第8話
会場は、前回と同じくグラーフ伯爵の屋敷だった。
受付で招待状を取り出そうとした、そのとき。
「エリナ様ですね。どうぞ」
先に名を呼ばれ、促される。
「あ……はい」
顔を覚えられていたらしい。
私は招待状を出すことなく、そのまま中へ通された。
扉を抜けると、すでに何人もの人が集まっていた。
それぞれが近くの者と言葉を交わしているものの、騒がしいというほどではない。
私は自然と壁際へ向かった。
今日は、誰かと話す気になれなかった。
ぼんやりと会場を眺めていると、視線の先に、父親くらいの年齢の男性と私より少し年上に見える女性がいた。
どうやら親子らしく、二人は別の男性と親しげに話している。
「一人娘でしてな」
父親らしい男性が、どこか誇らしげに笑った。
「爵位も、この子に継がせるつもりです。いずれは家を背負ってもらわねば」
「まあ、それは頼もしい」
話し相手の男性が感心したように頷く。
娘は肩をすくめながら、軽く笑った。
「背負うのはいいんですけどね。結婚相手に主導権を握られるのは御免ですわ」
「はは、それは大変だ」
小さな笑い声が交わされる。
父親は、娘の肩にそっと手を置いた。
「この子の好きにさせますよ。どうせ家を継ぐのは、この子だ」
そのやり取りを、私は黙って見つめていた。
やがて視線を逸らし、そっと目を伏せる。
しばらくして、隣に誰かが立つ気配がした。
「……あの」
振り向くと、落ち着いた雰囲気の女性が立っていた。
華やかな装いをしているのに、不思議と柔らかな印象を受ける人だった。
「失礼だけど……お一人で参加されているの?」
「……はい」
短く答えると、女性は少し目を見開いた。
「そうなの。ご家族や、同伴の方は?」
「……いません」
「……そう」
女性は一拍置いてから、柔らかく続けた。
「じゃあ、あなたが直接呼ばれたのね」
「……はい」
「すごいわね」
たった、その一言だった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「……っ」
息を吸おうとしたのに、うまく入ってこない。
視界が滲む。
「え……?」
女性が戸惑った声を上げる。
止めなければと思った。
でも――
ぽろりと、一粒落ちた。
次の瞬間には、もう止まらなくなっていた。
涙が次々と頬を伝い、顎から落ちていく。
「……ご、ごめんなさい……」
声まで震えた。
「私……っ」
どうして泣いているのか、自分でも分からない。
褒めてもらえたからなのか。
声をかけてもらえたからなのか。
それとも――
「……すみません……」
慌てて涙を拭おうとしても、次から次へと溢れてくる。
「どうしたんだ?」
低い声がして、女性の隣に男性がやってきた。
「休憩室、あったわよね?」
女性はそう言いながら、懐からハンカチを取り出して私へ差し出した。
「……ありがとうございます……」
受け取ると、布の感触がやけに柔らかく感じられた。
男性は私を見るなり状況を察したらしく、近くにいた使用人へ声をかける。
「すみません。休憩室へ案内していただけますか」
使用人はすぐに頷いた。
「こちらへ」
女性が私の隣に寄る。
「大丈夫よ」
小さな声で、そう言った。
私は何度も頷いた。
「……ごめんなさい……」
「いいのよ」
そのまま使用人に案内され、休憩室へ向かう。
扉の前まで来たところで、私は二人に小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます……」
女性は私の肩にそっと手を置く。
「私は、しばらくここにいるわ。落ち着いたら――気が向いたときに、声をかけてちょうだい」
それだけ言って微笑むと、夫と並んでその場を離れていった。
◆
休憩室に入ると、会場のざわめきが遠くなった。
私は長椅子に腰を下ろし、渡されたハンカチを膝の上で握りしめる。
「……」
深呼吸をしようとしても、うまくいかない。
胸の奥が、まだ震えている。
――落ち着かなきゃ。
そう思うのに、気持ちが追いついてこない。
しばらくすると、控えめに扉が叩かれた。
「……失礼」
顔を上げると、扉の前にグラーフ伯爵が立っていた。
「入っても?」
私は小さく頷く。
「……はい」
扉が閉まり、部屋には二人きりになった。
「すみません……お騒がせして……」
「騒ぎにはなっていない」
「……ごめんなさい……」
思わずそう口にすると、
「謝る必要はない」
すぐに、短い言葉が返ってきた。
私は視線を落とす。
伯爵は理由を尋ねることもなく、そのまま少し間を置いてから口を開いた。
「……今は、ここで休んでいていい。会は続いているが、君一人が欠けたところで支障はない」
一拍置く。
「戻りたくなければ、今日はこのまま帰っても構わない」
顔を上げると、彼は先ほどと変わらない場所に立っていた。
「……迷惑では……」
「ならない」
それだけ答えてから、少し間を置く。
「ただ」
初めて、まっすぐ視線がこちらへ向けられた。
「戻るなら、誰も何も言わない。――どうするかは、君が決めればいい」
胸の奥で揺れていたものが、ほんの少しだけ収まった気がした。
「……少しだけ、ここで休んでから……」
そう答えると、伯爵は小さく頷いた。
「分かった」
それだけ言って、扉へ向かう。
「落ち着いたら、声をかけてくれ」
扉が閉まる。
私は再び一人になった。
「……なんで泣いちゃったんだろ……」
自分でも分からない。
胸の奥が、じわりと痛む。
「う……」
声にならない音が漏れた。
ようやく止まったはずの涙が、また溢れてくる。
――気づきたくない。
ハンカチを握りしめたまま、長椅子に身を預ける。
「……もう、いい……」
泣き疲れていたのか、いつの間にか私はそのまま眠ってしまった。
◆
扉が開き、アーネストが中を覗いた。
「……」
長椅子に横向きになり、背を丸めたまま眠っているエリナを見つけ、一瞬足を止める。
「……寝てしまったか」
起こそうとしたものの、手を伸ばしかけてやめた。
近くまで歩み寄り、眠っている顔を見下ろす。
「今日は、ここまでだな……」
アーネストはエリナの背中と膝裏へ腕を差し入れ、そっと抱え上げた。
思っていたよりも、ずっと軽い。
「……まだ、子供だな」
独り言のように呟く。
眠ったままのエリナが、わずかに身じろぎした。
アーネストはぴたりと動きを止める。
しばらく待っても目を覚ます様子がないことを確かめてから、再び歩き出した。
「起きたら、説明すればいい」
エリナを抱えたまま、用意させた客室へと向かった。
二章はここで一区切りになります。
三章は、二、三日後を目安に再開予定です。
静かなまま進むのか、
それとも何かが動き出すのか。
またお付き合いいただければ嬉しいです。




