第4話
オルブライト子爵家との話し合いを終えた翌日。
私は本邸のティーサロンで、お茶をいただいていた。
「よかったわね。リディア嬢のご縁が続くことになって」
義母が、穏やかに微笑む。
「はい……正直なところ、受け入れていただけるとは思いませんでした」
父が伝えていた持参金や婚姻支度の条件は、ほとんど白紙になった。
オルブライト家と話し合う前、姉のために新たな支度金を用意しないことは、アーネストと決めていた。
「お姉様の支度金がないのは、少し可哀想な気もして……」
私が嫁いだあと、不自由なく暮らせているのは、グラーフ家がドレスや家具まで用意してくれたからだ。
当主となった以上、姉にも改めて支度金を用意するべきではないか。
そうアーネストに相談したところ、返事はすぐに返ってきた。
「それとこれとは別だ。君に用意したものは、伯爵夫人として必要だったから用意した」
「でも……」
姉が嫁入り支度を楽しみにしていたことは、私も知っている。だから、何も用意しないというのは、少し心苦しかった。
「君が当主になったからといって、前当主が約束した金まで肩代わりする必要はない。それに、リディア嬢のために残されていた持参金には手をつけていない」
きっぱりと言われ、私は口を閉じ頷いた。
当初予定されていた持参金を用意できなくなった以上、婚姻の条件そのものを見直す必要がある。それでもオルブライト子爵夫妻は、すぐに縁談を取り下げることはなかった。
婚礼や嫁入り支度の規模を抑え、改めて婚姻契約を結んだうえで、話を進めてくださるという。
向かいでは、アーネストが紅茶を口へ運んでいた。
「君がリュークハルト家の当主になり、グラーフ家とも縁ができた。持参金が減ったところで、縁談を断る理由はないだろう」
「なるほど……」
姉が望んでいた婚姻を失わずに済んだことには、安堵していた。
私は、皿の上に置かれた焼き菓子へ手を伸ばした。
薄く切った干し林檎が、生地の上に花びらのように並べられている。口へ運ぶと、バターの香りのあとから、林檎の甘酸っぱさが広がった。
「おいしい……」
「《銀葉亭》で出し始めた菓子だったな」
義父が、自分の皿から焼き菓子を持ち上げた。
「はい。まだ様子を見ながらですが」
気がつけば、木苺やさくらんぼの季節は終わっていた。
今、《銀葉亭》では、干し林檎を使った焼き菓子を試験的に出してもらっている。珍しいものを好む客が、時折注文してくださる程度だ。
けれど、店主のマルコは、初めはそのくらいで十分だと言っていた。
新しい菓子など、最初から誰もが手を伸ばすものではない。むしろ、すでに注文してくれる客がいるだけでも上出来なのだそうだ。
「この菓子なら、紅茶にもよく合うわね」
義母が、満足そうに頷いた。
「もう少しすれば、イチジクの季節でしょう? もともとリュークハルト家では、干しイチジクを作っていたのよね」
「はい。毎年楽しみにしてくださる方も多いので、その時期は忙しくなります」
「それは楽しみだな」
義父は、残っていた焼き菓子を一口で頬張った。
こうしてグラーフ家の皆と一緒に過ごすことも、ずいぶん増えた。
私は、この時間がとても好きだった。
家族でゆっくりお茶を飲みながら、他愛のない話をする。
母がいた頃も、それぞれが自分のことに忙しく、こんなふうに皆で過ごすことはあまりなかった。
そこで、ふと別のことを思い出し、手を止めた。
「……どうした?」
アーネストが尋ねる。
「屋敷を……どうしようかと思いまして」
父と兄が退去し、姉も近いうちにオルブライト子爵家へ移ることになる。
そうなれば、あの屋敷に暮らす家族はいなくなる。
「使用人たちには、できればこれまでどおり働いてもらいたいと思っていますが……」
