第5話
翌朝の朝食の席だった。
「ええ。フリージア様のことは、よく覚えているわ」
グラーフ伯爵夫人が紅茶のカップを置いた。
「母を、ご存じなのですか?」
「もちろんよ。夜会で何度かお話ししたこともありますもの。しっかりした方だったわ」
「そうなのですね……」
グラーフ伯爵夫人が、懐かしそうに目を細める。
「領地のことにも熱心な方だったと聞いていたわ。評判も悪くなかったはずよ」
向かいに座るグラーフ前伯爵も頷いた。
「堅実な領主だったな。大きな賭けには出ないが、領民を困らせるようなこともしなかった」
母のことなのに、知らない人の話を聞いているようだった。
私が知っている母は、優しくて、少し気の弱い人だった。
けれど、この方々が知っている母は、領地を治める男爵だったのだ。
「フリージア様が亡くなられたあと、ローレンス殿は爵位を継いだわけではない」
グラーフ前伯爵が言った。
「えっ?」
思わず声が漏れた。
「現在も、領地と家の管理を代行している立場だ」
私は、ぽかんと前伯爵を見つめた。
「代行……父は、爵位を継いでいないのですか?」
「正式には違う」
隣のアーネストが答えた。
「フリージア様の死後、後継者が決まるまでの管理を任されている」
「あの……どうして、ご存じなのですか?」
「リュークハルト家について調べた際に確認した」
さらりと言われ、今度は別の意味で驚いた。
「調べて、いらしたのですか?」
「求婚する相手の家だ。何も調べないわけにはいかないだろう」
「……確かに、必要ですよね」
私は膝の上で、指先をそっと絡めた。
求婚する相手の家を調べる。それ自体は、おかしなことではないのだろう。
それでも、私の知らないところでアーネストが家の事情を調べていたのだと思うと、少し落ち着かなかった。
けれど――。
それでも、私に求婚してくれた。
そう考えると、胸の奥が、くすぐったいような、温かいような、不思議な感覚に包まれた。
アーネストが私を見る。
「君の母上は、それほどしっかりした方だったのか」
「あまり、その印象は……」
幼い頃の記憶を探る。
母はよく書斎で報告書に目を通していた。
領地へ出向くこともあったし、領地の者が屋敷を訪ねてくれば、体調が悪いときでも話を聞いていた。
「仕事をしている母の姿は、よく覚えています」
「なら、継承について何も言われていないのか?」
グラーフ前伯爵が口を開いた。
「はい……聞いた覚えはありません」
「幼かったのなら、詳しい話はされていないだろう」
アーネストが言った。
そのとき、不意に母の声が蘇った。
寝台の上で、母が私の手を握っていた。
『家のことをお願いね』
胸の奥が、ざわつく。
『あなたが一番しっかりしているから』
「あ……」
声が漏れた。
アーネストが、すぐにこちらを向く。
「どうした?」
「母に……言われたことがあります。家のことをお願いね、と……」
グラーフ前伯爵の目が細くなる。
「それだけか?」
「あなたが一番しっかりしているから、と……」
食卓が静かになった。
私は自分の言葉の意味が分からず、三人の顔を順に見た。
「ですが、私は……家の仕事を手伝うように、という意味だと思っていました」
そして、負債についても。
それが母に頼まれたことなのだと、ずっと思っていた。
アーネストとグラーフ前伯爵が視線を交わす。
先に口を開いたのは、前伯爵だった。
「継承に関する記録を、もう一度確認した方がいいな」
「そうだな」
アーネストが頷いた。
「遺言も含めて調べる」
「遺言……どうして……」
「君の母上が、後継者について何か残している可能性がある」
「ですが……お父様は、ずっとお兄様が跡継ぎだと言っていました」
「ローレンス殿がそう言っていたことと、正式な継承者が誰かは別だ」
私は何も答えられなかった。
母の言葉が、胸の中で何度も繰り返される。
――家のことをお願いね。
――あなたが一番しっかりしているから。
これまでとは、まるで違う意味を持って聞こえた。
◆
朝食を終えたあと、私は借りている部屋へ戻り、机に向かった。
母の遺言やリュークハルト家の継承について考えたいことはいくつもあったけれど、今の私には、先にしておかなければならないことがある。
私が屋敷へ戻れないあいだも、乾燥小屋や商会との取引は続いていく。
誰かに任せられるようにしておかなければ。
「うーん……」
これまで自分がしていた仕事を、一つずつ紙へ書き出していく。
「できそうか?」
隣から声がして、私は顔を上げた。
アーネストは椅子に腰かけたまま、私の書いた紙を見ていた。
「はい……なんとか……」
そう答えたものの、紙の上には、まだ私の名前ばかりが並んでいる。
乾燥小屋の状態は定期的に確認しなければならないし、働く者の配置を決めるのも、これまでは私だった。
誰かが辞めたいと言ったときも、逆に新しく雇うときも、すべて私が話を聞いていた。
「商会から連絡が来た場合、誰が返事をする?」
「……私です。とりあえず、執事にお願いしようかと……」
そう言いながら、紙を見つめる。
執事にも普段の仕事がある。
商会からの連絡を受け取るだけなら頼めるかもしれないけれど、注文の量や納期まで判断するとなれば、これまでの取引を知らなければ難しい。
「う、うーん……」
そのとき、眉間に何かが触れた。
「え?」
顔を上げると、アーネストの指先が私の眉間にあった。
「皺が寄っているぞ」
頬が熱くなる。
「よ……寄っていましたか?」
「ああ」
アーネストは、もう一度軽く私の眉間を押した。
「そこまで一人で考えるな」
「はい……」
「今は、商会とのやり取りは執事でもいい。乾燥小屋の見回りは、今いる現場責任者に任せろ。人の配置は、何人かで相談して決める仕組みにすればいい」
「は、はい」
私は急いで紙へ書き足していく。
商会とのやり取りは、いずれ専任の者を雇ってもいいかもしれない。
今すぐには難しくても、ひとまず執事に窓口を頼み、判断が必要なものだけ私へ回してもらう。
そのあいだに、これまでの取引内容や、注文を受けるときの判断基準をまとめておけば――。
紙の端に、何かが置かれた。
見ると、小さな焼き菓子だった。
「休憩だ」
「でも……まだ始めたばかりで……」
「眉間に皺が寄った」
「えっ」
思わず眉間に手を当てる。
「今は寄っていない」
「……」
「そのうち寄る」
私は目を瞬かせ、アーネストを見た。
「食べろ」
「……いただきます」
焼き菓子を一口かじると、程よい甘さに、頬が緩んだ。
ふと目を上げると、アーネストと目が合った。
彼はそれを見て、満足そうに目を細めていた。




