第2話
カイルが訪ねてきた日からも、毎日は慌ただしく過ぎていった。
朝はリリアに起こされ、身支度を手伝ってもらう。
髪を結い終えたリリアは、エプロンのポケットから小さな手帳を取り出した。
「本日のご予定ですが、午前は伯爵夫人とのお茶会のお稽古。昼食後は弁護士の先生との面談がございます。その後、アーネスト様の執務室で、リュークハルト領から届いた書面をご確認いただきます」
すらすらと告げられ、私は鏡越しにリリアを見た。
「ありがとうございます。予定を管理してもらえるって、本当に助かります」
「エリナ様が滞りなく一日をお過ごしになれるよう、予定を調整するのも、わたくしの務めでございます」
「そうなのですね……」
リュークハルト家にいた頃は、自分で手帳へ予定を書き込み、その日の順番を決めていた。
予定が増えるたびに書き直しを重ねていると、どれが新しい予定なのか分からなくなることもあった。空いていると思った時間へ新しい予定を入れ、気づけば昼食を取る時間さえなくなっていたこともある。
リリアが管理してくれるようになってからは、予定が重なって困ることも、休む間もなく動き続けることもなくなった。
「それから、弁護士の先生との面談後に、半刻ほどお休みいただく時間を取っております」
「そこまで考えてくれているの?」
「お疲れのままでは、書面の内容も頭に入りませんので」
当然のことのように言われ、私は少しだけ笑った。
「本当に、助かります」
午前中は、義母と小サロンで茶会の練習をした。
茶器の扱い方や客を迎える順番はもちろん、誰へ最初に声をかけるのか、会話が途切れたときにどう場を繋ぐのかまで、覚えなければならないことは多かった。
義母はカップを持ち上げながら、私を見る。
「エリナさんは、話す内容が決まっていれば、とても上手なのよね。だから今は、何でもないお話にも慣れましょうね」
「……頑張ります」
義母は小さく笑い、カップを卓上へ戻した。
「茶会では、全員に同じだけ話していただこうとしなくてもいいのよ」
「お招きした以上、皆様にお声がけしないと失礼にはならないのでしょうか……」
「ええ。でも、よくお話しになる方もいれば、聞くことがお好きな方もいるわ」
義母は茶器を置きながら続けた。
「黙っていらっしゃるからといって、退屈なさっているとは限らないの」
「無理に話を振れば、かえってお疲れになることもある……ということでしょうか」
「そうよ。誰にでも同じように接することと、誰にでも同じことをすることは違うの」
なるほど、と頷く。
義母の隣では、アーネストが書類を読んでいた。
「アーネスト。客役をなさい」
「なぜ俺が」
「男性の客もいらっしゃるでしょう」
アーネストはしばらく黙っていたが、やがて書類を閉じ、私の向かいへ座った。
「エリナさん。お客様へ話題を振ってみて」
「はい……」
私は少し考えてから、アーネストを見る。
「お仕事は、お忙しいのですか?」
「いつも通りだ」
会話が終わった。
「アーネスト。もう少し話を広げなさい」
「客役なのだろう。すべての客が協力的とは限らない」
「それはそうだけれど……」
私はうむむと考え込む。
「……次のお休みのご予定は?」
アーネストは少しだけ考えた。
「西の果樹園へ行く」
「お休みの日も視察ですか?」
「林檎の花が見頃だと報告があった」
「お花……ですか?」
「見に行くか」
「えっ」
「予定を聞いたのだろう」
「そ、そうですが……」
義母が口元へ手を添えた。
「エリナさん。それはお誘いよ」
「ええっ」
「実際に予定が空いているのだから、構わないだろう」
義母は、ますます楽しそうに笑っていた。
午後になると、弁護士との打ち合わせや、母の遺言に関する資料の確認があった。
それが終わると、私はリリアとともにアーネストの執務室へ向かった。
中へ入ると、見慣れない机が置かれていることに気づいた。
小ぶりな机だったが、書類を広げるには十分な大きさで、机の上には細身のペンと新しいインク壺が用意されている。その隣には、リュークハルト領から届いた書面が、種類ごとに分けて積まれていた。
「これは……?」
「君の机だ」
アーネストは、自分の机から顔も上げずに言った。
「領地を継ぐなら、執務室で書類を扱うことにも慣れろ」
「……こちらの部屋で、一緒にしてもよろしいのですか?」
「分からないことがあれば、すぐに聞ける」
それだけ言うと、彼はまた書類へ視線を戻した。
私は机へ近づき、椅子へ腰を下ろした。真正面ではないが、顔を上げればすぐに彼が見える位置だった。
