第5話
判決から十日余りが過ぎた頃。
私はグラーフ本邸の応接室で、ハインツ先生と向かい合っていた。
隣には、アーネストが座っている。
「ローレンス殿には、今後の連絡はすべて私を通すよう伝えてまいりました」
ハインツ先生は、いつもの笑顔で報告した。
「もっとも、あまり納得はされていないようですが」
「お父様は、何と……?」
「『当主になったばかりのエリナには分からない。これまでどおり、自分が屋敷を取り仕切る』と」
隣から、わずかに息を呑む音がした。
アーネストを見る。
黙ってはいたけれど、その眉間には深い皺が刻まれている。
「さらに、『エリナが当主となっても、自分が父親であることに変わりはない。父親の言うことには従わせる』とも」
アーネストの眉間の皺が、さらに深くなった。
「レオン殿も、屋敷を出るつもりはないそうです。長男である自分には、住み続ける権利があると主張しておられました」
「お姉様は……?」
「リディア嬢は、お二人の話には加わりませんでした」
ハインツ先生は、少しだけ首を傾けた。
「ただ、ご自分は婚姻まで屋敷にいてもよいのかと、尋ねられましたね」
いかにも、姉らしい。
少なくとも、父や兄のように、私の決定へ従う必要はないという態度ではなさそうだ。
同じ屋敷で暮らし続ければ、使用人たちも戸惑うだろう。
私が何かを決めるたび、父は父親として口を挟む。
兄も、自分こそ長男なのだと主張し続ける。
これは、娘として決めることではない。
リュークハルト家の当主として、決めなければならないことだ。
「ハインツ先生。お父様とお兄様には、屋敷を出ていただきます」
ハインツ先生は、少しも驚かなかった。
「承知いたしました。退去までの期間はいかがなさいますか?」
「一月で、足りますか?」
「十分でしょう。私物の持ち出しについても、こちらで確認いたします」
「お願いします」
「リディア嬢は?」
「お姉様には、婚姻まで今の部屋を使っていただきます。ただ、夜会への出席や、衣装や装飾品の新調は控えてもらいます」
「では、そのように」
ハインツ先生は立ち上がった。
「正式な通知を作成し、私からお渡ししておきましょう」
先生が部屋を出ると、応接室が静かになった。
アーネストは、しばらく何も言わなかった。
「……君が、そんな決断をするとは思わなかった」
「私もです」
自分が父と兄へ、屋敷を出てほしいと言う日が来るとは思わなかった。
正直、これが正しいのかは分からない。
お母様が望んでいたのは、こんな結末ではなかっただろう。
隣を見る。
アーネストの眉間には、まだ深い皺が残っていた。
私は指を伸ばし、その真ん中へ触れる。
アーネストの身体が固まった。
「……何をしている?」
「先ほどから、ずっと皺が寄っています」
指先で、眉間をそっと押す。
私が一番大切にしたい人。
この人を、嫌な気持ちにさせたくない。
指先で何度か押しているうちに、眉間の皺が少しだけ薄くなった。
アーネストはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうされると、怒っていられないな」
私は小さく微笑んだ。
「よかった……」
そのとき、扉が叩かれた。
「ひゃっ」
慌てて指を離す。
扉が開き、ハインツ先生が顔を覗かせた。
「失礼。もう一つ、お伝えすることがございました」
先生の視線が、私とアーネストの間を往復する。
「……お邪魔でしたか?」
「違う」
アーネストが即座に答えた。
「そうですか」
ハインツ先生はにこやかに部屋へ戻り、先ほどまで座っていた椅子へ腰を下ろした。
「婚姻のお話です」
「婚姻……あ、私が爵位を継いだから――」
「ええ。家督の登録が完了しましたので、グラーフ伯爵との婚姻認可を申請できるようになりました」
先生は鞄から書類を取り出した。
「未成年当主の婚姻ですので、貴族法院の認可は必要ですが、ローレンス殿の同意は必要ございません」
書類を机へ置きながら、先生は笑った。
「危うく、このまま帰るところでした」
アーネストの眉間に、再び皺が刻まれた。
その横で、私は書類を見つめているうちに、頬が緩んでいくのが分かった。
結婚。
本当に、アーネストと。
隣から視線を感じる。
顔を上げると、アーネストがこちらを見ていた。
先ほどまで眉間に刻まれていた皺は、いつの間にか薄くなっている。
「うれしそうだな」
「……はい」
そう答えると、アーネストの表情も少し和らいだ。
ハインツ先生が、私たちの前へ一本ずつペンを置く。
「お二人のご意向をもとに婚姻契約書を作成しております。内容をご確認のうえ、こちらへ署名をお願いいたします」
私は書面へ目を通した。
婚姻後も、リュークハルト家の領地と爵位はグラーフ家へ吸収されず、私が当主として管理を続けること。
両家の財産も、それぞれ別に管理されること。
記された内容を一つずつ確認し、署名する。
隣では、アーネストも迷うことなく名を書いていた。
二人分の署名を確かめたハインツ先生が、満足そうに頷く。
「では、こちらは私が貴族法院へ提出しておきます」
「よろしくお願いします」
先生は書類を丁寧に鞄へ収め、立ち上がった。
「認可に問題はないでしょう。今度こそ失礼いたします」
扉が閉じる。
私はしばらく、その扉を見つめていた。
それから、そっと両手を頬へ当てる。
「……結婚するのですね」
「ああ」
アーネストの返事を聞くと、さらに頬が熱くなった。
浮かれそうになる気持ちを抑えるように、私は膝の上で手を組む。
でも、私は当主になったばかりなのだ。
これまで借金の返済を優先していたため、領内には修繕や整備を先送りにしていた場所がいくつもある。
確認しなければならない収支もある。
乾燥小屋のことも、商会との取引も――。
婚姻後も私が当主を続けるのなら、その先のことも考えなければならない。
「あの……リュークハルト家の爵位は、将来どうなるのでしょう」
「子どもに継がせればいい」
「こ、子ども……」
思わず、その言葉を繰り返す。
アーネストとの、子ども。
「……そんなに驚くことか」
「え?」
「結婚するなら、いずれ考えることだろう」
アーネストはそう言って、視線を逸らした。
その耳が、ほんの少し赤くなっている。
それに気づいた途端、胸の奥がさらに落ち着かなくなった。




