第6話
夕食の席で、父がふと思い出したように口を開いた。
「そういえばな」
スープに手を伸ばしながら、何でもない調子で言う。
「親戚の方から、別荘に来ないかと声をかけてもらった」
一瞬、手が止まった。
「えっ……クレア叔母様の、ですか?」
思わず聞き返すと、父は頷いた。
ブラン伯爵――父の叔母にあたる人だ。
裕福で、別荘を持っている、少し遠い親戚。
「ああ、そうだ」
「へえ。久しぶりだな」
兄は手を止めないまま、ちらりと父を見る。
「向こうから声をかけてくるのは、珍しいな」
姉は少しだけ顔を上げ、口元を緩めた。
「あの別荘、使わせてもらえるの?
いいじゃない」
スプーンを持ち上げて、軽やかに続ける。
「景色がいいのよね。バカンスには最適だわ」
胸の奥が、ふっと軽くなった。
「叔母様や叔父様に会えるのも……楽しみ……」
言いかけて、はっとする。
「……お父様。いつですか?」
父は、少し間を置いた。
「……来月だな」
「えっ……」
「どうした?」
「隣領と、水路協議の話し合いが……」
兄が、すぐに反応する。
「水路協議?
ああ、あれか」
そして、軽く。
「まあ、日程は調整すればいいだろ」
「それが……先方が、わざわざ日程を前倒ししてくださって……
変更は、難しいかと……」
姉が、わずかに眉を寄せた。
「えー……それ、ずらせないの?
せっかくのお誘いなのに」
視線が、父に向く。
「お父様……どうしましょう?」
父は一拍置いてから、スープを口にした。
「……そうだな」
そして、穏やかに言う。
「先方が動いてくれている話なら、
こちらの都合で振り回すのもな……」
締めるように、続けた。
「どうするかは、エリナの判断でいい」
「……えっ」
思わず、目を見開く。
兄は少しだけ眉を上げてから、肩をすくめた。
「まあ……そうなるよな。
水路の件、まとめてるのはエリナだろ。
決めるのも、お前だ」
姉は、ふうと息を吐いた。
「そう……」
スプーンを置いて、こちらを見る。
「私には分からないから」
一瞬だけ、微笑んで。
「あなたが決めたらいいわ」
――そんな。
具の少ないスープを見つめたまま、息を吸う。
せっかく隣領とうまくいっているのに、
こちらの都合で断るなんて出来ない。
だからといって、旅行をやめるなんて――
叔母様たちにも、申し訳ない。
そっと、顔を上げた。
父は書簡から目を上げない。
兄はワインを傾け、
姉はスープを静かに混ぜている。
三人とも、淡々と食事を摂っている。
誰も、何も言ってくれない。
私を、見ようともしない。
食器の触れ合う音だけが、静かに響く。
胸の奥が、きゅっと縮む。
……私が決めるしかない。
ゆっくりと息を吐いた。
「……分かりました」
スプーンを置く。
「私が、残って協議に参加します」
スープ皿に視線を落としたまま、静かに言った。
「……そうか」
父は頷く。
「分かった。では、三人で伺うと伝えておこう」
布巾で口を拭う。
「協議の件は、お前に託すな」
兄は一瞬だけ考える素振りを見せてから、
「妥当な判断だ。
ここで止める方が、後々面倒になる」
グラスのワインを口にしながら言う。
「叔母様の方は……事情を話せば、分かってくれるだろ」
姉は一拍置いてから。
「……そう。
残念だけど、仕方ないわね」
少しだけ、柔らかく。
「別荘の件は、私からもお詫びしておくわ。
だから、気にしないで」
私は、目を伏せたまま言った。
「……ご馳走様でした」
席を立ち、静かに食堂を後にした。
◆
数日後。
昼下がり、屋敷が静まり返っている時間帯だった。
玄関で使用人に呼び止められ、差し出された封筒と細長い箱を目にする。
……まただ。
差出人の名を確認するまでもなかった。
この重さ、この包み方。
「……ありがとう」
それだけ言って、受け取る。
部屋に戻り、扉を閉めてから、机の上にそっと置いた。
今は、家の者は誰もいない。
――よかった。
封筒を開く。
簡潔な文面。
余計な言葉はなく、
「次の会」についてと、日時だけが記されている。
視線が、自然と箱へ移った。
紐をほどき、蓋を開ける。
淡い色合いのドレス。
前回とは、また違った色だった。
「……綺麗」
胸の奥が、きゅっと詰まる。
こらえていたものが、するりと零れた。
ぽとり。
一滴だけ、机の上に落ちる。
慌てて、指の甲で拭った。
「今さらなのに……」
深呼吸を、ひとつ。
ドレスの箱を閉じ、封筒を脇へ寄せる。
そして、引き出しから便箋を取り出し、返事を書く。
「……いいよね。行っても」
立ち上がり、郵便箱へ向かう。
投函口に手紙を差し入れようとして――
一瞬だけ、指が止まった。
兄の言葉が、蘇る。
『家として、あの会に参加する必要はない』
胸の奥がざわついた。
けれど――
首を小さく振る。
手紙を、投函口へ入れた。
かさり、と音がして、
もう戻せない場所へ落ちていく。
私は静かに踵を返した。




