第8話
私は落ち着かない気持ちのまま、アーネストをちらりと見る。
アーネストは、いつもと変わらない顔で立っていた。
やはり、私とは違うのだ。
アーネストは私より年上で、何事にも慣れている。同じ寝室を使うことくらいで、こんなにも慌てているのは、きっと私だけなのだろう。
一人ではしゃいでいるようで、急に恥ずかしくなった。
視線を逸らしたとき、衣装棚に並ぶ一着のドレスが目に入った。
アーネストが、初めて私へ贈ってくれたドレスだった。
あの頃は、まさかこんな日が来るなんて、考えたこともなかった。
――例えば、俺と縁談を進める場合でも同じだ。
あのときの言葉を思い出していると、不意に背後から腕が伸びてきた。
「……アーネスト様?」
アーネストの腕が、私の身体を包み込む。背中が彼の胸へ触れ、心臓が大きく跳ねた。
「何を考えてる?」
耳元で尋ねられ、私は衣装棚に並ぶドレスを見つめた。
「アーネスト様と、出会った頃のことです……あのとき、アーネスト様がおっしゃったことを思い出していました」
――例えば、俺と縁談を進める場合でも同じだ。
あの言葉を聞いたとき、私はただ驚くばかりだった。
アーネストが、私にも選択肢があることを分からせるため、例として挙げただけなのだと思っていた。
私は腕の中で身体を返し、アーネストを見上げた。
「あのとき、本当に私との縁談を考えていらしたのですか?」
「ああ」
あまりにも迷いのない返事に、私は目を瞬いた。
「まったく考えていない相手を、例には出さない」
「でも……あの頃から、私を妻にしたいと決めていたわけではありませんよね?」
「そこまでは考えていなかった」
アーネストは少しだけ視線を落とした。
「だが、結婚相手として考えるなら、君は悪くないと思っていた」
「それは……私が仕事をしていたからですか?」
「それもある。それに、信用できた。話をしていて、考え方が大きく違うとも思わなかった。自分で考えて動けるところもな」
あまりにも彼らしい理由で、少しだけおかしくなる。
「ずいぶん、実務的な理由だったのですね」
「婚姻を考えるなら重要だろう」
「そうですけれど……」
でも、それなら。
いったい、いつからだったのだろう。
私を結婚相手として見てもよいと思っていただけのアーネストが、私を好きになってくれたのは。
聞いてみたい。
けれど、いざ口にしようとすると、急に恥ずかしくなった。
「……何だ」
「い、いえ。何でもありません」
俯くと、アーネストはしばらく黙って私を見つめていた。
それから、腰へ回していた腕で、私をさらに引き寄せる。
「気づいたときには、ほかの男へ渡すつもりがなくなっていた」
「……っ」
顔が一気に熱くなる。
聞けずにいたことを、そのまま答えられてしまった。
「今は、君以外を妻にする気はない」
胸の奥が、また大きく鳴った。
私は彼の腕の中で、そっと微笑む。
「それなら……よかったです」
「ああ」
短く答えたあと、今度はアーネストが私を見下ろした。
「君はどうなんだ?」
「え?」
「いつからだ?」
「ええっ!?」
今度は私が聞かれるとは思っていなかった。
「そ、そう言われても……私も、いつの間にかなので……」
答えるほど、声が小さくなっていく。
本当に、いつからなのか分からない。
初めの頃は、何を考えているのか分からなくて、話すたびに緊張していた。けれど、いつの間にか会うことが増え、話を聞いてもらえることが嬉しくなった。
会えない日が続けば寂しいと思うようになり、次はいつ会えるのだろうと考えるようになっていった。
でも、きっと――。
「……私がつらいとき、いつもそばにいてくださって……」
言葉にすると、胸の奥がいっぱいになる。
「アーネスト様がいてくださったから、私、頑張れたんです」
私は彼を見上げた。
「だから……好きになりました」
アーネストは、何も言わなかった。
ただ、私を抱く腕に、ゆっくりと力がこもった。
◆
夕食を終えると、私はリリアに連れられて湯浴みへ向かった。
けれど――。
「……今日は、ずいぶん丁寧なのね」
いつもより時間をかけて身体を洗われ、髪も念入りにすすがれている。
「ああ……そうか」
思わず、小さく呟いた。
今日は、初めてアーネストと一緒に寝るのだ。
そう思った途端、頬が熱くなる。
湯浴みを終えると、身体を拭かれ、今度は薄く香油をなじませられた。腕から肩へ、そして首筋へ。ほのかに甘い香りが立ちのぼる。
「……いい香り」
「本日は、こちらがよろしいかと思いまして」
リリアの指が首筋に触れた。
「ひゃっ」
「奥様?」
「す、すみません。くすぐったくて……」
「もう少しだけ我慢してくださいませ」
「はい……」
今度は鏡台の前へ座らされる。
リリアが、私の髪を丁寧に梳いていった。
グラーフ前伯爵夫妻の屋敷へ来てから、毎日のようにリリアが手入れをしてくれている。以前は適当にまとめるだけだった髪も、今では自分でも驚くほど艶が出ていた。指通りも、ずいぶん違う。
そんなことを考えながら鏡を眺めていて、ふと気づく。
鏡の中のリリアは、妙に真剣な顔をしていた。いつもだって丁寧だけれど、今日はそれ以上だ。
ようやく髪を梳き終えると、今度は夜着が用意された。
「本日は、こちらを」
広げられた夜着を見て、私は目を瞬く。
いつも着ていたものより、少しだけ大人びていた。
淡い菫色の、わずかに光沢のある布地に、襟元と袖には繊細な刺繍が施されている。身体に沿う、すっきりとした仕立てだ。
可愛い。
でも――。
「いつもの夜着とは、少し違うような……」
「ご婚姻初日でございますから」
「……そうね」
アーネストの妻なのだ。
アーネストに並ぶなら、こういう少し大人びたものも必要なのだろう。
そんなことを考えながら、夜着へ袖を通す。
支度がすべて終わると、リリアは私を上から下まで確かめ、満足そうに頷いた。
「よろしいかと存じます」
「そんなに確認しなくても……」
「大切な日でございますから」
何がそんなに大切なのか。
そう思いながら立ち上がると、リリアがにこりと微笑んだ。
「では、参りましょうか」
「は、はい……」
廊下を歩く間、なぜか自分の足音ばかりが耳についた。
やがて、リリアが一つの扉の前で足を止める。
「こちらでございます」
扉が開かれた。
私は中へ入り――目を見開いた。
部屋そのものは、落ち着いた造りだった。
深い色合いの木製家具に、厚手の絨毯。壁の装飾も控えめで、伯爵の寝室という言葉から想像していたほど華美ではない。
けれど。
部屋の中央に置かれた寝台だけは、どうしても目に入った。
「……大きい」
思わず、声が漏れる。
私が実家で使っていた寝台とは、まるで違う。
「これ、本当に二人用なのですか……?」
「……はい。ご夫妻がお使いになる寝台でございます」
どう見ても、二人で眠ってもまだ余りそうなほど広い。
「奥様。どうぞ、あまり緊張なさいませんよう」
「……え?」
「では、私はこれで失礼いたします」
「リ、リリア?」
返事の代わりに、リリアはいつもより少しだけ楽しそうに一礼した。
そのまま扉の向こうへ消えていく。
ぱたり、と扉が閉じた。
_:(´ཀ`」∠):_




