第1話
馬車が、ゆっくりとリュークハルト家の門を離れていく。
窓の外では、見慣れた屋敷が少しずつ遠ざかっていた。私は隣に座るアーネストの肩へ、頭を預けている。
馬車へ乗り込み、扉が閉じた途端、全身から力が抜けてしまったからだ。アーネストは何も言わず、私の手を握ってくれていた。
「ああ言ってしまったけれど……よかったのでしょうか」
「何がだ」
口にした途端、不安が現実味を帯びて、胸へ迫ってきた。
母の遺言が認められれば、私は正式な後継者となる。けれど、領地を継ぐということは、そこに結びついた負債も引き受けるということだ。
「アーネスト様に……グラーフ家に、ご迷惑をかけることになります」
少しの間を置いて、アーネストが言った。
「なら、俺が領地を手放せと言ったら、手放すのか」
「それは……」
できない。
母が守ろうとした領地を。私が何年も、領民たちと共に支えてきた土地を。兄へ渡すことなど、できるはずがない。
「……できません」
「なら、答えは出ている」
即答され、私は思わず瞬きをした。
「君が手放せないものなら、俺の都合など気にするな」
アーネストはそこで、ようやく私を見た。
「俺は、エリナの隣に立つと決めている」
私はアーネストを見つめた。
この人は、私を甘やかさない。けれど、決して手を離さない。
目頭が熱くなった。私は微笑み、握られた手へ指を絡める。
「アーネスト様……大好きです」
その瞬間、アーネストの動きがぴたりと止まった。
「……」
返事がない。恐る恐る顔を上げると、アーネストは珍しく目を見開いていた。耳が、少しだけ赤い。
「……アーネスト様?」
「…………」
もう一度呼びかけると、アーネストは小さく息を吐き、私の頭へそっと手を置いた。
「そういうことは、不意に言うな」
耳は、ますます赤くなっている。
「ふふ……」
「笑うな」
「だって」
アーネストは困ったように息を吐いた。それから、私の肩を抱き寄せる。
「……俺もだ」
その一言は、とても小さかったけれど、私にははっきりと聞こえた。
胸がいっぱいになって、私はアーネストへ寄り添う。夕暮れの道を、馬車がゆっくりと進んでいった。
◆
数日後の午後、カイルが小客間を訪ねてきた。
定期便でリュークハルト領へ集荷に来たついでに、領地の様子を知らせに来てくれたのだ。
「荷は、予定どおり出ています」
カイルはそう言って、持ってきた控えをテーブルへ置いた。
「今週分の箱数です。いつもより少し少ないですけど、出荷そのものは止まってません」
「よかった……様子を見に行けなくて、心配していたんです」
「集荷に行ったときは、いつもどおり人が出入りしていましたよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
もともと私が王都へ出ているあいだも仕事を続けられるよう、乾燥小屋は領民たちだけで回せるようにしていた。それでも、これほど長く領地を離れるのは初めてだった。
何か問題が起きているのではないか。考え始めると、不安は尽きなかった。
「セバスから、何か預かっていませんでしたか?」
「これを」
カイルが一通の封書を差し出した。
封を開くと、乾燥小屋の稼働状況と、仕入れた果実の量が簡潔にまとめられていた。
――大きな問題は起きておりません。
最後に記されたその一文を見て、ようやく息を吐く。
「ただ……リュークハルト家から、出荷を止めろと言われたみたいです」
手紙を持つ指が止まった。
「お父様が?」
「誰の指示かまでは聞いてません。現場の人たちは断ったそうです」
「領民たちが……自分たちで判断してくれたのですね」
「ええ。エリナ様から何も聞いていないからって」
カイルは肩をすくめた。
「こっちも、依頼を受けてるのはエリナ様です。ほかの人に言われたからって、勝手に止めるつもりはありません」
「ありがとうございます。今後も、セバスからの手紙を預かっていただけますか?」
「ええ。帰りに返事を持っていけばいいですか?」
「お願いします」
カイルは頷き、ようやく紅茶へ手を伸ばした。一口飲んでから、改めて小客間の中を見回す。
「しかし、最初に聞いたときは驚きましたよ。まさかエリナ様が、グラーフ家へ嫁ぐことになるとは」
私は苦笑した。
「私も驚いています」
「でも、考えてみれば納得ですけどね。むしろ妥当というか」
「妥当だなんて、どこがですか……」
「え? だって――」
そのとき、小客間の扉が開いた。
「失礼する」
アーネストが部屋へ入ってきた。
カイルは、焼き菓子を持ったまま動きを止めた。
「……どうぞ、続けてくれ」
「いえ」
カイルは焼き菓子を皿へ戻した。
「ちょうど話も終わったところです」
「そうか」
アーネストは私の隣へ腰を下ろした。その距離が、いつもより少し近い。
カイルは私とアーネストを交互に見た。なぜか頬が熱くなる。
「では、俺はこれで」
「も、もう帰るのですか?」
「定期便の確認がありますので」
先ほどまで、急ぐ様子などまったくなかったはずなのに。
カイルは手早く控えをまとめ、席を立つ。
「では、失礼します」
アーネストへも軽く頭を下げると、カイルは足早に小客間を出ていった。
私は閉まった扉を見つめたあと、隣のアーネストへ顔を向けた。彼は、カイルが置いていった控えへ目を落としている。
「領地で何かあったのか」
「出荷を止めるよう、誰かが指示を出したそうです」
アーネストの表情が険しくなる。
「ですが、現場の方々も、ベルナー輸送商会も断ってくれました。今のところ、仕事は続けられています」
アーネストは書類へ目を通し、頷いた。
「ひとまず、仕事に影響は出ていないということか。何かあれば、すぐ知らせろ」
「分かりました」
アーネストは控えをテーブルへ戻した。
「……他に、何を話していた?」
「今、お話ししましたが」
「俺が部屋に入る直前だ」
何の話だっただろう。少し考えて、ようやく思い出す。
「ええと……確か、私がグラーフ家へ嫁ぐことについて、妥当だと……」
「妥当?」
はっとして、私は慌てて言葉を重ねた。
「わ、私は妥当だなんて思っていません……! 今でも、不釣り合いだと思っています……!」
アーネストは一度視線を落とし、しばらく黙り込んだ。
「……アーネスト様?」
顔を覗き込むと、彼はひどく不機嫌そうな目で私を見ていた。
「カイル・ベルナーは、余計なところまでよく見ているな」
「え?」
意味が分からず、首を傾げる。
その瞬間、アーネストの手が私の頬へ触れた。
「アーネストさ――」
呼びかけるより先に、唇が重なった。
「っ……」
目を見開いたまま固まっていると、アーネストはゆっくりと唇を離した。その手は、まだ私の頬に触れたままだった。
「二度と、不釣り合いなどと言うな」
言い聞かせるように告げる。
「俺が、君を選んだ」
頬が熱い。
何も言えないまま、私はこくりと頷いた。
「分かればいい」
ようやく、アーネストの表情がわずかに緩んだ。




