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【完結】都合のいい私を、辞めることにしました【番外編あり】  作者: 福嶋莉佳
十八章

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第2話

リュークハルト邸を出てから、馬車の中の空気も重かった。


向かいに座る侍従は、何度か口を開きかけたものの、結局何も言わなかった。アーネストも窓の外へ視線を向けたまま、ひと言も発しなかった。


馬車が、グラーフ前伯爵夫妻の屋敷の門をくぐった。


玄関前で止まると、侍従がすぐに扉を開ける。


「お戻りなさいませ」


出迎えた使用人が頭を下げた。


アーネストは外套を預けながら、短く尋ねる。


「エリナ嬢は」


「ただいま、湯浴みをなさっております」


アーネストの動きが止まった。


「足元は濡らさぬよう、侍女が付き添っておりますので」


「……そうか」


それだけ答えるのに、少し間が空いた。背後の侍従が、何も聞かなかったふりをしている。


アーネストは小さく息を吐き、廊下を進んだ。


小客間へ近づくと、扉の向こうから母の楽しそうな声が聞こえた。


「ねえ、これはどうかしら。少し大人びすぎている?」


「一着くらいは、あってもよろしいかと」


「そうよね。あの子、どんな顔をするかしら」


アーネストは、扉の前で足を止めた。


「でも、こちらの方が肌触りはいいわね」


「はい。湯上がりにお召しになるなら、こちらの方がよろしいかと」


「では、それは今夜用にしましょう。こちらは明日以降ね」


何の話をしているのかは、聞かなくても分かった。


アーネストは視線を扉から外す。


「……伯爵様」


「何だ」


「奥様に、お声をおかけいたしましょうか」


「いや」


このまま戻るべきか。そう思った時、扉の向こうで母の声がした。


「アーネスト。戻ったなら、そこで立っていないで入りなさい」


アーネストは黙った。侍従が、さらに気配を薄くする。


「……母上」


扉を開けると、小客間の中には、母と侍女たちがいた。


机の上には、布見本やリボン、手袋、帽子、そして仕立てかけの夜着がいくつも並べられている。その中に、見覚えのある布がいくつかあった。


以前、母が何げなく見せてきたものだった。


あの時は止めたが、結局は母に任せた。今思えば、それでよかったのかもしれない。


アーネストは、母を見た。


母は扇を片手に、当然のような顔でこちらを見る。


「お帰りなさい。ずいぶん怖い顔ね」


「少し揉めたからな」


「まあ、そうでしょうね」


母はあっさり頷くと、机の上の品々へ視線を戻した。


「エリナ嬢は湯浴み中よ」


「……知っている」


「あらそう。ねえ、これはどうかしら」


「俺に聞くな」


「淡い菫色の、この柔らかな感じ。あなた、こういうものが好きでしょう?」


侍女たちは、そっと視線を伏せた。その肩が、わずかに震えた気がした。


「俺の好みで選ぶな」


「もちろんよ。でもエリナさんも好きそうよ」


「……楽しんでいるな」


「ええ、とても」


任せておけば悪いようにはしない。それは分かっていた。


分かっていたが、ここまで楽しげに進められていると、少し複雑だった。


その時、廊下の向こうから侍女の足音が近づいてきた。


「奥様。エリナ様のお支度が整いました」


「では、こちらへ」


アーネストは一歩下がった。


求婚を受け入れてもらったとはいえ、まだ正式に婚約が整ったわけではない。湯上がりの令嬢を、近すぎる距離で迎えるわけにはいかなかった。


そう思っただけだった。


けれど、廊下の向こうから姿を見せたエリナを見て、アーネストは一瞬、言葉を失った。


薄桃色の夜着の上から、柔らかなガウンを羽織っている。髪はゆるく結われ、頬は湯上がりのせいか、ほんのり赤い。


侍女に支えられながら歩いてきたエリナは、アーネストを見ると、驚いたように目を開いた。


それから、少し照れたように微笑む。


「グラーフ伯爵……」


エリナは、侍女に支えられながらも、一歩こちらへ近づこうとした。


「お帰りなさいませ」


その声が嬉しそうで、アーネストは返事を忘れた。


だが次の瞬間、エリナの体がわずかに傾く。


「エリナ」


咄嗟に手を伸ばした。


細い指が、アーネストの上着を掴む。エリナが、胸元に寄りかかった。


エリナは驚いたように顔を上げる。


「す、すみません……」


「謝るな。歩くなと言ったはずだ」


アーネストは彼女の肩を支えたまま、息を吐いた。


――このまま、抱え上げた方が早い。


そう思った時、母が扇の陰で目を細めた。


「アーネスト。あなたは抱えなくていいのよ」


エリナの顔が、一気に赤くなる。


「……足を痛めている」


