている。


必要最低限の荷物だけを持っていくと聞いていたのだけれど。


「……全部、乗るのかしら」


大きな旅行箱が三つ。そのほかにも、帽子や小物を入れたらしい箱が二つある。


アーネストも荷物を一瞥した。


「少ない方なのか?」


「おそらく……」


少なくとも、姉にとっては。


以前思い描いていた婚礼とは違うことに、姉は最後まで不満を抱いているようだった。それでも、私へ何かを求めることはなかった。


使用人たちが最後の荷物を馬車へ積み終える。


玄関前に立っていた姉が、こちらを振り返った。


「……では、行ってくるわ」


「はい。お姉様」


私は姉を見つめた。


子どもの頃から、ずっと同じ屋敷で暮らしてきた。


ただ、幼い頃の姉はお母様と過ごすことが多く、姉妹二人で遊んだ記憶はそれほど多くない。大きくなってからも、近いようで、どこか距離のあるままだった。


それでも今日を境に、この家で姉と顔を合わせることはなくなる。


「あの……お姉様。よかったら、これを」


私は持ってきていた小さな箱を差し出した。


「《銀葉亭》で作ってもらった焼き菓子です。馬車の中ででも……」


姉は箱と私を交互に見たあと、そっと受け取った。


「……ありがとう」


「どうか、お幸せに」


姉は一瞬だけ、何かを言いたそうにした。唇がわずかに動く。


やがて、小さな声が返ってきた。


「……あなたもね」


それだけ告げると、姉は馬車へ向かった。


扉の前では、エドヴィン様が待っている。差し出された手を取り、姉が馬車へ乗り込んだ。


やがて扉が閉じ、馬車がゆっくりと動き始める。


私は、その姿が門の向こうへ消えるまで見送った。


父も、兄も。


そして姉も、この屋敷を去った。


気づけば、ここに残っている家族は私だけになっていた。


そのとき、隣から手を握られた。


顔を上げると、アーネストがこちらを見ている。


私は何も言わず、その手を握り返した。


それから二人で屋敷へ戻り、玄関前で待っていたセバスへ向き直る。


「屋敷の者を集めてください」


「かしこまりました」


セバスが一礼し、踵を返した。


「アーネスト様。少し、お待ちいただいてもよろしいでしょうか」


「わかった。俺はその間に、屋敷を見て回っている」


「屋敷を? ……あ、改装するからですね」


「ああ。茶房にするなら、今のうちに見ておいた方がいいだろう」


「そうですね。では、お願いします」


アーネストは軽く頷くと、屋敷の奥へ向かっていった。


しばらくして、玄関広間に使用人たちが集められた。


長くこの屋敷に仕えてくれている者もいれば、まだ勤め始めて間もない者もいる。侍女や従僕、厨房で働く者たちを合わせて、十人ほどが広間に並んでいた。


皆、どこか落ち着かない顔をしている。


無理もない。


私は一人ずつ、皆の顔を見た。


「皆さんも、もうご存じだと思いますが、私は正式にリュークハルト家の当主となりました」


何人かが小さく頷く。


「ただ、私はアーネスト様と婚姻しましたので、これからはグラーフ家の本邸で暮らします」


その瞬間、広間のあちこちから小さなどよめきが起きた。


互いに顔を見合わせる者もいる。年若い侍女の一人は、ぎゅっとエプロンを握っていた。厨房の者も、険しい顔で床へ視線を落としている。


私は少し声を張った。


「ですが、皆さんを解雇するつもりはありません」


ざわめきが止まった。


全員の視線が、一斉にこちらへ集まる。


「この屋敷を改装して、茶房を開こうと考えています」


今度は、先ほどとは違う意味で空気が揺れた。


「……茶房?」


誰かが小さく呟いた。


「私はこれまで、リュークハルト領で乾燥果物の事業をしてきました。その事業を、もう少し広げたいと考えています」


皆を見渡しながら、言葉を続ける。


「この屋敷で、干し果物を使った菓子や果実茶をお出しして、領内の商品も紹介できる場所にしたいと思っています」


使用人たちは、まだ戸惑ったように互いの顔を見合わせていた。


「もちろん、今までとまったく同じ仕事というわけにはいかないと思います。それでも、この屋敷で働き続けたいと希望する方には、できる限り仕事をお願いしたいと考えています」


