第7話
それから、さらに数日が経った。
その日の午後、私はアーネストとともに、義父の書斎へ呼ばれた。
部屋へ入ると、義父は机の向こうに座り、封の切られた書状を手にしていた。
「座りなさい」
勧められるまま、私は長椅子へ腰を下ろした。アーネストも、すぐ隣へ座る。
机の上には、見慣れない印章の押された書類が何枚か置かれていた。
「王都から返答が届いた」
義父の言葉に、背筋が伸びる。
「記録を調べてもらったところ、君の母上が残した遺言状の控えが保管されていた」
「遺言状を、母が……残していたのですか」
「正式な認証を受けた写しだ。内容にも間違いはない」
何を言われるのか分からず、膝の上で手を握る。
すると、隣にいたアーネストの手が、そっと重なった。そのまま私の手を包むように握ってくれる。
その温かさに、少しだけ呼吸が戻った。
義父は私たちを一度見てから、書類を開いた。
「ここには、リュークハルト男爵家の領地および家督の継承について記されている」
一度言葉を切り、私を見る。
「君の母上は、後継者として――エリナ・リュークハルト。君の名を残している」
「私の名が……」
「そうだ。リュークハルト家を継ぐ者として記されているのは、君だ」
私は、机の上の書類を見つめた。
「君の父上についてだが、遺言状には、君が成人し、正式に家督を継ぐまでの間、領地の管理を任せると記されている」
アーネストの手に、少し力がこもった。
私は無意識に、その手を握り返していた。
「……そうですか」
目を伏せる。
以前、アーネストたちと母のことを話してから、忘れていた記憶が少しずつ蘇っていた。
まだ私も兄も幼かった頃、母は時折、私たち二人をそばへ座らせて、領地の仕事について話してくれた。
今年は、どの畑の実りがよかったのか。
冬を越すために、何をどれだけ蓄えておかなければならないのか。
領民から困り事を訴えられたとき、何を確かめ、誰の話を聞くべきなのか。
幼い私には難しい話も多く、すべてを理解できていたわけではない。
兄も初めのうちは母の隣で聞いていたけれど、しばらくすると退屈そうに椅子を揺らし、窓の外を気にし始める。
そして最後には、
『もう行ってもいい?』
と尋ねて、部屋を出ていった。
そんなことが、何度もあった。
気づけばいつも、母のそばに残っているのは私だけだった。
母は兄が出ていった扉をしばらく見つめたあと、少し寂しそうに笑った。それから、私の頭を優しく撫でた。
『エリナは、きちんと聞いておくのよ』
『はーい』
母は少し困ったように目を細めた。
『ありがとう、エリナ』
その頃の私は、母の言葉の意味を深く考えなかった。
もしかしたら、あの頃から――。
「母は……私に継がせるつもりで、仕事を教えていたのでしょうか」
義父は、すぐには答えなかった。
代わりに、机の上の遺言状へ目を落とし、その端を指先で二度叩く。
「その答えを知っているのは、今となっては君の母上だけだ」
そして、私を見る。
「だが、少なくともこの遺言状を見る限り、思いつきで君の名を書いたわけではないだろう」
「……父は」
声が、うまく続かなかった。
「どうして、何も言わなかったのでしょう」
「分からない」
義父は遺言状を机へ伏せた。
「それを、これから確かめなければならないな」
◆
書斎を出たあと、私たちは並んで廊下を歩いていた。
アーネストは何も言わない。
きっと、私が考えをまとめるのを待ってくれているのだろう。
それでも、いくら考えても、頭の中は少しもまとまらなかった。
私が、リュークハルト家を継ぐ。
これまで兄が継ぐものだとばかり思っていた家を。
領地も、屋敷も。
そして――。
「……借金も」
思わず声が漏れた。
アーネストがこちらを見る。
「父が作った借金であっても、領地を担保にしているのなら……引き継ぐのは私なのですか?」
「借金の名義と、契約の内容によるが……」
アーネストは少し考えてから答えた。
「家の名で借り、領地やその収益を担保にしているものなら、家を継ぐ者が向き合うことになる可能性は高い」
「……やはり、そうなのですね」
覚悟していたはずなのに、実際に言葉にされると息苦しかった。
