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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
十八章

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第4話

食事を終えると、アーネストが席を立った。


「部屋まで送る」


「え、でも、侍女の方が……」


向かいでは、グラーフ伯爵夫人が扇の向こうで微笑んでいた。


「では、お願いしましょう。侍女も一人付けるわ」


「必要ない」


「何を言っているの」


アーネストは黙り込み、やがて夫人へ顔を向けた。


「……少し離れて歩かせてくれ」


「ええ。そうさせます」


夫人の笑みが、なぜか先ほどより深くなった。


私はアーネストに支えられながら、廊下を歩いた。


食事の席では、伯爵夫人から婚礼について、いろいろなことを教えていただいた。


式を挙げる場所や婚礼衣装。それから、当日の料理や花についても、これから一つずつ決めていくのだという。


まだ父や兄のこともあるし、領地や事業についても考えなければならない。


そう話した私に、前伯爵様は笑った。


『領地で何かあれば、執事からこちらへ知らせるようにしておけばいい。聞いている限りでは、何もなくても定期的に報告を寄越しそうだがな』


そう言われてしまえば、確かにそのとおりだった。


婚礼について考えるには、まだ早すぎるのではないか、そう感じていたはずなのに、話を聞いているあいだ、気持ちはずっと浮き立っていた。


ドレスの意匠も、式を挙げる場所も、そこへ招く人たちも、これまで自分には縁のないものだと思っていた未来が、現実味を帯びていく。


それが、きらきらと輝いて見えた。


アーネストは途中から、ほとんど口を挟まなかった。けれど、リュークハルト家から戻ったときに刻まれていた眉間の皺は、いつの間にか消えている。


そのことに気づき、私はほっと息をついた。


やがて、客室の前へ着く。


「ありがとうございます」


「ああ。今日はもう休め」


「はい……おやすみなさい、グラーフ伯爵」


「おやすみ」


侍女が扉へ手を伸ばす。


――もう少しだけ、一緒にいたい。


そっとアーネストを見上げると、ちょうど目が合った。


「……何だ」


「あ、いえ……」


「まだ眠くないのか」


「……はい。もう少しだけ」


アーネストはしばらく黙っていた。やがて廊下の先へ目をやる。


「隣の小客間なら、まだ灯りが入っている」


「え……」


「少しだけ、話すか」


気持ちがふわりと軽くなる。


「……はい。お話ししたいです」


アーネストの口元が、わずかに緩んだ。


あ。今、笑った。


そう気づいた途端、鼓動が速くなった。



小客間へ入ると、侍女が長椅子へクッションを置いてくれた。


私は足に負担をかけないよう、ゆっくりと腰を下ろす。


アーネストは向かいの椅子へ座った。


「……」


てっきり、隣に座ってくれるものだと思っていた。


そんなことを期待していた自分が恥ずかしくなり、慌てて膝の上へ顔を伏せる。


「何を気にしている」


「い、いえ。何でもありません」


顔を上げると、アーネストがこちらを見ていた。


つい、長椅子の空いた場所へ目が向く。


しまった、と思ったときには遅かった。


アーネストも同じ場所を見た。


「……足は?」


「え?」


「まだ痛むか」


「少しだけ……」


アーネストは椅子から立ち上がると、私の足元に置かれていたクッションを手に取った。


「少し上げておけ。その方が楽だろう」


「あ……ありがとうございます」


足を乗せやすいよう、位置を整えてくれる。


そのまま向かいへ戻るのだと思っていた。


けれど。


アーネストは、私の隣へ腰を下ろした。


「……っ」


身体をわずかに動かせば、肩が触れてしまいそうな距離だった。


アーネストは正面を向いたまま、何も言わない。


私はそっと、その横顔を眺めた。


この方と、結婚するのだ。


ずっと遠くから見ているだけだった人。


声をかけていただくだけで嬉しくて、同じ場所にいられるだけで幸せだった。


その人と、これから先を一緒に過ごす――


