第6話
グラーフ家で過ごし始めてから、数日が経った。
初めのうちは、なかなかこの生活に慣れなかった。
朝になれば侍女が起こしに来て、身支度を手伝ってくれる。食事の時間になれば、温かな料理が並ぶ。最初は自分でやろうとしたのだけれど、そのたびに使用人たちが困ったように微笑むので、今では素直に任せることにしていた。
『療養に来たのだから、何もするな』
アーネストにも、そう言われている。
とはいえ、何もしないでいると、どうにも落ち着かなかった。
リュークハルト家にいた頃は、毎日のように領地へ足を運んでいた。乾燥小屋では作業の進み具合を確かめ、働く者たちから話を聞く。領地で問題が起これば、その場へ向かった。
夜には報告書をまとめ、翌日の仕事を書き出す。そうして一日が終わるのが、当たり前だった。
何も求められない時間を、私はどう過ごせばいいのか分からなかった。
「どうでしょうか?」
私は刺繍枠を持ち上げ、隣に控えていた侍女へ見せた。白い布の上に、淡い赤色の薔薇を縫っている。まだ、花びらの半分ほどしかできていない。
「とてもきれいに刺せています」
侍女――リリアは、刺繍を覗き込みながら微笑んだ。
リリアは、私がこの屋敷へ来てから、ずっと身の回りの世話をしてくれている。
「本当ですか?」
「はい。花びらの重なりも、とても丁寧です」
そう言われても、自信はなかった。
刺繍をするのは、本当に久しぶりだった。母が生きていた頃、手ほどきを受けたことがある。
その後も時間を見つけて少し練習することはあったけれど、腰を落ち着けて針を持つような余裕は、ほとんどなかった。一針ごとに迷ってしまい、何度も手が止まる。
こんなふうに、ゆっくり時間を使うのは、いつ以来だろう。
「随分と丁寧に刺すのね」
向かいから声がして、私は顔を上げた。
グラーフ伯爵夫人――今はお義母様と呼んでいる。
数日前、いつものように伯爵夫人と呼んだところ、
『いつまでも伯爵夫人では、少し寂しいわね』
と笑われたのだ。
それ以来、まだ少し照れながらも、お義母様と呼ぶようになった。
義母は、紅茶のカップを手に微笑んでいる。小さな卓には、焼き菓子と果物が並んでいた。
「久しぶりなので……難しくて、つい手が止まってしまいます」
「十分きれいよ」
義母はそう言うと、卓の上に置かれていた紙を一枚手に取った。
「では今日は、グラーフ家の者たちについて、少しお話ししてもいいかしら」
「はい。お願いします」
「とはいっても、難しい勉強をするつもりはないのよ。肩の力を抜いて聞いてちょうだい」
義母は、紙を私の方へ向けた。
そこには、グラーフ家の親族の名前と、簡単な関係がまとめられている。
「こちらはアーネストの叔母。悪い方ではないのだけれど、お話が少し長いの」
私は名前を覚えようと、紙へ目を凝らした。
「そんなに真剣に見なくても大丈夫よ。今すぐ、すべて覚える必要はないのだから」
「でも、覚えられるか不安で……」
「心配性ね。会えば、そのうち覚えるわよ」
義母は笑いながら、次の名前を指先で示した。
「こちらは夫の弟。領地に住んでいて、王都へ来ることは滅多にないわ。それから、こちらの従兄は、アーネストの幼い頃をよく知っているから、余計なことを話すかもしれないわね」
そう言われると、気になってしまう。
「どのようなお話ですか?」
「木から落ちた話とか」
思わず目を瞬かせた。
「アーネスト様が、ですか?」
「そうよ。登るなと言われた木に登って、落ちたの」
想像できなかった。
私の知っているアーネストは、いつも落ち着いていて、そんな無茶をするようには見えない。そんな彼にも、言いつけを破って木へ登るような子どもの頃があったのだ。
「本人には、私から聞いたとは言わないでね」
義母が楽しそうに笑う。私も、つられるように笑った。
別の日には、屋敷の使用人についても教えてもらった。
執事や、家政を任されている女中頭。厨房を預かる料理長に、馬車や厩舎を管理する者たち。いずれも、すぐに覚える必要はないと言われた。
それでも、名前と役目を知るだけで、この屋敷が少し身近になったような気がした。
「ところで、あなたのお世話をしている侍女には、もう慣れたかしら」
義母が紅茶を置きながら尋ねた。
「はい。とてもよくしていただいています」
初日は、リリアは客室付きの侍女なのだと思っていた。けれど、数日経っても担当が変わらない。
「毎日、同じ方が来てくださるのですね」
