第3話
申立てから、ひと月余りが過ぎた。
その間、グラーフ家が手配してくれた法務代理人によって、母の遺言と、父が結んだ連帯保証契約および返済契約についての調査が進められた。
そして今日、王都の貴族法院で、リュークハルト家の家督と、領地を担保とした契約についての審理が開かれている。
正面に座る判事が、手元の書類へ目を落とした。
「まず、フリージア・フォン・リュークハルト夫人の遺言について確認する。遺言が作成された当時、フリージア夫人に十分な判断能力があったこと――」
「それにしても、君のお父上は代理人を雇う金もないのですか」
隣から聞こえた声に、私はそちらを見る。
ハインツ先生が、にこにこと笑いながら小声で言った。
義父が紹介してくれた、貴族間の訴訟を専門とする法務代理人だ。
「家のお金を使おうとしたらしいですけれど……」
誰が正統な当主であるかを争っている最中に、一方の当事者が家の財産を自由に使うことは認められなかった。
「持ち金にゆとりもないのに、よく当主を名乗れましたね」
先生は笑顔のまま、父の方へ視線を向けた。
判事の声が続く。
「遺言には、リュークハルト家の後継者として、エリナ・フォン・リュークハルトを指名する旨が明確に記されている」
「お待ちください」
父が声を上げた。
「これまで、この家を支えてきたのは私です。フリージアが亡くなってからも、私が家長として領地を管理してきたのです」
ハインツ先生が、にこやかな表情のまま立ち上がった。
「一つ、訂正させていただいてもよろしいでしょうか」
判事が頷く。
「家長であったことと、家督を継承したことは別です」
ハインツ先生は、一枚の書類を持ち上げた。
「フリージア夫人の死後、あなたへ認められていたのは、後継者であるエリナ嬢が成人するまでの家政管理です」
「私が家長だったことに変わりはないでしょう」
「ええ。ですが、それによって家督の継承者が変わるわけではございません」
父の顔が赤くなる。
「私は三年間、この家を存続させるために努めてきたんだ。その実績を、亡くなった妻が残した遺言一枚で、すべて無かったことにするというのか!」
「三年間、家を管理してきたという実績が、前当主の正式な意思を覆す理由にはなりません」
「それに、フリージアはあの頃、すでに病床にあった」
父は机へ手をつき、声を張り上げた。
「正常な判断ができる状態で書かれたものかも分からない。それを、残されていたというだけで認めるのですか」
「ですから、認証官の記録と、当時フリージア夫人を診察していた医師の証言が提出されております」
ハインツ先生は、穏やかな口調で答えた。
「いずれも、夫人が遺言の内容を理解し、自らの意思で署名したことを証明するものです」
父が何かを言い返そうとしたとき、その隣で兄が立ち上がった。
「エリナに当主が務まるはずがない」
法廷内の視線が、兄へ集まった。
「エリナが知っているのは、畑や収穫量といった現場の仕事だけだ」
「なるほど」
ハインツ先生は、手元の書類をめくった。
「こちらは、リュークハルト領内の村長たちから得た証言です。作物の収穫状況を確認し、冬を越すための備蓄を指示していたのはエリナ嬢」
次の書類を取り出す。
「こちらは、隣領の領主館に勤めるマルセル殿の証言です。境界付近の問題や、領民同士の揉め事について、継続して連絡を取っていた相手もエリナ嬢……まだございますが、割愛いたしましょう」
ハインツ先生は、法廷内をゆっくりと見渡した。
「これだけの実務を担っていた方が当主を務められないというのであれば、男爵家の当主には、ずいぶんと高い能力が求められるのですね」
「所詮、実務だ。その上に立って判断するのは、また別の能力だろう」
「……そうお考えですか」
ハインツ先生はにこやかに答え、それ以上は何も言わなかった。
判事は兄を見るでもなく、提出された書類へ目を落としている。
兄は何か言いたげだったが、やがて口を閉じて椅子へ座り直した。
ハインツ先生も席へ戻る。
そして、私にだけ聞こえる声で言った。
「なかなかですね、君のご家族は」
「……申し訳ありません」
「君が謝ることではありませんよ」
先生は微笑んだまま、次の書類を取り上げた。
「続いて、ローレンス殿が結んだ連帯保証契約と、その後の返済契約について申し上げます」
貸主から提出された二通の契約書の写しが、判事へ渡される。
「ローレンス殿は、借入契約の連帯保証人として署名されました。その後、債務者が返済不能となったため、ローレンス殿が返済義務を負うことになっております」
ハインツ先生は、もう一通の契約書を持ち上げた。
「そして五年前、ちょうどフリージア夫人が遺言を作成したのと同じ頃、ローレンス殿は貸主との間で、領地の収益を返済へ充て、期限までに完済できなかった場合には穀倉地帯の一部区画を譲り渡すという契約を結びました」
先生の指が、契約書の下部を示す。
「こちらへ署名しているのは、ローレンス殿ご本人です。フリージア夫人の署名はございません」
続いて、印が押されるべき場所を示した。
「当主印もございません。領地を担保へ入れることを認める委任状も、代理権を示す文書も存在しません」
「フリージアは知っていた!」
父が叫んだ。
「私が連帯保証人になったことも、債務者が返済できなくなり、私に返済義務が移ったこともだ! それでも、領地の収益から返すことに反対しなかった!」
ハインツ先生が、眼鏡を押し上げる。
「ローレンス殿。先ほどあなたは、フリージア夫人が遺言を作成した当時、正常な判断のできない状態だったと主張されましたね」
「それは……」
「遺言を否定するときには判断能力がなく、領地からの返済を正当化するときには、契約の内容を理解して黙認していたことになる」
先生は、変わらぬ笑顔で父を見る。
「都合に応じて、夫人の判断能力を失わせたり回復させたりするのは、お控えになった方がよろしいでしょう」
父は何かを言い返そうとしたものの、言葉は出てこなかった。
「加えて、連帯保証による返済義務が生じたことを知っていたとしても、領地を担保へ入れることを承認したことにはなりません」
ハインツ先生は、返済契約書を机へ置いた。
貸主側の証言が読み上げられた。




