第2話
翌朝、目を覚ましたときには、アーネストはすでに起きていた。
私が寝台から身体を起こすと、ちょうど身支度を終えたアーネストがこちらを振り返る。
「……おはようございます、アーネスト様」
「ああ。おはよう」
「あの……あまり眠れませんでしたか?」
「なぜそう思う」
「何となく。少し、お疲れのように見えるので……」
アーネストが黙った。
やっぱり。
昨夜、私はすぐに眠ってしまったけれど――もしかして、寝相が悪かったのだろうか。寝返りを何度も打って、アーネストを起こしてしまったとか。
「私、寝言を言っていましたか?」
「……」
「も、もしかして……うるさかったですか?」
「エリナ」
アーネストは額へ手を当てると、小さく息を吐いた。
「気にするな」
「でも……」
「本当に、気にしなくていい」
そう言われてしまえば、それ以上は聞けなかった。
朝食を終えると、アーネストはハインツ先生とともにリュークハルト邸へ向かうことになっていた。
今日は、父とお兄様の退去期限の日だ。
私も同行すると伝えたけれど、アーネストは私が何か言うより先に口を開いた。
「君が行く必要はない」
「でも、これは当主がすべきことでは……」
「今日はハインツと法院の執行官も来る。何かあれば、こちらで対処する」
それでも迷っていると、アーネストはきっぱりと言った。
「これ以上、彼らに会わせたくない」
「……分かりました。お願いいたします」
「ああ」
アーネストを見送ったあと、私は一人、小さく気合いを入れた。
「よし」
もう私は、グラーフ伯爵夫人なのだ。
まずは、自分がここで何をするべきなのかを考えなくては。
身支度を整えてもらいながら、私は鏡越しにリリアを見る。
今日は、いつもより口数が少ない気がする。淡々と髪をまとめるその表情からは、何を考えているのか分からなかった。
「ねえ、リリア」
「はい、奥様。何でしょう」
「夫婦って、夜に何をするものなの?」
リリアの手が止まった。
「夫婦については、リリアからきちんと聞くように、とアーネスト様に言われたの」
「……なるほど」
リリアが、小さく息を吐いた。
「では、きちんとご説明いたします」
「お願いします」
私は背筋を伸ばした。
伯爵夫人として、知らないことがあるなら、きちんと覚えなければならない。
そんな私を、リリアはしばらく見つめていた。
――数十分後。
私は、自分の無知に泣きたくなった。
◆
アーネストはハインツとともに、リュークハルト邸を訪れた。
玄関には法院の執行官と、グラーフ家の護衛も同行している。
「本日はよろしくお願いいたします」
ハインツが笑顔でそう言ってから、アーネストの顔を見た。
「……おや。伯爵、少々お疲れですか?」
「何でもない」
「そうですか」
ハインツはそれ以上追及しなかった。
屋敷の執事は一行を応接室へ案内した。
廊下を進む間、アーネストは周囲へ視線を向けたが、出発のためにまとめられた荷も、運び出す準備をした箱も見当たらない。
応接室へ通されてしばらくすると、ローレンスとレオンが現れた。
「何のご用でしょう。今は取り込んでおりますので、日を改めていただきたい」
ハインツが小さく肩をすくめる。
「本日が退去期限です。そのために参りました」
「その話でしたら、後日にしていただきたい」
まるで多忙であるかのような口ぶりだった。
アーネストの眉間に皺が寄る。
ハインツは慣れた様子で書類を取り出した。
「ローレンス殿。これは日程の相談ではありません」
そう告げて、扉へ視線を向ける。
廊下には、法院の執行官とグラーフ家の護衛が控えていた。
「期限までに自主的な退去が確認できなかったため、執行官立ち会いのもと、屋敷を明け渡していただきます」
そこで初めて、ローレンスの顔色が変わった。
「待ってください。確かに、私たちにも悪いところはあったかもしれない」
先ほどまでの尊大な態度を引っ込め、今度は諭すような声を出す。
その言葉に、アーネストの眉間の皺がさらに深くなった。
ローレンスはアーネストへ顔を向けた。
「エリナは周囲に言いくるめられている。あの子は本心から、家族を追い出したいなどと思っていないはずだ」
「そうだ」
レオンも身を乗り出した。
「俺たちは家族なんだ。直接話せば、エリナだって考え直す」
まだ、エリナが間違っていると思っているのか。
「エリナ夫人の決定です」
