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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
十八章

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第6話

グラーフ家で過ごし始めてから、数日が経った。


初めのうちは、なかなかこの生活に慣れなかった。


朝になれば侍女が起こしに来て、身支度を手伝ってくれる。食事の時間になれば、温かな料理が並ぶ。最初は自分でやろうとしたのだけれど、そのたびに使用人たちが困ったように微笑むので、今では素直に任せることにしていた。


『療養に来たのだから、何もするな』


アーネストにも、そう言われている。


とはいえ、何もしないでいると、どうにも落ち着かなかった。


リュークハルト家にいた頃は、毎日のように領地へ足を運んでいた。乾燥小屋では作業の進み具合を確かめ、働く者たちから話を聞く。領地で問題が起これば、その場へ向かった。


夜には報告書をまとめ、翌日の仕事を書き出す。そうして一日が終わるのが、当たり前だった。


何も求められない時間を、私はどう過ごせばいいのか分からなかった。


「どうでしょうか?」


私は刺繍枠を持ち上げ、隣に控えていた侍女へ見せた。白い布の上に、淡い赤色の薔薇を縫っている。まだ、花びらの半分ほどしかできていない。


「とてもきれいに刺せています」


侍女――リリアは、刺繍を覗き込みながら微笑んだ。


リリアは、私がこの屋敷へ来てから、ずっと身の回りの世話をしてくれている。


「本当ですか?」


「はい。花びらの重なりも、とても丁寧です」


そう言われても、自信はなかった。


刺繍をするのは、本当に久しぶりだった。母が生きていた頃、手ほどきを受けたことがある。


その後も時間を見つけて少し練習することはあったけれど、腰を落ち着けて針を持つような余裕は、ほとんどなかった。一針ごとに迷ってしまい、何度も手が止まる。


こんなふうに、ゆっくり時間を使うのは、いつ以来だろう。


「随分と丁寧に刺すのね」


向かいから声がして、私は顔を上げた。


グラーフ伯爵夫人――今はお義母様と呼んでいる。


数日前、いつものように伯爵夫人と呼んだところ、


『いつまでも伯爵夫人では、少し寂しいわね』


と笑われたのだ。


それ以来、まだ少し照れながらも、お義母様と呼ぶようになった。


義母は、紅茶のカップを手に微笑んでいる。小さな卓には、焼き菓子と果物が並んでいた。


「久しぶりなので……難しくて、つい手が止まってしまいます」


「十分きれいよ」


義母はそう言うと、卓の上に置かれていた紙を一枚手に取った。


「では今日は、グラーフ家の者たちについて、少しお話ししてもいいかしら」


「はい。お願いします」


「とはいっても、難しい勉強をするつもりはないのよ。肩の力を抜いて聞いてちょうだい」


義母は、紙を私の方へ向けた。


そこには、グラーフ家の親族の名前と、簡単な関係がまとめられている。


「こちらはアーネストの叔母。悪い方ではないのだけれど、お話が少し長いの」


私は名前を覚えようと、紙へ目を凝らした。


「そんなに真剣に見なくても大丈夫よ。今すぐ、すべて覚える必要はないのだから」


「でも、覚えられるか不安で……」


「心配性ね。会えば、そのうち覚えるわよ」


義母は笑いながら、次の名前を指先で示した。


「こちらは夫の弟。領地に住んでいて、王都へ来ることは滅多にないわ。それから、こちらの従兄は、アーネストの幼い頃をよく知っているから、余計なことを話すかもしれないわね」


