第5話
――レオン、エリナを助けてあげて。
母上が亡くなる前に、そう言われたことがある。
けれど、当時の俺には意味が分からなかった。なぜ、俺がエリナを助けなければならないのか。
次期当主になるのは俺だ。なら、俺を支えるのがエリナの役目ではないのか。
そう思っていた。
◆
「グラーフ伯爵……余計なことをしてくれた……」
歩きながら、吐き捨てるように呟いた。
あの男がエリナへ求婚などしなければ、ここまで話が拗れることもなかったはずだ。
エリナもエリナだ。何がそれほど不満だったというのだろう。あいつの立場も考え、事業を続けることまで認める相手だった。それなのに、最後には家そのものから離れていった。
グラーフ伯爵と関わるようになってから、エリナは変わった。
若年実務者会へ出入りし、家の外に知り合いを増やし、それまでなら受け入れていたことにも異を唱えるようになった。
余計な考えを吹き込まれたのだろう。
……だが、まだすべてを失ったわけではない。
前回の審理では、こちらには法務代理人すらいなかった。一方で、グラーフ家は貴族訴訟を専門とする代理人を用意していた。
最初から条件が違っていたのだ。
今度はこちらも腕の立つ代理人を雇い、改めて申し立てればいい。そのためにも、手元の金はなるべく残しておかなければならない。
「さて……誰を頼るか……」
夜会や、若い貴族が集まる場で何度か話した相手ならいる。
これまで築いてきた付き合いが、まったく役に立たないということもないだろう。
最初に訪ねたのは、夜会で何度か言葉を交わしたことのある子爵家だった。
顔を合わせれば向こうから挨拶をしてきたし、俺がリュークハルト家の後継者だと知った上で付き合っていた相手だ。
突然訪ねるのは気が引けたが、事情を説明すれば、数日くらい身を寄せることはできるだろう。
門番へ名を告げると、屋敷の中へ通された。
廊下を歩く間、使用人たちがちらちらとこちらを見ている。髪は十分に整えられず、上着にも皺が残っていた。
腹立たしくはあったが、今は仕方がない。
案内された応接室で待っていると、しばらくして扉が開いた。
「久しぶりだな。突然訪ねてすまない」
立ち上がって声をかける。
「……ああ。久しぶりだな」
相手はわずかに間を置いて答え、向かいの椅子へ腰を下ろした。
茶が運ばれるのを待たず、俺は口を開いた。
「少し、聞いてほしいことがあるんだ」
「どうしたんだ? 急に……」
「実は……俺は、父上に騙されていたんだ」
俺は、母上の遺言について説明した。
父上が遺言を隠していたこと。必要な手続きを行わず、俺を後継者として扱い続けていたこと。
口にすればするほど、改めて腹が立つ。
相手はしばらく黙って聞いていたが、やがて眉を寄せた。
「それは……気の毒だったな。お前自身は何も知らなかったんだろう?」
「そうなんだ」
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなった。
「母上の意思は、分かっている。だが、俺はずっと、自分が家を継ぐものだと思って生きてきたんだ」
それなのに、ある日突然、すべてが違っていたと言われた。
「遺言があるから、それですべて決まりだと言われても、俺には受け入れられない」
俺は身を乗り出した。
「それに、確かにエリナは領地の実務には詳しい。だが、それだけだ」
俺は続けた。
「あいつは、家の代表として外に立つ務めをほとんど知らない。エリナに領地を任せるなんて、無理がある」
「……それで、今日は何をしに来たんだ?」
「しばらく、ここへ置いてほしい。それから、できれば金も貸してもらいたい」
相手が、驚いたように俺を見る。
「金がないのか?」
「父上が、他人の借金の保証人になっていたんだ。相手が返せなくなり、こちらが返済することになったせいで、家の蓄えはほとんど残っていない」
「それは難儀な話だな……」
