第8話
馬車が速度を落とし、やがて止まった。
窓の外に、見慣れた屋敷がある。
灰色の石壁に、少し色褪せた屋根。門扉にはところどころ錆が浮き、石畳にも細かなひびが入っている。
何ひとつ変わっていない。
それなのに、以前よりもずっと遠くにあるように感じた。
数日、離れていただけなのに。
私が暮らしていた家ではなく、これから訪ねていく他人の屋敷を眺めているようだった。
御者が扉を開ける。
先に降りたアーネストが、こちらへ手を差し出した。
私はその手に自分の手を重ね、馬車を降りる。
地面へ足をつけてからも、アーネストは手を離さなかった。
玄関前へ着くと、扉が内側から開いた。
出迎えた使用人が、私の姿を見て目を見開く。
「エリナお嬢様……」
すぐに、その視線がアーネストへ向かった。
驚きを隠しきれない様子だったが、何も口にはせず、深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ……」
「お父様は、いらっしゃいますか?」
「はい……旦那様は書斎にいらっしゃいます」
私はアーネストを見る。
アーネストは何も言わず、頷いた。
そのまま、二人で屋敷の中へ入る。
廊下ですれ違う使用人たちは、私とアーネストを見て、驚いたように足を止めた。
私は小さく会釈を返しながら、歩き続ける。
以前の私は、いつかこの屋敷を出ていかなければならないと思っていた。
兄が家を継ぎ、私は嫁いで、ここを去る。
それが当然なのだと。
まさか、本当は私こそが、この家に残るはずだったなんて。
書斎へ近づくにつれ、鼓動が速くなる。
「……アーネスト様」
「どうした?」
「このまま、入ってもよろしいのですか?」
「手を離した方がいいか?」
私は、つないだ手を見下ろした。そして、小さく首を振る。
「このままで、お願いします」
アーネストの表情がわずかに和らいだ。
「分かった」
やがて、書斎の前へ着く。
私は一度、ゆっくりと息を吸った。
それから、扉を叩く。
「お父様。エリナです」
一拍の沈黙。中から父の声が返ってきた。
「……入れ」
扉を開けると、父は書斎机の向こうにある椅子へ座っていた。
私たちが入ってきても、すぐには立ち上がらない。
視線だけを上げ、まず私を見る。
それから、つないだ手へ目を落とし、最後にアーネストへ視線を移した。
「……ずいぶんと、堂々と戻ってきたものだな」
「お話があります」
「グラーフ伯爵まで連れてきて、か」
その言葉に、アーネストが口を開くより先に、私は答えた。
「私が、お願いしました」
父の視線が、もう一度こちらへ戻る。
「お母様の遺言について、お聞きしたいことがあります」
父の表情は変わらなかった。
その視線が一瞬だけ私の隣へ向き、アーネストを見て、目を細める。
「……そうか。どこで知った」
「王都に、写しが残っていました」
父は、息を吐いた。
「……フリージアらしいな。そこまで残していたか」
その声に、驚きはなかった。
先ほどから父は、一度も取り乱していない。まるで、いつかこうなることを分かっていたかのようだった。
私は、つないだ手に力を込める。
「どうして、黙っていたのですか」
父は答えない。
「どうして……お母様の遺志を無視して、お兄様が家を継ぐことにしたのですか?」
父は、ゆっくりと椅子の背へ身体を預けた。
「……お前は、いずれこの家を出る人間だからだ」
「そうしたのは、お父様でしょう」
父の眉が、わずかに動いた。
「私の縁談を勝手に進めたのも、私をこの家から出すためだったのではありませんか?」
「お前のためでもあった」
「私のため……? どういう意味ですか」
「嫁げば、男爵家の当主になるより、よほど恵まれた暮らしができる。家の借金を背負う必要もない」
父は、組んでいた指をゆっくりとほどいた。
「それに、エリナ。家を継ぐというのは、領地の仕事をすることだけではない。家名を残し、血を繋ぎ、周囲に認めさせる。それも当主の役目だ」
「私には、それができないとおっしゃるのですか?」
「お前はいずれ、夫の家へ入り、夫の名を名乗るだろう」
父は、当然のことのように言った。
「子も、夫の家の人間になる。お前がこの家を継げば、リュークハルトの名はいずれ途絶える」
私は答えられなかった。
その沈黙をどう受け取ったのか、父は続ける。
「それでは、フリージアのためにもならないと思わないか?」
「それを決めるのは、あなたではない」
アーネストの声が響いた。
父の視線が、アーネストへ向く。
「……何?」
「前当主が、後継者を決めていた。あなたがその判断に納得できなかったとしても、勝手に覆す権利はない」
「これは、リュークハルト家の問題だ」
「だからこそ聞いている」
アーネストの声が一段低くなる。
「当時の当主は、フリージア夫人だった。あなたには、領地を処分する権限も、勝手に担保へ入れる権限もなかったはずだ」