そう言われると、気になってしまう。


「どのようなお話ですか?」


「木から落ちた話とか」


思わず目を瞬かせた。


「アーネスト様が、ですか?」


「そうよ。登るなと言われた木に登って、落ちたの」


想像できなかった。


私の知っているアーネストは、いつも落ち着いていて、そんな無茶をするようには見えない。そんな彼にも、言いつけを破って木へ登るような子どもの頃があったのだ。


「本人には、私から聞いたとは言わないでね」


義母が楽しそうに笑う。私も、つられるように笑った。


別の日には、屋敷の使用人についても教えてもらった。


執事や、家政を任されている女中頭。厨房を預かる料理長に、馬車や厩舎を管理する者たち。いずれも、すぐに覚える必要はないと言われた。


それでも、名前と役目を知るだけで、この屋敷が少し身近になったような気がした。


「ところで、あなたのお世話をしている侍女には、もう慣れたかしら」


義母が紅茶を置きながら尋ねた。


「はい。とてもよくしていただいています」


初日は、リリアは客室付きの侍女なのだと思っていた。けれど、数日経っても担当が変わらない。


「毎日、同じ方が来てくださるのですね」


「生活の癖や好みを、毎日違う者へ説明するのも大変でしょう?」


「そうですね」


確かに、その方が効率がいい。そう思いながらも、少しだけむず痒かった。


リュークハルト家では、私に専属の侍女はいなかった。長く仕えている者ばかりだったから、皆が私の好みをある程度知っていただけだ。


わざわざ私一人のために気を配ってもらうことには、慣れていない。


リリアは、私が朝は温かい飲み物を好むことも、髪をきつく結われるのが苦手なことも、すでに知っている。それが嬉しい反面、まだ落ち着かなかった。


「そのうち慣れるわ」


義母は、私の心を見透かしたように微笑んだ。


アーネストは、食事の時間になると、ほとんど毎日こちらの屋敷へ来た。


朝食に姿を見せる日もあれば、昼食だけ共にする日もある。夕食には、必ずと言っていいほど現れた。


三日目の夕食前。


アーネストが食堂へ入ってくると、前伯爵――義父が笑った。


「なんだ、今日も来るのか」


「来てはいけなかったか?」


「いいえ。忙しいのではなかったの?」


今度は、義母が尋ねる。


「食事をする時間くらいはある」


それだけ言って、アーネストは私の隣へ座った。


義母が楽しそうに目を細める。


「私たちが誘っても、なかなか来ないのに」


「婚約者がいるのだから、来るのは当然だろう」


「……っ」


頬が熱くなり、私は少しうつむいた。


義父は肩を揺らして笑い、義母は何も言わず、ただ目を細めていた。


夕食のあとは、小さな居間で過ごすことが多かった。


私は長椅子に座り、アーネストはその隣へ腰を下ろす。


「今日は何をしていた?」


その夜も、アーネストが尋ねた。


「刺繍をして、お義母様とお茶をいただいて……それから、グラーフ家の親族について教えていただきました」


「母は、何か余計なことを言わなかったか?」


「えっ……特には、何も……」


「そうか」


アーネストが、じっと私の顔を見る。


その視線に耐えきれず、私はそっと目を逸らした。


すると、不意に頬へ指先が触れた。


「ひゃっ……」


驚いて顔を上げる。


アーネストは、私の頬を指先で軽く押したまま、目を細めていた。


「嘘をついているだろう」


「つ、ついていません」


「では、なぜ目を逸らす」


「それは……」


答えに詰まると、頬をもう一度軽く押される。


「何を聞いた?」


「や、やめてください……」


頬を押されながら顔を背けようとしたけれど、アーネストの手に阻まれた。


「答えればやめる」


最近のアーネストは、時々こうして意地悪なことをする。


「……えーん」


試しに、わざとらしく泣き真似をしてみる。


アーネストは少しも怯まなかった。それどころか、今度は両手で頬を包まれてしまった。


顔を逸らすこともできなくなり、私は正面から彼を見上げるしかない。


「ごまかすな」


目が合い、胸が大きく跳ねた。


こんなに近くで、正面から見つめられることには、まだ慣れない。アーネストの瞳には、困った顔をした私が映っている。


「……」


言葉を忘れたまま、見つめ返す。


アーネストも、何も言わなかった。


私の頬を包んでいた手が、ぴたりと止まる。


先ほどまで私をからかっていたはずなのに、なぜか彼まで困ったような顔をしていた。


やがて、アーネストは小さく息を吐くと、額を私の額へ軽く触れさせた。


「っ……」


「……その顔は卑怯だな」


吐息が触れそうなほど近くに、彼の顔がある。


こ、これは……。


小説で読んだことがある。


男女がこうして顔を近づけ、そのまま――。


どうすればいいのか分からない。


思わず、私はぎゅっと目を閉じた。


……何も起こらない。


そう思った次の瞬間、唇に柔らかなものが触れた。


驚いて目を開くと、すぐ目の前にアーネストの顔があった。


彼は私の頬に手を添えたまま、わずかに目を見開いている。


「……目を閉じるとは思わなかった」


「……」


今、何が起きたのだろう。


分かっているはずなのに、頭がまったく働かなかった。唇に残った感触だけが、やけにはっきりとしている。


「エリナ?」


名前を呼ばれても、声が出ない。


全身から力が抜けたように、私はそのままアーネストの胸元へもたれかかった。


彼は驚いたように身じろぎしたけれど、すぐに私の背へ腕を回してくれた。


耳を澄ませば、彼の心臓が少し速く鳴っている。


私だけではないのだ。


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


私はそっと、アーネストの服を握り、目を閉じた。


ああ。


間違いなく、今が一番幸せだ。

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― 新着の感想 ―
大丈夫!私も幸せ! はぁーいいねぇ!ニマニマしながら見れるイチャイチャ最高ですよ!
エリナの幸せな生活。これまでの苦労が報われている様子が甘く描かれていて、うわぁ~という感じ。 アーネストが羽目を外さないように目を光らせていたお母様も、手綱をゆるめてくださったのでしょうか? 初々しく…
エリナとアーネスト、二人には色んな困難が多々あるでしょうが… これからずっと、幸せが続きますよ… ああ、一番だ、ということが何回もあるでしょう。 お母さまの遺言の伏線回収に、ワクワクしています。
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