「……何を見ている」


不意にアーネストがこちらを向いた。


見つめていたことに気づかれ、私は慌てて顔を逸らした。


「あ、あの……婚礼の準備って、いろいろあるのですね」


「そうらしいな」


「グラーフ伯爵も、ご存じなかったのですか?」


「当主の婚姻に必要な手続きなら分かる。衣装や花については、母上ほど詳しくない」


私は目を瞬いた。


この方にも、知らないことがあるのね。


当たり前のことなのに、なぜか新鮮だった。


アーネストが、こちらへ身体を向ける。


「……いつまで、グラーフ伯爵と呼ぶつもりだ」


「え?」


「父もグラーフ伯爵だった。今は前伯爵だが、家の中では呼び分けにくい」


「そ、そうですね……」


しばらく考え、恐る恐る口を開く。


「では……アーネスト様……」


名前を呼んだ途端、落ち着かなくなって、膝の上で指を組み直した。


アーネストは答えない。

ただ、こちらを見たまま動かなかった。


「……何か、おかしかったですか?」


言い方が、変だったのかな……。


「もう一度、呼んでくれ」


私は目を見開いた。


「名前を」


「アーネスト様……」


今度は、先ほどより小さな声になった。


アーネストが、ゆっくり息を吐く。


「……」


私は首を傾げた。


嫌だったわけではなさそうだ。ただ、何を思ったのか、その顔からはよく分からない。


様子を窺っていると、アーネストの手が上がった。私へ触れる寸前で止まる。


「髪に、触れてもいいか」


「え……」


髪に?


どうして髪に?


頭の中で疑問が渦巻いたものの、私は小さく頷いた。


アーネストの手が、ゆっくり近づいてくる。指先が耳の横の髪へ触れた。一房を掬い上げ、そのまま指の間を滑らせていく。


それだけなのに、触れられた場所から熱が広がった。


「柔らかいな」


「す、すごく良い香油を使っていただいて……さらさらになりました……」


「そうか」


アーネストは指の間を流れる髪を眺めながら、目元を和らげた。


見たことのない表情だった。


心臓の奥を、きゅっと掴まれたような気がする。


「く、黒髪は……リュークハルトの血筋で……私は母に似ていると、よく言われていました……」


な、何を話しているのだろう、私。


アーネストの指が、もう一度髪をなぞる。


身体がふわふわと浮いているようで、落ち着かない。それなのに嫌ではなかった。むしろ、この時間がずっと続けばいいのにと思う。


「なら、母君もこんな髪だったんだな」


「は、はい……お祖父様も黒髪で……」


そこまで答えたとき、不意に昔の光景がよみがえった。


まだ幼かった頃。


私は母の後ろを、ちょこちょこと付いて歩いていた。


玄関広間には来客がいて、母はその人と挨拶を交わしていた。


『リュークハルト男爵、フリージア・フォン・リュークハルトです』


父は、母の一歩後ろに立っていた。母が客人と言葉を交わし、父はその後ろに控えている。


母が体調を崩すまで、何度も目にしていた光景だった。


「……あれ?」


髪に触れていたアーネストの手が止まる。


「何か思い出したのか」


「いえ、その……今、昔のことを……」


「昔?」


「母、自分のことを『リュークハルト男爵』と名乗っていました」


アーネストの表情が変わった。


そうだ。

どうして今まで気づかなかったのだろう。


「……お母様が、男爵だった……?」


自分で口にすると、それまで何とも思わなかった記憶が、急に別の意味を持ち始める。


「母君の爵位について、何も聞かされていないのか」


「……はい。母が亡くなったときも、何も……」


声が次第に小さくなる。私は膝の上で、両手を握った。


お母様のことなのに。私は、何も知らない。

知らないことが、思っていたよりずっと多い。


そんな気がした。

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― 新着の感想 ―
後継者かな? アーネスト様の精神年齢が低下してるのか可愛い!
あら 事件の香りが
ちょっとキナ臭くなってきたぞ?誰が正当な血筋の持ち主なのかなあ?
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