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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
十九章

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第2話

カイルが訪ねてきた日からも、毎日は慌ただしく過ぎていった。


朝はリリアに起こされ、身支度を手伝ってもらう。


髪を結い終えたリリアは、エプロンのポケットから小さな手帳を取り出した。


「本日のご予定ですが、午前は伯爵夫人とのお茶会のお稽古。昼食後は弁護士の先生との面談がございます。その後、アーネスト様の執務室で、リュークハルト領から届いた書面をご確認いただきます」


すらすらと告げられ、私は鏡越しにリリアを見た。


「ありがとうございます。予定を管理してもらえるって、本当に助かります」


「エリナ様が滞りなく一日をお過ごしになれるよう、予定を調整するのも、わたくしの務めでございます」


「そうなのですね……」


リュークハルト家にいた頃は、自分で手帳へ予定を書き込み、その日の順番を決めていた。


予定が増えるたびに書き直しを重ねていると、どれが新しい予定なのか分からなくなることもあった。空いていると思った時間へ新しい予定を入れ、気づけば昼食を取る時間さえなくなっていたこともある。


リリアが管理してくれるようになってからは、予定が重なって困ることも、休む間もなく動き続けることもなくなった。


「それから、弁護士の先生との面談後に、半刻ほどお休みいただく時間を取っております」


「そこまで考えてくれているの?」


「お疲れのままでは、書面の内容も頭に入りませんので」


当然のことのように言われ、私は少しだけ笑った。


「本当に、助かります」


午前中は、義母と小サロンで茶会の練習をした。


茶器の扱い方や客を迎える順番はもちろん、誰へ最初に声をかけるのか、会話が途切れたときにどう場を繋ぐのかまで、覚えなければならないことは多かった。


義母はカップを持ち上げながら、私を見る。


「エリナさんは、話す内容が決まっていれば、とても上手なのよね。だから今は、何でもないお話にも慣れましょうね」


「……頑張ります」


義母は小さく笑い、カップを卓上へ戻した。


「茶会では、全員に同じだけ話していただこうとしなくてもいいのよ」


「お招きした以上、皆様にお声がけしないと失礼にはならないのでしょうか……」


「ええ。でも、よくお話しになる方もいれば、聞くことがお好きな方もいるわ」


義母は茶器を置きながら続けた。


「黙っていらっしゃるからといって、退屈なさっているとは限らないの」


「無理に話を振れば、かえってお疲れになることもある……ということでしょうか」


「そうよ。誰にでも同じように接することと、誰にでも同じことをすることは違うの」


なるほど、と頷く。


義母の隣では、アーネストが書類を読んでいた。


「アーネスト。客役をなさい」


「なぜ俺が」


「男性の客もいらっしゃるでしょう」


アーネストはしばらく黙っていたが、やがて書類を閉じ、私の向かいへ座った。


「エリナさん。お客様へ話題を振ってみて」


「はい……」


私は少し考えてから、アーネストを見る。


「お仕事は、お忙しいのですか?」


「いつも通りだ」


会話が終わった。


「アーネスト。もう少し話を広げなさい」


「客役なのだろう。すべての客が協力的とは限らない」


「それはそうだけれど……」


私はうむむと考え込む。


「……次のお休みのご予定は?」


アーネストは少しだけ考えた。


「西の果樹園へ行く」


「お休みの日も視察ですか?」


「林檎の花が見頃だと報告があった」


「お花……ですか?」


「見に行くか」


「えっ」


「予定を聞いたのだろう」


「そ、そうですが……」


義母が口元へ手を添えた。


「エリナさん。それはお誘いよ」


「ええっ」


「実際に予定が空いているのだから、構わないだろう」


義母は、ますます楽しそうに笑っていた。


午後になると、弁護士との打ち合わせや、母の遺言に関する資料の確認があった。


それが終わると、私はリリアとともにアーネストの執務室へ向かった。


中へ入ると、見慣れない机が置かれていることに気づいた。


小ぶりな机だったが、書類を広げるには十分な大きさで、机の上には細身のペンと新しいインク壺が用意されている。その隣には、リュークハルト領から届いた書面が、種類ごとに分けて積まれていた。