ハインツが書面を示した。
「本日をもって、お二人には退去していただきます」
「だから、本人と話をさせてください!」
ローレンスが声を荒らげる。
「あの子は、家族を追い出せるような娘ではない!」
「彼女のことを分かったように語るな」
アーネストの低い声が落ちる。
レオンが顔を歪めた。
「あなたに何が分かる。エリナと暮らしてきたのは俺たちだ」
「共に暮らしていたことと、彼女を理解していたことは別だ」
「あなたがエリナをそそのかし、家族から引き離したのだろう!」
ローレンスが、こちらへ詰め寄ろうとする。
アーネストは一歩も動かなかった。
「見苦しい」
その一言で、ローレンスの足が止まる。
アーネストは二人を冷たく見据えた。
「二度と、彼女の前に現れるな」
ローレンスの顔が怒りで歪んだ。
「あなたに、そんなことを決める権利はない!」
レオンも声を上げる。
「伯爵だからといって、俺たちから妹を奪えると思うな!」
「俺は彼女の夫だ。彼女を守る権利がある」
「お父様!」
部屋の隅にいたリディアが、青ざめた顔で父の腕をつかんだ。
「もう、やめてください……!」
「リディア、お前まで何を――」
「外には、法院の執行官も護衛もいるのよ」
リディアはレオンへも視線を向けた。
「レオンも。これ以上抵抗したら、本当に護衛が入ってくるわ」
レオンが扉の向こうを見る。
武装した護衛と執行官の姿を確認し、ようやく本当に屋敷を出されるのだと理解したのだろう。
「……待ってくれ」
レオンの顔から血の気が引いた。
「母上の遺言には、俺について何も書かれていなかったのか?」
ハインツが眼鏡を押し上げる。
「金銭を遺す旨は、記されております」
レオンの顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
「では――」
「ですが、その原資として指定されていたリュークハルト家の蓄えは、すでに残っておりません」
その表情が凍りつく。
「父親の債務返済に使われ続けた」
アーネストの声が低くなる。
「残っていないことは、お前たちが一番よく知っているはずだ」
「だが、母上は俺に遺すと……」
「フリージア夫人は、あなたを王立士官学校へ推薦するようにも遺言へ記しておられました」
ハインツが淡々と告げる。
「入学に必要な費用も、用意されていたそうです」
レオンが目を見開いた。
「では、今からでも――」
「すでに入学できる年齢を過ぎております」
アーネストは、黙り込んだローレンスを見た。
「恨む相手を間違えるな」
レオンが、ゆっくりと父へ顔を向ける。
「父上……?」
ローレンスは答えなかった。
「あの……」
リディアが、おそるおそる口を開く。
「私は、エリナが当主になることに反対していません。私の持参金は……」
「リディア嬢の持参金として、ローレンス殿が確保していた金銭は残っております」
リディアの表情が、わずかに明るくなる。
「ただし、当初想定されていた額には遠く及びません」
「え? どういうことですか?」
「婚姻支度として予定されていた費用は、これまでの衣装、宝飾品、社交費ですでに使われております。むしろ、支出額は予定を上回っています」
リディアが、弾かれたように父を見る。
「お父様……そんな話、聞いてないわ……」
ローレンスは視線を逸らした。
「婚姻のためには必要なものだった。お前も欲しいと言っていただろう」
「だって……お父様は、一度も支度金がなくなるなんて言わなかったじゃない」
ハインツが続ける。
「したがって、お渡しできるのは、現在確保されている持参金のみです。リュークハルト家から追加の支度金が支払われることはございません」
「で、でも……エリナは、持参金は私に譲ると言ってくれたわ……」
アーネストの目が、すっと細くなった。
「まだ、彼女から奪うことを当然と考えるのか」
「お……お願いします。一度、エリナと話を――」
「彼女の善意を、あなたの権利のように扱うな」
リディアの肩がびくりと震えた。
「なお、エリナ夫人からリディア嬢へ持参金を譲渡する正式な契約は存在いたしません」
ハインツが横から付け加える。
リディアは青ざめたまま、何も言えなくなった。
「お話は以上です」
ハインツが書類を閉じる。
扉の外で、執行官が一歩前へ出た。
「私物の確認が済み次第、用意した馬車へお乗りいただきます」