父の顔から、初めて表情が消えた。
「……何の話だ」
「借金の話だ」
私は父を見つめた。
「お父様……どうして領地を担保にできたのですか? 一体、誰から借りたのですか?」
「……もう済んだことだ」
「済んでなどいません」
思わず声が強くなる。
「今も領地は担保に入っているのですよ。今も、領民の暮らしに関わっています。そして、その家を継ぐのは私です」
自分の口から初めて言ったのに、不思議と違和感はなかった。
「私は、知る権利があります」
そのとき、背後で扉が開いた。
「……何の話だ?」
聞き慣れた声に、振り返る。
書斎の入口に、兄が立っていた。その少し後ろには、姉の姿もある。
「今、エリナがこの家を継ぐと言ったか?」
「レオン。今は――」
「俺に聞かせられない話なのか?」
父の言葉を遮り、兄は部屋の中へ入ってきた。
姉も戸惑いながら、そのあとに続く。
兄は机の前まで進むと、父を見た。
「父上。どういうことだ」
「……フリージアは、判断を誤った」
「母上が?」
「お前が何を感じるか、考えもしなかった」
父は机へ手をつき、兄をまっすぐに見た。
「長男として生まれながら、何も継げない屈辱を、あいつは分かっていなかった」
兄は息を呑んだ。
その少し後ろで、姉も驚いたように父を見つめている。
「……俺が、継げない?」
兄の視線が、ゆっくりと私へ向いた。
「本当に、母上はエリナを後継者にすると書いていたのか?」
「……はい。遺言には、私へ家と爵位を継がせると――」
「だからといって、今さらすべてを変えられるのか?」
兄の声が低くなる。
「俺がこの家を継ぐものとして、ずっと話は進んできた。親族も使用人も、周囲の家も、皆そう認識しているんだぞ」
「では……お兄様は、お母様の遺志を無視してもよいとおっしゃるのですか?」
「そうは言っていない」
兄はわずかに顔をしかめた。
「だが、遺言が見つかったからといって、何もかもすぐに覆せるわけではないだろう。今さら蒸し返して、何になる」
「お兄様……」
兄を見つめる。
兄は一度視線を逸らした。しばらく黙り込んだあと、何かに思い至ったように顔を上げる。
「母上は、お前に領地のことを任せたかったのかもしれない」
「……え?」
「お前が領地の仕事に向いていることは、母上も分かっていたんだろう」
兄は顎に手を添え、自分の考えを確かめるように頷いた。
「なら、領地の仕事はこれまでどおり、お前が見ればいい」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……私が?」
「ああ。俺が当主として家を代表し、お前が実務を担う。今までどおりで、何も問題はないだろう」
胸の奥が、すっと冷えていく。
姉が、困ったように息を吐いた。
「エリナ。レオンの言い方も悪いけれど……」
私とアーネストを交互に見て、宥めるように微笑む。
「あなたには、アーネスト様がいらっしゃるでしょう?」
「お姉様……」
「伯爵家へ嫁げるのよ。リュークハルト家まで継がなくても、困らないじゃない」
「困るかどうかの問題ではありません」
「ええ、分かっているわ。あなたは領地のことが好きなのでしょう? なら、これまでどおりあなたが領地を見ればいいじゃない」
姉は、緩やかに首を傾げた。
「レオンは家を継げるし、あなたは領地と関われる。誰も困らないでしょう?」
わずかに期待していた自分が、急に馬鹿らしくなった。
もしかしたら。
私がいなくなったことで、少しは考えてくれたのではないか。私がしてきたことを、ようやく見てくれたのではないか。
胸のどこかに、そんな期待が残っていた。
けれど、何も変わっていない。
私がすべてを背負い、何も求めなければ、それでいい。
つないでいた手に、力が込められた。
私は、隣にいるアーネストを見る。
アーネストは何も言わなかった。ただ、その目は、まるで「譲るな」と言っているようだった。
あまりにも真剣な顔をしているものだから、なぜか少しだけおかしくなり、私はくすりと笑った。
父の眉が寄った。
「……何がおかしい」
「いいえ」
私は、アーネストの手を握り返した。
それから、父と兄と姉を順番に見つめる。
「お父様、お兄様、お姉様のお気持ちは、よく分かりました」
「エリナ?」
姉が、怪訝そうに私を見る。
私は微笑んだ。
「ですが、私はリュークハルト領を、あなた方に渡すつもりはありません」
兄の顔が強張った。
「何を言っている」
「お母様が、私に託したものです」
「だからといって――」
「お話は、もう結構です」
これ以上、何を聞いても同じだ。
どれだけ言葉を重ねても、この人たちは私に譲らせることしか考えていない。
ならば、もう家族として話し合う必要はない。
「遺言が有効かどうか。お父様に領地を担保へ入れる権限があったのか。そして、誰にこの家を継ぐ権利があるのか」
私は父をまっすぐに見つめた。
「法廷で、決着をつけましょう」




