第4話
食事を終えると、アーネストが席を立った。
「部屋まで送る」
「え、でも、侍女の方が……」
向かいでは、グラーフ伯爵夫人が扇の向こうで微笑んでいた。
「では、お願いしましょう。侍女も一人付けるわ」
「必要ない」
「何を言っているの」
アーネストは黙り込み、やがて夫人へ顔を向けた。
「……少し離れて歩かせてくれ」
「ええ。そうさせます」
夫人の笑みが、なぜか先ほどより深くなった。
私はアーネストに支えられながら、廊下を歩いた。
食事の席では、伯爵夫人から婚礼について、いろいろなことを教えていただいた。
式を挙げる場所や婚礼衣装。それから、当日の料理や花についても、これから一つずつ決めていくのだという。
まだ父や兄のこともあるし、領地や事業についても考えなければならない。
そう話した私に、前伯爵様は笑った。
『領地で何かあれば、執事からこちらへ知らせるようにしておけばいい。聞いている限りでは、何もなくても定期的に報告を寄越しそうだがな』
そう言われてしまえば、確かにそのとおりだった。
婚礼について考えるには、まだ早すぎるのではないか、そう感じていたはずなのに、話を聞いているあいだ、気持ちはずっと浮き立っていた。
ドレスの意匠も、式を挙げる場所も、そこへ招く人たちも、これまで自分には縁のないものだと思っていた未来が、現実味を帯びていく。
それが、きらきらと輝いて見えた。
アーネストは途中から、ほとんど口を挟まなかった。けれど、リュークハルト家から戻ったときに刻まれていた眉間の皺は、いつの間にか消えている。
そのことに気づき、私はほっと息をついた。
やがて、客室の前へ着く。
「ありがとうございます」
「ああ。今日はもう休め」
「はい……おやすみなさい、グラーフ伯爵」
「おやすみ」
侍女が扉へ手を伸ばす。
――もう少しだけ、一緒にいたい。
そっとアーネストを見上げると、ちょうど目が合った。
「……何だ」
「あ、いえ……」
「まだ眠くないのか」
「……はい。もう少しだけ」
アーネストはしばらく黙っていた。やがて廊下の先へ目をやる。
「隣の小客間なら、まだ灯りが入っている」
「え……」
「少しだけ、話すか」
気持ちがふわりと軽くなる。
「……はい。お話ししたいです」
アーネストの口元が、わずかに緩んだ。
あ。今、笑った。
そう気づいた途端、鼓動が速くなった。
◆
小客間へ入ると、侍女が長椅子へクッションを置いてくれた。
私は足に負担をかけないよう、ゆっくりと腰を下ろす。
アーネストは向かいの椅子へ座った。
「……」
てっきり、隣に座ってくれるものだと思っていた。
そんなことを期待していた自分が恥ずかしくなり、慌てて膝の上へ顔を伏せる。
「何を気にしている」
「い、いえ。何でもありません」
顔を上げると、アーネストがこちらを見ていた。
つい、長椅子の空いた場所へ目が向く。
しまった、と思ったときには遅かった。
アーネストも同じ場所を見た。
「……足は?」
「え?」
「まだ痛むか」
「少しだけ……」
アーネストは椅子から立ち上がると、私の足元に置かれていたクッションを手に取った。
「少し上げておけ。その方が楽だろう」
「あ……ありがとうございます」
足を乗せやすいよう、位置を整えてくれる。
そのまま向かいへ戻るのだと思っていた。
けれど。
アーネストは、私の隣へ腰を下ろした。
「……っ」
身体をわずかに動かせば、肩が触れてしまいそうな距離だった。
アーネストは正面を向いたまま、何も言わない。
私はそっと、その横顔を眺めた。
この方と、結婚するのだ。
ずっと遠くから見ているだけだった人。
声をかけていただくだけで嬉しくて、同じ場所にいられるだけで幸せだった。
その人と、これから先を一緒に過ごす――
「……何を見ている」
不意にアーネストがこちらを向いた。
見つめていたことに気づかれ、私は慌てて顔を逸らした。
「あ、あの……婚礼の準備って、いろいろあるのですね」
「そうらしいな」
「グラーフ伯爵も、ご存じなかったのですか?」
「当主の婚姻に必要な手続きなら分かる。衣装や花については、母上ほど詳しくない」
私は目を瞬いた。
この方にも、知らないことがあるのね。
当たり前のことなのに、なぜか新鮮だった。
アーネストが、こちらへ身体を向ける。
「……いつまで、グラーフ伯爵と呼ぶつもりだ」
「え?」
「父もグラーフ伯爵だった。今は前伯爵だが、家の中では呼び分けにくい」
「そ、そうですね……」
しばらく考え、恐る恐る口を開く。
「では……アーネスト様……」
名前を呼んだ途端、落ち着かなくなって、膝の上で指を組み直した。
アーネストは答えない。
ただ、こちらを見たまま動かなかった。
「……何か、おかしかったですか?」
言い方が、変だったのかな……。
「もう一度、呼んでくれ」
私は目を見開いた。
「名前を」
「アーネスト様……」
今度は、先ほどより小さな声になった。
アーネストが、ゆっくり息を吐く。
「……」
私は首を傾げた。
嫌だったわけではなさそうだ。ただ、何を思ったのか、その顔からはよく分からない。
様子を窺っていると、アーネストの手が上がった。私へ触れる寸前で止まる。
「髪に、触れてもいいか」
「え……」
髪に?
どうして髪に?
頭の中で疑問が渦巻いたものの、私は小さく頷いた。
アーネストの手が、ゆっくり近づいてくる。指先が耳の横の髪へ触れた。一房を掬い上げ、そのまま指の間を滑らせていく。
それだけなのに、触れられた場所から熱が広がった。
「柔らかいな」
「す、すごく良い香油を使っていただいて……さらさらになりました……」
「そうか」
アーネストは指の間を流れる髪を眺めながら、目元を和らげた。
見たことのない表情だった。
心臓の奥を、きゅっと掴まれたような気がする。
「く、黒髪は……リュークハルトの血筋で……私は母に似ていると、よく言われていました……」
な、何を話しているのだろう、私。
アーネストの指が、もう一度髪をなぞる。
身体がふわふわと浮いているようで、落ち着かない。それなのに嫌ではなかった。むしろ、この時間がずっと続けばいいのにと思う。
「なら、母君もこんな髪だったんだな」
「は、はい……お祖父様も黒髪で……」
そこまで答えたとき、不意に昔の光景がよみがえった。
まだ幼かった頃。
私は母の後ろを、ちょこちょこと付いて歩いていた。
玄関広間には来客がいて、母はその人と挨拶を交わしていた。
『リュークハルト男爵、フリージア・フォン・リュークハルトです』
父は、母の一歩後ろに立っていた。母が客人と言葉を交わし、父はその後ろに控えている。
母が体調を崩すまで、何度も目にしていた光景だった。
「……あれ?」
髪に触れていたアーネストの手が止まる。
「何か思い出したのか」
「いえ、その……今、昔のことを……」
「昔?」
「母、自分のことを『リュークハルト男爵』と名乗っていました」
アーネストの表情が変わった。
そうだ。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
「……お母様が、男爵だった……?」
自分で口にすると、それまで何とも思わなかった記憶が、急に別の意味を持ち始める。
「母君の爵位について、何も聞かされていないのか」
「……はい。母が亡くなったときも、何も……」
声が次第に小さくなる。私は膝の上で、両手を握った。
お母様のことなのに。私は、何も知らない。
知らないことが、思っていたよりずっと多い。
そんな気がした。




