第6話
婚姻認可の申請をしてから、二十日ほどが過ぎた。
その間、私は新しい当主として、慌ただしい日々を送っていた。近隣の貴族や取引先へ、正式にリュークハルト家を継いだことを知らせる書状を送り、領内の責任者から届いた報告にも目を通し、必要なものには返事を書いた。
今日も、机の上には領内から届いた報告書が積まれている。私は一枚ずつ、アーネストに見せながら説明した。
「これまでは、報告書に不備がないか確認してから、お兄様へ渡していました」
そう告げると、アーネストの眉間に深い皺が寄った。
「……君が、そこまでしていたのか」
「そうですね……何か問題があれば、お父様やお兄様から注意されていましたから」
以前、倉庫から届いた報告書を一枚見落とし、資材の発注が遅れたことがあった。兄も父も、その書類には目を通していたが、叱られたのは私だけだった。
それ以来、報告書を確認するときには、抜けや間違いがないか慎重に確かめるようになった。
アーネストはしばらく、机の上の報告書を見つめていた。その表情は、先ほどよりも険しくなっている。
「それなら、実務については今までと大きく変える必要はないな」
「私も、そう思います。ただ……」
私は、別に分けておいた書類へ目を向けた。
「会計と法務については、今のままでは不安があります。借金や担保の件もありましたし、一度きちんと整理した方がよいかと」
「そうだな」
アーネストは、すぐに頷いた。
「その二つについては、グラーフ家から人を出そう。領内の体制が落ち着くまでの間でいい」
「よろしいのですか?」
「必要なことだ」
それと並行して、義母から、婚姻後に必要となることも教わっていた。領内で開かれる行事や、他家から招待を受けた際の振る舞い。伯爵家の使用人や領地について、夫人としてどこまで把握しておくべきか。婚礼の式についても、少しずつ相談を進めている。
覚えなければならないことが多く、毎日があっという間に過ぎていった。
そんなある日、ハインツ先生が屋敷を訪ねてきた。私はアーネストとともに、グラーフ前伯爵夫妻の屋敷の応接室で、先生と向かい合っていた。
ハインツ先生は席へ着くと、鞄から一通の書類を取り出した。
「お待たせいたしました。お二人の婚姻が、正式に認可されましたよ」
机の上へ置かれた書類を見て、胸が大きく鳴る。
「本日付で、エリナ・フォン・リュークハルト男爵と、アーネスト・グラーフ伯爵は、正式な夫婦となりました」
正式な夫婦。
私が、彼と。
隣に座るアーネストを見ると、目が合った。その瞬間、胸の奥から喜びが一気に込み上げてきた。頬が緩むのを抑えられず、私は両手を胸元で重ねた。
「ハインツ先生。ありがとうございます」
「私は、必要な手続きをしただけですよ」
先生は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「それよりも、これからが大切ですよ。グラーフ伯爵夫人」
「伯爵夫人……」
思わず繰り返した。改めて言われると、その言葉が急に重く感じられた。
「どうしました?」
「いえ、その……」
喜びに浮かれている場合ではない。これからは、私の振る舞い一つで、アーネストやグラーフ家の名まで見られることになるのだ。
「グラーフ家の名に恥じないよう、頑張らなければなりませんね」
私が真剣に告げると、ハインツ先生は少しだけ目を細めた。
「気負いすぎる必要はありませんよ。グラーフ伯爵も、ご家族の皆様も、あなたに別の誰かになってほしいわけではないでしょう」
そう言って、先生はアーネストへ視線を向けた。
「そうでしょう、伯爵」
「ああ」
アーネストは、迷うことなく頷いた。
「君は、そのままでいい」
「アーネスト様……」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ハインツ先生は満足そうに頷くと、書類を鞄へ収めて立ち上がった。
「それでは、私の役目も無事に終わりましたので、失礼いたします」
扉へ向かいかけた先生が、ふと思い出したように振り返る。
「改めまして、ご婚姻おめでとうございます。婚礼への招待状を、楽しみにお待ちしておりますよ」
「はい。必ずお送りします」
先生を乗せた馬車が門を出ていくまで、私たちは並んで見送った。馬車が遠ざかると、アーネストが私の手を取った。
「帰ろう」
「はい……え?」
反射的に答えてから、首を傾げる。
「どちらへ?」
「本邸だ」
「え?」
「君の荷物なら、母上とリリアがすでに運ばせている」
何を言われたのか理解した瞬間、声が裏返った。
「ええっ!?」
アーネストと一緒に、本邸へ。それはつまり、今日から同じ屋敷で暮らすということだ。
「き、今日からですか?」
「もう夫婦なのだから、当然だろう」
つないだ手に、少しだけ力がこもっていた。
◆
馬車がグラーフ家の本邸へ近づくにつれ、私は落ち着かなくなっていった。このところ、何度も足を運んでいた屋敷だ。けれど、今日は今までとは違う。
窓の外に見える門を眺めながら、私は膝の上で両手を握りしめた。
今日から、ここで暮らすのだ。
「緊張しているのか」
隣に座るアーネストに尋ねられ、私は小さく頷いた。
「少しだけ……」
「何度も来たことがあるだろう」
「そ、そうですけれど……」
訪れることと、ここを自分の家として暮らすことは、まるで違う。
馬車が屋敷の玄関前で止まった。扉が開き、先に降りたアーネストが私へ手を差し出す。
その手を取りながら外へ出た私は、目の前の光景に固まった。
玄関前には、屋敷の使用人たちが並んでいた。家令を先頭に、執事や侍女、従僕たちが整然と並んでいる。少し離れたところには、料理人らしい者たちの姿まであった。
私が馬車を降りると、全員が一斉に頭を下げた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
続いて、家令が私へ顔を向ける。
「ようこそお帰りくださいました、奥様」
「お、おく……」
奥様。
間違いではない。それでも、あまりにも慣れない呼び方に、すぐには返事ができなかった。
「本日より、どうぞよろしくお願いいたします」
どうにかそれだけ告げると、使用人たちがもう一度、深く頭を下げた。
その中から、一人の侍女が進み出る。見慣れた顔に、私は目を瞬いた。
「リリア?」
リリアは背筋を伸ばし、両手を身体の前で重ねていた。
「本日より、奥様付きの侍女を務めさせていただきます。改めまして、よろしくお願いいたします」
「え?」
思わず、アーネストとリリアを交互に見る。
「でも、リリアはお義母様付きの侍女だったのでは……?」
リリアは、にこりと微笑んだ。
「前伯爵夫人のお取り計らいで、本日より本邸へ移ることになりました。奥様が新しい生活に慣れるまで、よく知る者がそばにいた方が安心だろうと」
それから、少しだけ笑みを深くする。
「もっとも、私はその後も、奥様付きとしてお仕えしたいとお願いしておりますが」
「リリア……」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
義母の屋敷を出れば、もう世話をしてもらうことはないのだと思っていた。新しい屋敷で、知らない使用人たちに囲まれて暮らすことを考えると、少し心細くもあった。
だから、見慣れた笑顔がここにあることが、たまらなくうれしかった。
「ありがとう……これからも、よろしくね」
「はい、奥様」
そう答えたリリアの笑顔は、いつもと変わらなかった。