「これは……?」


「君の机だ」


アーネストは、自分の机から顔も上げずに言った。


「領地を継ぐなら、執務室で書類を扱うことにも慣れろ」


「……こちらの部屋で、一緒にしてもよろしいのですか?」


「分からないことがあれば、すぐに聞ける」


それだけ言うと、彼はまた書類へ視線を戻した。


私は机へ近づき、椅子へ腰を下ろした。真正面ではないが、顔を上げればすぐに彼が見える位置だった。


少し落ち着かないような、けれど心強いような気持ちになる。


私はまず、乾燥小屋の生産量をまとめた書面を開いた。


「生産量が増えている……」


原料となる林檎が多く集まるようになったからだろう。


生産量が増えれば、それだけ保管する場所も必要になる。卸先が増えなければ、商品が余るかもしれない。それに、今の人数のまま作業を続けられるのだろうか。


「まだ、許容範囲だけれど……」


「安定した品質で出せているかも考慮しろ」


アーネストの声が飛んできた。


「……どうして分かったのですか?」


「顔に出ている」


「えっ」


思わず、自分の頬へ手を当てる。


「君は分かりやすい」


そう言ったアーネストの口元が、少しだけ緩んでいた。


……からかわれたのだろうか。


夕方には、仕立屋がいくつもの布地を持ってきた。


初めは、茶会で着る昼のドレスだけだと言われていたのに、いつの間にか話は夜会用の衣装や外套、靴や手袋にまで広がっていた。


「こちらの青は、正式な晩餐会にもお使いいただけます」


「ば、晩餐会……」


出席など、もちろんしたことがない。


仕立屋はさらに別の布を広げた。


「こちらの布は、婚姻後のご挨拶回りにもよろしいかと」


「あの……まだ、婚姻していなくて……」


裁判すら、まだ終わっていないのに。


義母は何事もないように布地を指で撫でている。


「あら。決まってから仕立て始めては間に合わないわ」


「ですが、こんなにたくさん……今の私に、すぐにお支払いすることは……」


「エリナさん。あなた、ご自分が何も持たずに嫁ぐと思っているの?」


「……男爵領ですか?」


継承権が認められる可能性は高いと聞いているが、領地を担保にした借金がどうなるのかは、まだ分からない。


「借金があるからといって、領地そのものの価値がなくなるわけではないでしょう?」


義母は、当然のように続けた。


「土地があり、農地がある。そこで暮らす領民がいて、毎年そこから収益が生まれるのよ」


「ですが、グラーフ家と比べれば……」


「比べる必要はないわ」


義母は、きっぱりと言った。


「一般的な令嬢の持参金は、一度渡せば減っていく金貨や宝石でしょう。けれど、あなたが受け継ぐものは、守り育てれば収益を生み続ける財産なのよ」


はっとした。


そういえば、義母から家政について教わるようになってから、気づいたことがある。


リュークハルト家は、収入に対して交際費が多すぎる。姉のドレスや装飾品。兄が他家との付き合いに使う費用。父の贈答品や会食……以前は、貴族なら必要なものなのだと思っていた。


それらを見直すだけでも、毎年残せるお金は増えるのではないだろうか。


それに、乾燥果物の商いもある。生産が安定し、卸先が増えれば、毎年収益を得られるようになる。


それもこれも――。


「……アーネスト様のおかげです」


「違うわ」


義母が、すぐに言った。


「もちろん、あの子がきっかけを与えて、手を貸したことは知っているわ」


「はい。ですから、私一人ではとても……」


「けれど、わたくしの元へ持ってきたのは、あなたでしょう?」


私は答えられなかった。


義母は、私の肩へ布地を当てながら続ける。


「アーネストがどれほど手を貸しても、あなたの品に魅力がなければ、わたくしは興味を持たなかったわ」


肩に当てられた布地を見つめながら、これまでのことを思い返す。


アーネストは、私にきっかけを与えてくれた。


そこから王都へ足を運び、乾燥小屋へ何度も通い、商会へ出向いたのは私だ。商品の説明をして、意見を聞き、失敗するたびにやり方を考え直した。


それでも――。


「……やはり、私一人の力ではありません」


義母が私を見る。


「アーネスト様や、お義父様とお義母様。パン工房のご夫妻や、若年実務者会の皆様。それから、乾燥小屋で働く領民にも、たくさん助けていただきました」


一人では、ずっと立っていられなかった。


それは、今も変わらない。


「皆様が支えてくださったから、ここまで来ることができたのだと思います」


義母はしばらく何も言わなかった。


「……だから、皆があなたを助けたくなるのね」


「え……」


義母は、仕立屋が持っていた薄いヴェールを受け取り、私の髪の上へそっと被せる。


「これが綺麗ね」


「これは……」


どう見ても、花嫁が身につけるものだった。


「ええ。あなたの肌は白いから、澄んだ色がいいわね」


鏡の中には、見慣れない自分がいた。


白いヴェールを被り、義母に肩を抱かれている。


「よく似合っているわ」


その声があまりにも優しくて、少し泣きそうになった。

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― 新着の感想 ―
実のところ、私はエリナの家族にそこまで悪感情は持っていなくて。 薄々パパが婿で、経営が下手で、立派な妻や次女に嫉妬心を拗らせただけなだけなんだろうな、長男はのほほん坊ちゃん、姉は金銭感覚を指摘されたこ…
>「……だから、皆があなたを助けたくなるのね」 謙虚さが主人公ちゃんの最大の美徳? ごくごく少数以外には十分通用する魅力ですね。 ごくごく少数は彼女の控えめな態度にどんどんつけあがる一方なようですが。
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