第6話
姉は婚礼までのあいだ、オルブライト邸で過ごすことになった。
屋敷を発つ日の朝。
身支度を終えた私は、隣にいたアーネストへ声をかけた。
「そろそろ時間です。行きましょうか」
「ああ」
アーネストは椅子から立ち上がると、背もたれに掛けていた上着を羽織った。机の上には、朝から確認していた書類がいくつも積まれている。
「あの、アーネスト様。お忙しいのでしたら、私は一人でも……」
「問題ない」
アーネストはそれだけ言うと、開いていた書類を閉じた。
「ですが、お姉様を見送るだけですよ? そのためだけに来ていただくのも……」
「君の姉君が屋敷を出るのだろう」
「……はい」
「なら、行く」
それ以上、説明するつもりはないらしい。
私は少しだけ頬を緩めた。
「ありがとうございます」
二人でリュークハルト邸へ向かうと、玄関前にはすでに馬車が止まっていた。その横には、姉の荷物が並べられている。
必要最低限の荷物だけを持っていくと聞いていたのだけれど。
「……全部、乗るのかしら」
大きな旅行箱が三つ。そのほかにも、帽子や小物を入れたらしい箱が二つある。
アーネストも荷物を一瞥した。
「少ない方なのか?」
「おそらく……」
少なくとも、姉にとっては。
以前思い描いていた婚礼とは違うことに、姉は最後まで不満を抱いているようだった。それでも、私へ何かを求めることはなかった。
使用人たちが最後の荷物を馬車へ積み終える。
玄関前に立っていた姉が、こちらを振り返った。
「……では、行ってくるわ」
「はい。お姉様」
私は姉を見つめた。
子どもの頃から、ずっと同じ屋敷で暮らしてきた。
ただ、幼い頃の姉はお母様と過ごすことが多く、姉妹二人で遊んだ記憶はそれほど多くない。大きくなってからも、近いようで、どこか距離のあるままだった。
それでも今日を境に、この家で姉と顔を合わせることはなくなる。
「あの……お姉様。よかったら、これを」
私は持ってきていた小さな箱を差し出した。
「《銀葉亭》で作ってもらった焼き菓子です。馬車の中ででも……」
姉は箱と私を交互に見たあと、そっと受け取った。
「……ありがとう」
「どうか、お幸せに」
姉は一瞬だけ、何かを言いたそうにした。唇がわずかに動く。
やがて、小さな声が返ってきた。
「……あなたもね」
それだけ告げると、姉は馬車へ向かった。
扉の前では、エドヴィン様が待っている。差し出された手を取り、姉が馬車へ乗り込んだ。
やがて扉が閉じ、馬車がゆっくりと動き始める。
私は、その姿が門の向こうへ消えるまで見送った。
父も、兄も。
そして姉も、この屋敷を去った。
気づけば、ここに残っている家族は私だけになっていた。
そのとき、隣から手を握られた。
顔を上げると、アーネストがこちらを見ている。
私は何も言わず、その手を握り返した。
それから二人で屋敷へ戻り、玄関前で待っていたセバスへ向き直る。
「屋敷の者を集めてください」
「かしこまりました」
セバスが一礼し、踵を返した。
「アーネスト様。少し、お待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「わかった。俺はその間に、屋敷を見て回っている」
「屋敷を? ……あ、改装するからですね」
「ああ。茶房にするなら、今のうちに見ておいた方がいいだろう」
「そうですね。では、お願いします」
アーネストは軽く頷くと、屋敷の奥へ向かっていった。
しばらくして、玄関広間に使用人たちが集められた。
長くこの屋敷に仕えてくれている者もいれば、まだ勤め始めて間もない者もいる。侍女や従僕、厨房で働く者たちを合わせて、十人ほどが広間に並んでいた。
皆、どこか落ち着かない顔をしている。
無理もない。
私は一人ずつ、皆の顔を見た。
「皆さんも、もうご存じだと思いますが、私は正式にリュークハルト家の当主となりました」
何人かが小さく頷く。
「ただ、私はアーネスト様と婚姻しましたので、これからはグラーフ家の本邸で暮らします」
その瞬間、広間のあちこちから小さなどよめきが起きた。
互いに顔を見合わせる者もいる。年若い侍女の一人は、ぎゅっとエプロンを握っていた。厨房の者も、険しい顔で床へ視線を落としている。
私は少し声を張った。
「ですが、皆さんを解雇するつもりはありません」
ざわめきが止まった。
全員の視線が、一斉にこちらへ集まる。
「この屋敷を改装して、茶房を開こうと考えています」
今度は、先ほどとは違う意味で空気が揺れた。
「……茶房?」
誰かが小さく呟いた。
「私はこれまで、リュークハルト領で乾燥果物の事業をしてきました。その事業を、もう少し広げたいと考えています」
皆を見渡しながら、言葉を続ける。
「この屋敷で、干し果物を使った菓子や果実茶をお出しして、領内の商品も紹介できる場所にしたいと思っています」
使用人たちは、まだ戸惑ったように互いの顔を見合わせていた。