「生活の癖や好みを、毎日違う者へ説明するのも大変でしょう?」
「そうですね」
確かに、その方が効率がいい。そう思いながらも、少しだけむず痒かった。
リュークハルト家では、私に専属の侍女はいなかった。長く仕えている者ばかりだったから、皆が私の好みをある程度知っていただけだ。
わざわざ私一人のために気を配ってもらうことには、慣れていない。
リリアは、私が朝は温かい飲み物を好むことも、髪をきつく結われるのが苦手なことも、すでに知っている。それが嬉しい反面、まだ落ち着かなかった。
「そのうち慣れるわ」
義母は、私の心を見透かしたように微笑んだ。
アーネストは、食事の時間になると、ほとんど毎日こちらの屋敷へ来た。
朝食に姿を見せる日もあれば、昼食だけ共にする日もある。夕食には、必ずと言っていいほど現れた。
三日目の夕食前。
アーネストが食堂へ入ってくると、前伯爵――義父が笑った。
「なんだ、今日も来るのか」
「来てはいけなかったか?」
「いいえ。忙しいのではなかったの?」
今度は、義母が尋ねる。
「食事をする時間くらいはある」
それだけ言って、アーネストは私の隣へ座った。
義母が楽しそうに目を細める。
「私たちが誘っても、なかなか来ないのに」
「婚約者がいるのだから、来るのは当然だろう」
「……っ」
頬が熱くなり、私は少しうつむいた。
義父は肩を揺らして笑い、義母は何も言わず、ただ目を細めていた。
夕食のあとは、小さな居間で過ごすことが多かった。
私は長椅子に座り、アーネストはその隣へ腰を下ろす。
「今日は何をしていた?」
その夜も、アーネストが尋ねた。
「刺繍をして、お義母様とお茶をいただいて……それから、グラーフ家の親族について教えていただきました」
「母は、何か余計なことを言わなかったか?」
「えっ……特には、何も……」
「そうか」
アーネストが、じっと私の顔を見る。
その視線に耐えきれず、私はそっと目を逸らした。
すると、不意に頬へ指先が触れた。
「ひゃっ……」
驚いて顔を上げる。
アーネストは、私の頬を指先で軽く押したまま、目を細めていた。
「嘘をついているだろう」
「つ、ついていません」
「では、なぜ目を逸らす」
「それは……」
答えに詰まると、頬をもう一度軽く押される。
「何を聞いた?」
「や、やめてください……」
頬を押されながら顔を背けようとしたけれど、アーネストの手に阻まれた。
「答えればやめる」
最近のアーネストは、時々こうして意地悪なことをする。
「……えーん」
試しに、わざとらしく泣き真似をしてみる。
アーネストは少しも怯まなかった。それどころか、今度は両手で頬を包まれてしまった。
顔を逸らすこともできなくなり、私は正面から彼を見上げるしかない。
「ごまかすな」
目が合い、胸が大きく跳ねた。
こんなに近くで、正面から見つめられることには、まだ慣れない。アーネストの瞳には、困った顔をした私が映っている。
「……」
言葉を忘れたまま、見つめ返す。
アーネストも、何も言わなかった。
私の頬を包んでいた手が、ぴたりと止まる。
先ほどまで私をからかっていたはずなのに、なぜか彼まで困ったような顔をしていた。
やがて、アーネストは小さく息を吐くと、額を私の額へ軽く触れさせた。
「っ……」
「……その顔は卑怯だな」
吐息が触れそうなほど近くに、彼の顔がある。
こ、これは……。
小説で読んだことがある。
男女がこうして顔を近づけ、そのまま――。
どうすればいいのか分からない。
思わず、私はぎゅっと目を閉じた。
……何も起こらない。
そう思った次の瞬間、唇に柔らかなものが触れた。
驚いて目を開くと、すぐ目の前にアーネストの顔があった。
彼は私の頬に手を添えたまま、わずかに目を見開いている。
「……目を閉じるとは思わなかった」
「……」
今、何が起きたのだろう。
分かっているはずなのに、頭がまったく働かなかった。唇に残った感触だけが、やけにはっきりとしている。
「エリナ?」
名前を呼ばれても、声が出ない。
全身から力が抜けたように、私はそのままアーネストの胸元へもたれかかった。
彼は驚いたように身じろぎしたけれど、すぐに私の背へ腕を回してくれた。
耳を澄ませば、彼の心臓が少し速く鳴っている。
私だけではないのだ。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私はそっと、アーネストの服を握り、目を閉じた。
ああ。
間違いなく、今が一番幸せだ。