「侍女がいるじゃない。あなたは、まず落ち着きなさい」


侍女がそっとエリナの反対側を支える。


それでも、エリナの指はまだアーネストの上着を掴んだままだった。本人も気づいていないのだろう。


アーネストはその手を見下ろし、しばらく動けなかった。



侍女に支えられ、私はアーネストからそっと離れた。


私ったら、何をしているのだろう。


グラーフ伯爵のお姿を見た途端、嬉しくなって、つい近づいてしまった。


でも、仕方がないと思ってしまった。


だって、すごく綺麗にしていただいたのだ。


湯浴みの時も、侍女たちは何もかも丁寧だった。足元を濡らさないように気を配りながら、温かな布で肌を清めてくれた。


髪には、使ったことのない香油を馴染ませてもらった。丁寧に梳かれた髪は、いつもよりずっと軽く、指先で触れるとさらりとしていた。


手も、そうだ。書き物や帳面仕事で少し硬くなっていた指先に、香りの淡い膏を塗ってもらい、爪の形まで整えられた。


まるで、自分の手ではないみたいだった。


肌に触れる夜着も、ただの寝間着ではない。薄桃色の布地で、袖口には小さな白い花の刺繍が入っていて、胸が弾むくらい可愛らしかった。


その上から羽織ったガウンも、ふんわりと柔らかく、肩にかけているだけで温かい。


まるで、自分ではないみたいだった。だから、少しだけ舞い上がっていたのだと思う。


けれど。


そうよ。湯浴みの後なのに、こんなふうに立ち上がるなんて、はしたない。


そう気づいた瞬間、顔が熱くなり、私は慌てて俯いた。


アーネストは何も言わない。


恐る恐る、そっと顔を上げる。


すると、アーネストと目が合った。次の瞬間には、アーネストはふいと視線を逸らした。


「……足を痛めているのだから、無理をするな」


さっきより少しだけ、声が硬い。


やっぱり、怒っているのだろうか。


そう思って、もう一度アーネストを見る。その顔は怒っているというより、どこか疲れているようにも見えた。


その時、はっとした。


「グラーフ伯爵……実家へ、行ってくださっていたのですね」


そう言うと、アーネストがこちらを見た。


「君の御父上に、正式な申し入れを伝えた」


「申し入れ……」


それが何を意味するのか分かって、また顔が熱くなる。


しかし、アーネストの顔は硬いままだった。


「お父様たちは……納得は……」


「していない」


胸が小さく沈む。


やっぱり。そう思った私に、アーネストは続けた。


「だが、ノルトハイム子爵との話を進めることは認めないと伝えた。君への連絡も、母上を通すように言ってある」


その言葉に、胸の奥が熱くなった。


「ありがとうございます……」


「礼を言うことではない」


嬉しい。安心した。


同時に、父や兄が納得していないと聞いて、胸の奥はまだざわついている。


そんなことを考えたのが顔に出たのか、アーネストが私を見た。


「心配していることがあるなら、言え」


私は少しだけ俯いた。


「領地のことが、気になって……乾燥果物の仕事も、このまま止まってしまったら……」


「それも含めて、これから考える」


「……」


「君がリュークハルト家に戻らなければ何も動かない、というようにはしない」


その言葉は、とてもありがたかった。


ありがたかったのに、胸の奥が少しだけ重くなる。


「……私、いただいてばかり……」


ぽつりとこぼすと、アーネストの眉がわずかに動いた。


「今は、返すことを考えなくていい」


「でも……押しかけて、ご迷惑ばかりおかけして……」


「エリナ」


名前を呼ばれて、言葉が止まった。


アーネストの手が、自然に伸びてきた。指先が、そっと私の頬に触れる。


「今は、休め」


その声があまりに優しくて、胸の奥がきゅっと痛くなる。


私は返事をしようとした。


その前に、グラーフ伯爵夫人の声がした。


「アーネスト。ここには、わたくしも侍女たちもおりますよ」


「……分かっている」


「本当に?」


「……」


アーネストは、ゆっくりと手を離した。


触れられた頬は、まだ熱を持っていた。

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― 新着の感想 ―
侍女の一人になって一緒にニヨニヨしたい〜!
侍女も優秀ですが、侍従も空気の読み方優秀過ぎる~っと感心! アーネストがエリナによって乱されるのが好きです(´▽`) アーネストもいいお年なので卒なく今までこなしてきただろうに…と思うと。 一瞬止まっ…
アーネスト、お母様には全てお見通しです。彼はぶっきらぼうな奴だけど、両親、特に母親にはとても素直な良い息子だなと思います。愛されて育ったのですね。 エリナに湯上がりの夜着姿で来られたら、もう! エリ…
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