義母が、カップを受け皿へ戻した。
「屋敷を維持するための者は必要でしょうけれど、全員を残すのは難しいでしょうね」
「やはり、そうですよね……」
必要な人数だけを残し、ほかの者には新しい勤め先を探す。それが普通なのだろう。とはいえ、家族の事情で仕事まで失わせることには抵抗があった。
「そういえば」
義父が、焼き菓子を見つめながら口を開いた。
「エリナさんの誕生日は、もう少しだったかな」
「え?」
突然話が変わり、私は瞬きをした。
それに、私の誕生日はまだ先である。
「何を贈ろうかと考えていたんだ」
「そ、そんな。お気遣いなく――」
義父にはこれまでにもいろいろなものをいただいている。
婚約祝いには馬車を贈ってもらったし、婚姻祝いには宝飾品、男爵位を継いだ祝いには茶器一式など、十分すぎるほどよくしていただいた。
「いっそのこと、あの屋敷を茶房にしてはどうだ?」
「……茶房?」
「干し果物を使った菓子や料理を出す。屋敷で働いていた者たちなら、客を迎えることにも慣れているだろう」
思わず身を乗り出しそうになった。
あの屋敷を商いに使うという発想は、これまで一度もなかった。
応接室や食堂は、客席として使える。庭を眺めながら、干し果物を使った菓子を楽しんでもらうこともできる。
それだけではない。
領内の商品を並べ、商人や客へ紹介する場所にもできるのではないだろうか。
兄や姉が使っていた部屋も、予約客向けの個室に変えられるかもしれない。
それなら、屋敷そのものが収入を生み、使用人たちの仕事も残せる。
けれど――。
「屋敷は……ずいぶん傷んでいます」
私は慎重に言葉を選んだ。
「お客様をお迎えするなら、かなり手を入れなければならないと思います。厨房も、今のままでは難しいかと……」
「改装費用は、私からの誕生日祝いにしよう」
「そんな……大きなものをいただくわけには――」
「では、出資ということにすればいい」
義父は、軽い調子で言った。
「商売がうまくいけば、利益から少しずつ返してもらう。それなら問題はないだろう?」
「でも、まだ見込みも分かりませんし……」
「まあ、素敵ね」
義母が、楽しそうに手を合わせた。
「では、内装と食器は私が出しましょう。せっかくですもの。女性が何度でも訪れたくなるような場所にしたいわ」
「母上」
アーネストが、わずかに眉を寄せる。
「何かしら?」
「出資額を決める前に、改装の見積もりが必要だ」
そう言いながら、アーネストは私へ視線を向けた。
「厨房設備と、開店までの運転資金は俺が出す」
「アーネスト様まで……」
「必要な投資だ」
当然のことのように言われ、私は言葉を失った。
「でも、皆様にそこまでしていただくなんて……」
「エリナさん」
義父が、少しだけ真面目な顔になる。
「これは君一人のためではない。リュークハルト領が栄えれば、グラーフ家にとっても悪い話ではないだろう」
「……はい」
「それに、もう息子の妻なのだから、身内だ」
義父はそう言って、カップを口へ運ぶ。
その向かいで、義母とアーネストも、ほとんど同時に紅茶を口へ運んだ。
私はもう一度、皿の上の焼き菓子へ視線を落とした。
「……トマさんに、焼き菓子や料理のことを相談してみてもよろしいでしょうか」
「もちろんよ。きっと喜ぶわ」
義母が、にこやかに答えた。
「ありがとうございます」
茶房にするなら、ほかの店も視察した方がいいだろうか。王都の店も見ておいた方がいいかもしれない。
どんな客を想定するのか。商品を並べるなら、どこがいいだろう。
考え始めると、次々にやることが浮かんでくる。
ふと顔を上げると、三人がそろってこちらを見ていた。
「……ど、どうかしましたか?」
そう尋ねると、三人はそろって目を細めた。




