第1話
「……」
取り残されてしまった。
私はしばらくその場に立っていたけれど、やがて恐る恐る寝台へ近づき、端へ腰を下ろした。
柔らかい。
少し身体を動かすだけで、寝台がゆっくり沈む。
私は膝の上で両手を握った。
大丈夫。
ただ、一緒に眠るだけだ。
そうよ。
たとえ私が寝言を言ったとしても、もし寝相が悪かったとしても、彼ならきっと受け入れてくれるはず。
それに、私がこんなに緊張していたら、アーネストまで気を遣ってしまう。
落ち着くのよ、エリナ。
すう、と大きく息を吸う。
そのとき、扉が開いた。
「何をしている」
「ひゃっ!?」
肩を跳ねさせ、慌てて振り返る。
そこには、アーネストが立っていた。
「……」
思わず、見つめてしまう。
寝間着姿のアーネストを見るのは、初めてだった。
いつもきっちりと撫でつけられている髪も、今は下ろされている。額にかかった髪のせいか、普段より少し若く見えた。
――いつもより、ずっと近い人に見える。
「……アーネスト様」
呼びかけても、返事がない。
「?」
不思議に思って顔を上げる。
アーネストは、扉の前に立ったまま動いていなかった。視線だけが、こちらへ向けられている。
「アーネスト様?」
もう一度呼ぶと、ようやく彼が瞬きをした。
「……何だ」
「いえ……あ」
もしかして、この夜着が。
「似合いませんか……?」
「……なぜそうなる」
「だって、ずっと見ていらっしゃるので……」
「似合っている」
少し間を置いてから、アーネストが答えた。
「よく似合っている」
「本当ですか?」
ほっとして胸を撫で下ろす。
「よかった……いつも着ているものとは少し違うので、似合っていないのかと思いました」
「……そういう意味で見ていたわけではない」
「え?」
アーネストは答えず、こちらへ歩いてくる。
寝台の端に座ったまま見上げていると、目の前で足を止めた。
「香りも違うな」
「えっ……あ……リリアが、香油をつけてくれたんです」
「そうか」
「アーネスト様も、この香り、好きですか?」
「ああ」
短く答えたあと、アーネストが少し身を屈めた。
「……っ」
私の首元へ顔を寄せ、確かめるように息をつく。
「君に合っている」
耳の近くで声がして、肩がぴくりと跳ねた。
「そ、そうですか……?」
離れてはくれない。
これも、求婚されるまで気づかなかったけれど、アーネストは意外と触れ合うことが好きなのかもしれない。
私はそっと、アーネストの頬へ自分の頬を寄せた。
「……」
アーネストの動きが止まった。
「どうかなさいました?」
返事がない。
少し顔を離すと、彼はじっと私を見ていた。
「……君は」
アーネストが何か言いかけて、口を閉じる。
次の瞬間、腰へ腕を回され、ぐっと引き寄せられた。
「きゃっ」
彼の胸へすっぽりと収まる。
「……自分から寄ってきておいて、驚くな」
「だって、急に……」
「君が先だ」
「……嫌でしたか?」
「嬉しいから困っている」
そう言われ、頬が緩んだ。
私が触れることを、アーネストも嬉しいと思ってくれる。
すると、アーネストの手が頬へ触れた。
「……エリナ」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
次の瞬間、唇が重なった。
「……っ」
すぐに目を閉じた。
これまでにも、口づけを交わしたことはある。
けれど、今日のそれは、いつもより少し長かった。
唇が離れても、アーネストの顔はすぐ近くにある。胸が苦しいくらいに鳴っていた。
「……アーネスト様」
呼ぶと、もう一度、短く唇を重ねられる。
「ん……」
腰へ回された腕に、さらに力がこもった。
恥ずかしい。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、もっと近くにいたいと思ってしまう。
私は彼の背中へ、そっと手を添えた。
その途端、アーネストが動きを止めた。
「……エリナ。君は、今夜のことを分かっているのか?」
「今夜……? 一緒に眠ること、ですか?」
「……」
アーネストがまた黙った。
しかも、とても長い沈黙だった。
「……それだけだと思っていたのか」
それだけ。
何が。
きょとんとしていると、アーネストが額へ手を当てた。
「エリナ……婚姻した夫婦が、寝室を共にする意味を、誰かから聞いたことはあるか?」
「意味……?」
寝室を共にすることに、ほかにも何か意味があるのだろうか。
「母君や、侍女から何も?」
「お母様からは……聞いたことがありません。侍女からも……」
そう答えると、アーネストは黙り込んだ。
腰へ回されていた腕の力が、ゆっくりと緩む。
「……分かった」
「何がですか?」
アーネストは私から少し身体を離した。
さっきまであれほど近かったのに、急に距離ができて、少しだけ寂しく感じる。
アーネストは何やら難しい顔をしていた。
「今日は、寝るだけにしよう」
私は目を瞬かせた。
「君が何も知らないまま、先へ進むつもりはない」
アーネストは深く息を吐いた。
なぜか、とても疲れたように見える。
「私……おかしなことを言いましたか?」
「いや。君は何も悪くない」
すぐにそう返される。
そのまま、アーネストの手が私の頭へ伸びてきた。
「明日、リリアからきちんと聞いてくれ」
「何をですか?」
「……夫婦についてだ」
どうして、わざわざリリアから聞かなければならないのだろう。
「あの、アーネスト様は教えてくださらないのですか?」
「……俺が?」
「はい。ご存じなのですよね?」
なぜ、そんなに困った顔をするのだろう。
「説明することはできる」
「でしたら――」
「だが、俺から教えて、そのまま今夜先へ進むのは嫌だ」
「……嫌?」
思わず聞き返す。
彼が、自分の気持ちをそんなふうにはっきり口にするのは珍しい。
「君が何も知らない状態で、俺の言葉だけを聞いて決めることになる」
「でも、私はアーネスト様を信頼していますし……」
アーネストが額を押さえた。
「……頼むから、今はそれ以上言うな」
「えっ」
「俺にも限界がある」
ますます分からない。
アーネストの手が伸びてきた。
「わっ」
「寝るぞ」
身体を引き寄せられ、そのまま寝台へ倒れ込む。
「今日は、それだけだ」
有無を言わせないような口調だった。
ただ、抱きしめる腕はやさしい。
私は彼の胸元へ頬を寄せた。
「……こうして眠るのですか?」
「ああ」
「これから……ずっと?」
「嫌か?」
「いえ」
さっきまであれほど緊張していたのに、こうして抱きしめられていると、不思議なくらい落ち着く。
「アーネスト様」
「何だ」
「幸せです」
「……そうか」
私は小さく笑って、目を閉じた。
今日一日の緊張がほどけたせいか、すぐに眠気が押し寄せてくる。
「おやすみなさい、アーネスト様」
「……ああ。おやすみ」
その声を聞きながら、私は彼の腕の中で眠りについた。