そこで、ふと胸に引っかかるものがあった。
「……あれ?」
思わず足を止める。
借金ができたのは、母がまだ生きていた頃だ。
そして、その頃のリュークハルト家の当主は、母だった。
「アーネスト様……借金をした当時、父はまだ当主の代理人ではありません」
「……何?」
アーネストも足を止め、私へ向き直った。
「それは確かなのか?」
「はい。借金の利息の支払いが始まったのは五年前です。母が亡くなったのは三年前ですから」
アーネストは黙り込んだ。やがて、その表情が険しくなる。
「……それなら、話が変わる」
「え?」
「当時の当主が君の母上だったのなら、君の父上が独断で領地を担保に入れられたとは考えにくい」
「ですが、実際には……」
「だから、確認する必要がある」
アーネストの声が硬くなる。
「誰の名で契約したのか。君の母上の署名はあるのか。君の父上に契約を結ぶ権限が与えられていたのか」
そこで一度、言葉を切った。
「貸した側が、正式な当主を確認していたのかもだ」
胸の奥がざわついた。
「……そういえば、返済相手については何も聞いていませんでした」
「君の父上が正式な当主ではないと知りながら契約を進めた者がいるのなら、単なる借金の問題では済まない」
私は息を呑んだ。
「それは……正式な契約ではない可能性があるからですか?」
期待するのが怖くて、声が震える。
「もしかすると、私がすべてを引き継がなくてもよい可能性があるのですか?」
「……まだ分からない」
アーネストは慎重な声で答えた。
「契約が正式なものとして成立している可能性もある。君の母上が承諾していたのかもしれないし、君の父上に代理権を与えていたことも考えられる」
――家のこと、お願いね。
お母様……あの言葉は、やはりそういう意味だったの?
「……そうですよね」
期待しかけた自分を押し戻すように、小さく息を吐いた。
「もし父が勝手に領地を担保にしていたのなら、母は何か行動を起こしたはずです」
足元へ視線を落とす。
「それでも借金が残っているということは……母も、認めていたのでしょうね」
俯いた私の手を、アーネストが握り直した。
「そうとは限らない」
「でも――」
「君の母上が異議を唱えたとしても、簡単には覆せなかった可能性がある」
「……そんなことも考えられるのですか?」
「すでに金が渡り、契約書が作られていたのなら、貸した側も素直には引き下がらない。署名や印章が使われていれば、それが本人の意思によるものではないと証明する必要もある」
父の言葉が、ふいに蘇った。
――家の名を守るためだ。
「それに、君の母上は病に伏していたのだろう?」
「……はい」
「体調を崩した当主が、契約の経緯を一つずつ調べ、親族や債権者を相手に争うのは容易ではない」
アーネストの声は落ち着いていた。
「子供たちや領民への影響を考えれば、すぐに表沙汰にすることをためらった可能性もある」
――不渡りを出せば、取引は止まり、信用は落ちる。
――お前たちの縁談も、領地への融通も、すべてに響く。
以前、父が私に語った言葉。
けれど、あれは――。
もしかすると、かつて母にも向けられた言葉だったのではないだろうか。
そう言って、父が母を押しとどめたのだとしたら。
私は小さく息を吸う。
「……父に会います」
アーネストが足を止める。
私も立ち止まり、顔を上げた。
「契約のことを、父に確かめます」
アーネストは、しばらく私を見つめていた。やがて、握っていた手に少しだけ力を込める。
「分かった。俺も行く」
「ですが、これはリュークハルト家の問題です。これ以上、巻き込むわけには……」
正直に言えば、それ以上に、アーネストを父に会わせたくなかった。
父がどんな言葉を口にするのか分からない。どんな顔を見せるのかも。私の家の醜い部分を、これ以上、彼に見せたくなかった。
「君一人で、あの家へ戻すつもりはない」
「アーネスト様……」
「俺は、もう離れるつもりはない」
その言葉に、張り詰めていた息が、ゆっくりとほどけていく。
私は俯き、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」