こんな話は家の恥だ。本来なら、他人へ語りたくなどない。だが、金を借りる以上、事情を説明しないわけにもいかなかった。
相手は少し考え込んだあと、顔を上げた。
「もしかして、エリナ嬢の乾燥事業は、その借金を返すために始めたのか?」
「そうだ。借金を返すために、エリナが始めた」
「その事業は……お前がエリナ嬢へ命じて始めさせたのか?」
「いや。あれはエリナが自分で始めた」
俺は続けた。
「最初は、どれほど利益になるかも分からなかった。だが、実際に収入が増え始めたからな。家の役に立つのならと、そのまま続けさせたんだ」
「そうか……では、借金はどうするつもりだったんだ?」
さっきから、ずいぶん細かいところまで聞いてくる。だが、金を貸すかどうかを考えているのなら、気になるのも仕方がないのだろう。
「特に大きく方針を変える必要はないと思っていた。エリナの事業も軌道に乗り始めていたし、あいつには縁談の話もあったからな」
「縁談? エリナ嬢にか?」
「ああ。相手方が、婚姻の条件として借金を引き受ける話だった。まとまれば、家の負担も軽くなるはずだった」
そこまで話して、また腹の底が熱くなる。
「なのに……エリナはその縁談を断った。あろうことか、グラーフ伯爵からの求婚を勝手に受け入れたんだ」
「……あのグラーフ伯爵に、エリナ嬢は求婚されたのか?」
「そうだ。しかも、グラーフ伯爵は家を通さず、エリナへ直接求婚した。こっちは男爵家だぞ。伯爵家との婚姻なら、普通はまず家同士で話を通すものだろう。それを二人だけで決めて……こちらがどれだけ困ったと思っている」
相手はしばらく黙り込み、ひと呼吸置いてから口を開いた。
「……お前の事情は分かった」
その言葉に、肩の力が抜ける。
やはり、きちんと話せば分かってもらえるのだ。
「悪いが、お前には関われない」
「……何?」
「もう一度、貴族法院へ申し立てるつもりなんだろう?」
「……なぜ、そう思う」
「さっき、自分には受け入れられないと言っただろう。その状態のお前を屋敷へ置いて、金まで貸せば、俺がお前を支持していると思われる」
「それの何が困る? ……グラーフ伯爵を恐れているのか?」
「グラーフ家は、うちの大切な取引相手だ」
ここにも、グラーフ家の名前が届いているのか。
「俺たちだって、以前から付き合いがあっただろう」
「……付き合い? 夜会で何度か話しただけだろう」
「っ……」
言葉に詰まった。
確かに、互いの屋敷を行き来するほど親しかったわけではない。
だが、夜会で顔を合わせれば話していたし、向こうから声をかけてきたことだってある。
「お前も貴族なら分かってくれ」
「なら……お前だって分かるだろう? 急に後継者ではなかったと知らされた俺の立場が……」
「レオン殿がお帰りだ」
相手が、扉の外へ声をかけた。
すぐに扉が開き、使用人が入ってくる。
「ま、待ってくれ……!」
相手はもう、こちらを見ようともしなかった。
「門までご案内しろ」
「かしこまりました」
使用人が俺のそばまで来て、一礼する。
「こちらへどうぞ」
「本気なのか? ……少しくらい置いてくれてもいいだろう。金だって、必ず返す」
「悪いが、できない」
ようやく返ってきたのは、それだけだった。
俺はしばらくその場に立っていた。
だが、相手が考えを変える様子はない。これ以上ここにいても、使用人たちの前で恥をかくだけだ。
「……分かった」
奥歯を噛みしめ、踵を返す。
廊下を歩きながらも、胸の奥に苛立ちが膨らんでいく。
あれだけ普通に話していたのに。俺がリュークハルト家の後継者だった頃は、向こうから声をかけてきたことだってあった。それが、立場を失った途端にこれか。
門を出ると、背後で扉が閉まった。
「……くそっ」
一人に断られただけだ。知人なら、まだほかにもいる。全員が同じ考えとは限らない。
俺は上着を羽織ると、次の屋敷へ向かって歩き出した。