「もちろん、今までとまったく同じ仕事というわけにはいかないと思います。それでも、この屋敷で働き続けたいと希望する方には、できる限り仕事をお願いしたいと考えています」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、後ろの方にいた年若い侍女が、おそるおそる手を上げた。
「あの……」
「どうぞ」
「わたし、接客といっても、これまでお客様をお部屋へご案内したり、お茶をお出ししたりするくらいしか経験がなくて……それでも、お役に立てるのでしょうか……?」
「もちろんです」
私は頷いた。
「お客様をご案内したり、お茶をお出ししたりすることは、茶房でも必要になります。まずは、これまでしてきたことを活かせる仕事からお願いするつもりです」
侍女の表情が、少しだけ明るくなる。
すると今度は、厨房の者が口を開いた。
「お嬢様……いえ、当主様」
言い直してから、困ったように眉を寄せる。
「普段の食事や焼き菓子なら作れますが、茶房でお出しするようなものとなると、それほど経験がありません」
「最初から、すべて皆さんだけで作っていただくつもりはありません」
私は答えた。
「まずはグラーフ領の茶房にも協力をお願いして、何をお出しするのか決めるところから始めようと思っています。必要であれば、作り方を教えていただくことも考えています」
「教えていただけるのですか?」
「はい。慣れてきたら、この屋敷で作れるものを少しずつ増やしていきましょう」
料理人は、ほっとしたように息を吐いた。
別の使用人たちも、隣の者と小声で何かを話している。
先ほどまで皆の顔に浮かんでいた不安が、少しずつ薄れていくのが分かった。
「まだ、決まっていないこともたくさんあります」
私は皆を見渡した。
「ですから、それぞれが何を得意としているのか、どんな仕事をしたいのかも聞かせてください。それを見ながら、皆さんの役割を考えていきたいと思っています」
今度は、何人かがしっかりと頷いた。
セバスが一歩前へ出る。
「当主様のお考え、確かに承りました」
そう告げると、使用人たちも一斉に頭を下げた。
「私どもにお力になれることがございましたら、何なりとお申しつけください」
「ありがとう。これからも、リュークハルト家を支えてください。よろしくお願いします」
もう一度、使用人たちが深く礼をした。
やがて、セバスの合図で皆が下がっていく。広間から、人の姿が少しずつ消えていった。
最後に残ったのは、セバスだけだった。
「セバス。少し、話を聞かせてくれる?」
「かしこまりました」
セバスは頭を下げた。
私は応接室へ移り、椅子へ腰を下ろす。セバスは向かいに立った。
「……セバスは、私が後継者だと知っていたの?」
問いかけると、執事は目を伏せた。
「はい」
「なぜ……教えてくれなかったの?」
思ったよりも、責めるような声が出た。
私は一度、唇を結ぶ。
「……お母様が、止めていたから?」
「はい。奥様から、固く口止めされておりました」
「どうして……」
「お嬢様を守るためでございます」
私は何も言えず、セバスを見た。
「奥様は、お嬢様なら、いずれお気づきになるだろうとおっしゃっておられました。お嬢様は賢い方だ。自分で判断できるはずだ、と」
「お母様が、そんなことを……」
「もしお気づきにならなかったとしても、旦那様の判断に振り回される家を、何も知らぬまま背負わせることだけは避けたい、と」
「でも、だからといって、生きているうちに……」
そこまで口にして、私は言葉を止めた。
あの頃、父は兄を後継にするつもりでいた。姉の婚姻にも、兄の立場にも、父は強くこだわっていた。
もし母が、私を後継者にすると正面から告げていたら――。
「お父様は、私を遠ざけたかもしれないから?」
セバスは、ゆっくりと頷いた。
「養子に出す。早急に婚姻を決める。あるいは、別の形で相続から外そうとなさったかもしれません」
背筋が冷えた。
父なら、やりかねない。
「奥様は、ご子息様のことも案じておられました」
「お兄様を?」
「正面から後継を争わせれば、この家の中で、お嬢様とご子息様の間に取り返しのつかない溝が生まれる。そうお考えだったのだと思います」
もう、その溝はできてしまった。
そう思ったものの、口には出さなかった。
「奥様は、リュークハルトを守ろうとなさいました。そして、お嬢様を守ろうとなさいました」
「……お母様、そんなふうに考えていたのね」
私は小さく息を吐いた。
結局、母が望んだように家族を一つにしておくことは叶わなかった。
「分かりました」
セバスが一礼する。
「今後は、必要なことをすべて報告するように。私にとって都合の悪いことでも構わないから」
「承知いたしました」
私はセバスを見上げた。
「この屋敷を守っていくには、私一人では足りません。これからも、力を貸してください」
セバスは深く頭を下げた。
「もちろんでございます、当主様」
私は少しだけ、微笑んだ。