少し落ち着かないような、けれど心強いような気持ちになる。
私はまず、乾燥小屋の生産量をまとめた書面を開いた。
「生産量が増えている……」
原料となる林檎が多く集まるようになったからだろう。
生産量が増えれば、それだけ保管する場所も必要になる。卸先が増えなければ、商品が余るかもしれない。それに、今の人数のまま作業を続けられるのだろうか。
「まだ、許容範囲だけれど……」
「安定した品質で出せているかも考慮しろ」
アーネストの声が飛んできた。
「……どうして分かったのですか?」
「顔に出ている」
「えっ」
思わず、自分の頬へ手を当てる。
「君は分かりやすい」
そう言ったアーネストの口元が、少しだけ緩んでいた。
……からかわれたのだろうか。
夕方には、仕立屋がいくつもの布地を持ってきた。
初めは、茶会で着る昼のドレスだけだと言われていたのに、いつの間にか話は夜会用の衣装や外套、靴や手袋にまで広がっていた。
「こちらの青は、正式な晩餐会にもお使いいただけます」
「ば、晩餐会……」
出席など、もちろんしたことがない。
仕立屋はさらに別の布を広げた。
「こちらの布は、婚姻後のご挨拶回りにもよろしいかと」
「あの……まだ、婚姻していなくて……」
裁判すら、まだ終わっていないのに。
義母は何事もないように布地を指で撫でている。
「あら。決まってから仕立て始めては間に合わないわ」
「ですが、こんなにたくさん……今の私に、すぐにお支払いすることは……」
「エリナさん。あなた、ご自分が何も持たずに嫁ぐと思っているの?」
「……男爵領ですか?」
継承権が認められる可能性は高いと聞いているが、領地を担保にした借金がどうなるのかは、まだ分からない。
「借金があるからといって、領地そのものの価値がなくなるわけではないでしょう?」
義母は、当然のように続けた。
「土地があり、農地がある。そこで暮らす領民がいて、毎年そこから収益が生まれるのよ」
「ですが、グラーフ家と比べれば……」
「比べる必要はないわ」
義母は、きっぱりと言った。
「一般的な令嬢の持参金は、一度渡せば減っていく金貨や宝石でしょう。けれど、あなたが受け継ぐものは、守り育てれば収益を生み続ける財産なのよ」
はっとした。
そういえば、義母から家政について教わるようになってから、気づいたことがある。
リュークハルト家は、収入に対して交際費が多すぎる。姉のドレスや装飾品。兄が他家との付き合いに使う費用。父の贈答品や会食……以前は、貴族なら必要なものなのだと思っていた。
それらを見直すだけでも、毎年残せるお金は増えるのではないだろうか。
それに、乾燥果物の商いもある。生産が安定し、卸先が増えれば、毎年収益を得られるようになる。
それもこれも――。
「……アーネスト様のおかげです」
「違うわ」
義母が、すぐに言った。
「もちろん、あの子がきっかけを与えて、手を貸したことは知っているわ」
「はい。ですから、私一人ではとても……」
「けれど、わたくしの元へ持ってきたのは、あなたでしょう?」
私は答えられなかった。
義母は、私の肩へ布地を当てながら続ける。
「アーネストがどれほど手を貸しても、あなたの品に魅力がなければ、わたくしは興味を持たなかったわ」
肩に当てられた布地を見つめながら、これまでのことを思い返す。
アーネストは、私にきっかけを与えてくれた。
そこから王都へ足を運び、乾燥小屋へ何度も通い、商会へ出向いたのは私だ。商品の説明をして、意見を聞き、失敗するたびにやり方を考え直した。
それでも――。
「……やはり、私一人の力ではありません」
義母が私を見る。
「アーネスト様や、お義父様とお義母様。パン工房のご夫妻や、若年実務者会の皆様。それから、乾燥小屋で働く領民にも、たくさん助けていただきました」
一人では、ずっと立っていられなかった。
それは、今も変わらない。
「皆様が支えてくださったから、ここまで来ることができたのだと思います」
義母はしばらく何も言わなかった。
「……だから、皆があなたを助けたくなるのね」
「え……」
義母は、仕立屋が持っていた薄いヴェールを受け取り、私の髪の上へそっと被せる。
「これが綺麗ね」
「これは……」
どう見ても、花嫁が身につけるものだった。
「ええ。あなたの肌は白いから、澄んだ色がいいわね」
鏡の中には、見慣れない自分がいた。
白いヴェールを被り、義母に肩を抱かれている。
「よく似合っているわ」
その声があまりにも優しくて、少し泣きそうになった。