しばらく、誰も口を開かなかった。


やがて、後ろの方にいた年若い侍女が、おそるおそる手を上げた。


「あの……」


「どうぞ」


「わたし、接客といっても、これまでお客様をお部屋へご案内したり、お茶をお出ししたりするくらいしか経験がなくて……それでも、お役に立てるのでしょうか……?」


「もちろんです」


私は頷いた。


「お客様をご案内したり、お茶をお出ししたりすることは、茶房でも必要になります。まずは、これまでしてきたことを活かせる仕事からお願いするつもりです」


侍女の表情が、少しだけ明るくなる。


すると今度は、厨房の者が口を開いた。


「お嬢様……いえ、当主様」


言い直してから、困ったように眉を寄せる。


「普段の食事や焼き菓子なら作れますが、茶房でお出しするようなものとなると、それほど経験がありません」


「最初から、すべて皆さんだけで作っていただくつもりはありません」


私は答えた。


「まずはグラーフ領の茶房にも協力をお願いして、何をお出しするのか決めるところから始めようと思っています。必要であれば、作り方を教えていただくことも考えています」


「教えていただけるのですか?」


「はい。慣れてきたら、この屋敷で作れるものを少しずつ増やしていきましょう」


料理人は、ほっとしたように息を吐いた。


別の使用人たちも、隣の者と小声で何かを話している。


先ほどまで皆の顔に浮かんでいた不安が、少しずつ薄れていくのが分かった。


「まだ、決まっていないこともたくさんあります」


私は皆を見渡した。


「ですから、それぞれが何を得意としているのか、どんな仕事をしたいのかも聞かせてください。それを見ながら、皆さんの役割を考えていきたいと思っています」


今度は、何人かがしっかりと頷いた。


セバスが一歩前へ出る。


「当主様のお考え、確かに承りました」


そう告げると、使用人たちも一斉に頭を下げた。


「私どもにお力になれることがございましたら、何なりとお申しつけください」


「ありがとう。これからも、リュークハルト家を支えてください。よろしくお願いします」


もう一度、使用人たちが深く礼をした。


やがて、セバスの合図で皆が下がっていく。広間から、人の姿が少しずつ消えていった。


最後に残ったのは、セバスだけだった。


「セバス。少し、話を聞かせてくれる?」


「かしこまりました」


セバスは頭を下げた。


私は応接室へ移り、椅子へ腰を下ろす。セバスは向かいに立った。


「……セバスは、私が後継者だと知っていたの?」


問いかけると、執事は目を伏せた。


「はい」


「なぜ……教えてくれなかったの?」


思ったよりも、責めるような声が出た。


私は一度、唇を結ぶ。


「……お母様が、止めていたから?」


「はい。奥様から、固く口止めされておりました」


「どうして……」


「お嬢様を守るためでございます」


私は何も言えず、セバスを見た。


「奥様は、お嬢様なら、いずれお気づきになるだろうとおっしゃっておられました。お嬢様は賢い方だ。自分で判断できるはずだ、と」


「お母様が、そんなことを……」


「もしお気づきにならなかったとしても、旦那様の判断に振り回される家を、何も知らぬまま背負わせることだけは避けたい、と」


「でも、だからといって、生きているうちに……」


そこまで口にして、私は言葉を止めた。


あの頃、父は兄を後継にするつもりでいた。姉の婚姻にも、兄の立場にも、父は強くこだわっていた。


もし母が、私を後継者にすると正面から告げていたら――。


「お父様は、私を遠ざけたかもしれないから?」


セバスは、ゆっくりと頷いた。


「養子に出す。早急に婚姻を決める。あるいは、別の形で相続から外そうとなさったかもしれません」


背筋が冷えた。


父なら、やりかねない。


「奥様は、ご子息様のことも案じておられました」


「お兄様を?」


「正面から後継を争わせれば、この家の中で、お嬢様とご子息様の間に取り返しのつかない溝が生まれる。そうお考えだったのだと思います」


もう、その溝はできてしまった。


そう思ったものの、口には出さなかった。


「奥様は、リュークハルトを守ろうとなさいました。そして、お嬢様を守ろうとなさいました」


「……お母様、そんなふうに考えていたのね」


私は小さく息を吐いた。


結局、母が望んだように家族を一つにしておくことは叶わなかった。


「分かりました」


セバスが一礼する。


「今後は、必要なことをすべて報告するように。私にとって都合の悪いことでも構わないから」


「承知いたしました」


私はセバスを見上げた。


「この屋敷を守っていくには、私一人では足りません。これからも、力を貸してください」


セバスは深く頭を下げた。


「もちろんでございます、当主様」


私は少しだけ、微笑んだ。

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― 新着の感想 ―
姉、破談にはならずに済んだのですね。 交流は、多少は続くわけですか。 主人公が当主を務める事になった家が、つまり姉の実家ですし。
いや、兄と決定的な溝出来とるやんw
 父、信用ゼロじゃん…。
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