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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
十九章

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第5話

判決から十日余りが過ぎた頃。


私はグラーフ本邸の応接室で、ハインツ先生と向かい合っていた。


隣には、アーネストが座っている。


「ローレンス殿には、今後の連絡はすべて私を通すよう伝えてまいりました」


ハインツ先生は、いつもの笑顔で報告した。


「もっとも、あまり納得はされていないようですが」


「お父様は、何と……?」


「『当主になったばかりのエリナには分からない。これまでどおり、自分が屋敷を取り仕切る』と」


隣から、わずかに息を呑む音がした。


アーネストを見る。


黙ってはいたけれど、その眉間には深い皺が刻まれている。


「さらに、『エリナが当主となっても、自分が父親であることに変わりはない。父親の言うことには従わせる』とも」


アーネストの眉間の皺が、さらに深くなった。


「レオン殿も、屋敷を出るつもりはないそうです。長男である自分には、住み続ける権利があると主張しておられました」


「お姉様は……?」


「リディア嬢は、お二人の話には加わりませんでした」


ハインツ先生は、少しだけ首を傾けた。


「ただ、ご自分は婚姻まで屋敷にいてもよいのかと、尋ねられましたね」


いかにも、姉らしい。


少なくとも、父や兄のように、私の決定へ従う必要はないという態度ではなさそうだ。


同じ屋敷で暮らし続ければ、使用人たちも戸惑うだろう。


私が何かを決めるたび、父は父親として口を挟む。


兄も、自分こそ長男なのだと主張し続ける。


これは、娘として決めることではない。


リュークハルト家の当主として、決めなければならないことだ。


「ハインツ先生。お父様とお兄様には、屋敷を出ていただきます」


ハインツ先生は、少しも驚かなかった。


「承知いたしました。退去までの期間はいかがなさいますか?」


「一月で、足りますか?」


「十分でしょう。私物の持ち出しについても、こちらで確認いたします」


「お願いします」


「リディア嬢は?」


「お姉様には、婚姻まで今の部屋を使っていただきます。ただ、夜会への出席や、衣装や装飾品の新調は控えてもらいます」


「では、そのように」


ハインツ先生は立ち上がった。


「正式な通知を作成し、私からお渡ししておきましょう」


先生が部屋を出ると、応接室が静かになった。


アーネストは、しばらく何も言わなかった。


「……君が、そんな決断をするとは思わなかった」


「私もです」


自分が父と兄へ、屋敷を出てほしいと言う日が来るとは思わなかった。


正直、これが正しいのかは分からない。


お母様が望んでいたのは、こんな結末ではなかっただろう。


隣を見る。


アーネストの眉間には、まだ深い皺が残っていた。


私は指を伸ばし、その真ん中へ触れる。


アーネストの身体が固まった。


「……何をしている?」


「先ほどから、ずっと皺が寄っています」


指先で、眉間をそっと押す。


私が一番大切にしたい人。


この人を、嫌な気持ちにさせたくない。


指先で何度か押しているうちに、眉間の皺が少しだけ薄くなった。


アーネストはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……そうされると、怒っていられないな」


私は小さく微笑んだ。


「よかった……」


そのとき、扉が叩かれた。


「ひゃっ」


慌てて指を離す。


扉が開き、ハインツ先生が顔を覗かせた。


「失礼。もう一つ、お伝えすることがございました」


先生の視線が、私とアーネストの間を往復する。


「……お邪魔でしたか?」


「違う」


アーネストが即座に答えた。


「そうですか」


ハインツ先生はにこやかに部屋へ戻り、先ほどまで座っていた椅子へ腰を下ろした。


「婚姻のお話です」


「婚姻……あ、私が爵位を継いだから――」


「ええ。家督の登録が完了しましたので、グラーフ伯爵との婚姻認可を申請できるようになりました」


先生は鞄から書類を取り出した。


「未成年当主の婚姻ですので、貴族法院の認可は必要ですが、ローレンス殿の同意は必要ございません」


書類を机へ置きながら、先生は笑った。


「危うく、このまま帰るところでした」


アーネストの眉間に、再び皺が刻まれた。


その横で、私は書類を見つめているうちに、頬が緩んでいくのが分かった。


結婚。


本当に、アーネストと。


隣から視線を感じる。


顔を上げると、アーネストがこちらを見ていた。


先ほどまで眉間に刻まれていた皺は、いつの間にか薄くなっている。


「うれしそうだな」


「……はい」


そう答えると、アーネストの表情も少し和らいだ。


ハインツ先生が、私たちの前へ一本ずつペンを置く。


「お二人のご意向をもとに婚姻契約書を作成しております。内容をご確認のうえ、こちらへ署名をお願いいたします」


私は書面へ目を通した。


婚姻後も、リュークハルト家の領地と爵位はグラーフ家へ吸収されず、私が当主として管理を続けること。


両家の財産も、それぞれ別に管理されること。


記された内容を一つずつ確認し、署名する。


隣では、アーネストも迷うことなく名を書いていた。


二人分の署名を確かめたハインツ先生が、満足そうに頷く。


「では、こちらは私が貴族法院へ提出しておきます」


「よろしくお願いします」


先生は書類を丁寧に鞄へ収め、立ち上がった。


「認可に問題はないでしょう。今度こそ失礼いたします」


扉が閉じる。


私はしばらく、その扉を見つめていた。


それから、そっと両手を頬へ当てる。


「……結婚するのですね」


「ああ」


アーネストの返事を聞くと、さらに頬が熱くなった。


浮かれそうになる気持ちを抑えるように、私は膝の上で手を組む。


でも、私は当主になったばかりなのだ。


これまで借金の返済を優先していたため、領内には修繕や整備を先送りにしていた場所がいくつもある。


確認しなければならない収支もある。


乾燥小屋のことも、商会との取引も――。


婚姻後も私が当主を続けるのなら、その先のことも考えなければならない。


「あの……リュークハルト家の爵位は、将来どうなるのでしょう」


「子どもに継がせればいい」


「こ、子ども……」


思わず、その言葉を繰り返す。


アーネストとの、子ども。


「……そんなに驚くことか」


「え?」


「結婚するなら、いずれ考えることだろう」


アーネストはそう言って、視線を逸らした。


その耳が、ほんの少し赤くなっている。


それに気づいた途端、胸の奥がさらに落ち着かなくなった。

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― 新着の感想 ―
ここまでの審理と判決をめぐるシーンは、今で言う民事裁判ですね。 お母様の遺言が有効であり、エリナが爵位と領地の継承者であることが認められて本当に良かったと思います。福嶋先生の筆力が発揮されて、大変興味…
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