第2話
リュークハルト邸を出てから、馬車の中の空気も重かった。
向かいに座る侍従は、何度か口を開きかけたものの、結局何も言わなかった。アーネストも窓の外へ視線を向けたまま、ひと言も発しなかった。
馬車が、グラーフ前伯爵夫妻の屋敷の門をくぐった。
玄関前で止まると、侍従がすぐに扉を開ける。
「お戻りなさいませ」
出迎えた使用人が頭を下げた。
アーネストは外套を預けながら、短く尋ねる。
「エリナ嬢は」
「ただいま、湯浴みをなさっております」
アーネストの動きが止まった。
「足元は濡らさぬよう、侍女が付き添っておりますので」
「……そうか」
それだけ答えるのに、少し間が空いた。背後の侍従が、何も聞かなかったふりをしている。
アーネストは小さく息を吐き、廊下を進んだ。
小客間へ近づくと、扉の向こうから母の楽しそうな声が聞こえた。
「ねえ、これはどうかしら。少し大人びすぎている?」
「一着くらいは、あってもよろしいかと」
「そうよね。あの子、どんな顔をするかしら」
アーネストは、扉の前で足を止めた。
「でも、こちらの方が肌触りはいいわね」
「はい。湯上がりにお召しになるなら、こちらの方がよろしいかと」
「では、それは今夜用にしましょう。こちらは明日以降ね」
何の話をしているのかは、聞かなくても分かった。
アーネストは視線を扉から外す。
「……伯爵様」
「何だ」
「奥様に、お声をおかけいたしましょうか」
「いや」
このまま戻るべきか。そう思った時、扉の向こうで母の声がした。
「アーネスト。戻ったなら、そこで立っていないで入りなさい」
アーネストは黙った。侍従が、さらに気配を薄くする。
「……母上」
扉を開けると、小客間の中には、母と侍女たちがいた。
机の上には、布見本やリボン、手袋、帽子、そして仕立てかけの夜着がいくつも並べられている。その中に、見覚えのある布がいくつかあった。
以前、母が何げなく見せてきたものだった。
あの時は止めたが、結局は母に任せた。今思えば、それでよかったのかもしれない。
アーネストは、母を見た。
母は扇を片手に、当然のような顔でこちらを見る。
「お帰りなさい。ずいぶん怖い顔ね」
「少し揉めたからな」
「まあ、そうでしょうね」
母はあっさり頷くと、机の上の品々へ視線を戻した。
「エリナ嬢は湯浴み中よ」
「……知っている」
「あらそう。ねえ、これはどうかしら」
「俺に聞くな」
「淡い菫色の、この柔らかな感じ。あなた、こういうものが好きでしょう?」
侍女たちは、そっと視線を伏せた。その肩が、わずかに震えた気がした。
「俺の好みで選ぶな」
「もちろんよ。でもエリナさんも好きそうよ」
「……楽しんでいるな」
「ええ、とても」
任せておけば悪いようにはしない。それは分かっていた。
分かっていたが、ここまで楽しげに進められていると、少し複雑だった。
その時、廊下の向こうから侍女の足音が近づいてきた。
「奥様。エリナ様のお支度が整いました」
「では、こちらへ」
アーネストは一歩下がった。
求婚を受け入れてもらったとはいえ、まだ正式に婚約が整ったわけではない。湯上がりの令嬢を、近すぎる距離で迎えるわけにはいかなかった。
そう思っただけだった。
けれど、廊下の向こうから姿を見せたエリナを見て、アーネストは一瞬、言葉を失った。
薄桃色の夜着の上から、柔らかなガウンを羽織っている。髪はゆるく結われ、頬は湯上がりのせいか、ほんのり赤い。
侍女に支えられながら歩いてきたエリナは、アーネストを見ると、驚いたように目を開いた。
それから、少し照れたように微笑む。
「グラーフ伯爵……」
エリナは、侍女に支えられながらも、一歩こちらへ近づこうとした。
「お帰りなさいませ」
その声が嬉しそうで、アーネストは返事を忘れた。
だが次の瞬間、エリナの体がわずかに傾く。
「エリナ」
咄嗟に手を伸ばした。
細い指が、アーネストの上着を掴む。エリナが、胸元に寄りかかった。
エリナは驚いたように顔を上げる。
「す、すみません……」
「謝るな。歩くなと言ったはずだ」
アーネストは彼女の肩を支えたまま、息を吐いた。
――このまま、抱え上げた方が早い。
そう思った時、母が扇の陰で目を細めた。
「アーネスト。あなたは抱えなくていいのよ」
エリナの顔が、一気に赤くなる。
「……足を痛めている」
「侍女がいるじゃない。あなたは、まず落ち着きなさい」
侍女がそっとエリナの反対側を支える。
それでも、エリナの指はまだアーネストの上着を掴んだままだった。本人も気づいていないのだろう。
アーネストはその手を見下ろし、しばらく動けなかった。
◆
侍女に支えられ、私はアーネストからそっと離れた。
私ったら、何をしているのだろう。
グラーフ伯爵のお姿を見た途端、嬉しくなって、つい近づいてしまった。
でも、仕方がないと思ってしまった。
だって、すごく綺麗にしていただいたのだ。
湯浴みの時も、侍女たちは何もかも丁寧だった。足元を濡らさないように気を配りながら、温かな布で肌を清めてくれた。
髪には、使ったことのない香油を馴染ませてもらった。丁寧に梳かれた髪は、いつもよりずっと軽く、指先で触れるとさらりとしていた。
手も、そうだ。書き物や帳面仕事で少し硬くなっていた指先に、香りの淡い膏を塗ってもらい、爪の形まで整えられた。
まるで、自分の手ではないみたいだった。
肌に触れる夜着も、ただの寝間着ではない。薄桃色の布地で、袖口には小さな白い花の刺繍が入っていて、胸が弾むくらい可愛らしかった。
その上から羽織ったガウンも、ふんわりと柔らかく、肩にかけているだけで温かい。
まるで、自分ではないみたいだった。だから、少しだけ舞い上がっていたのだと思う。
けれど。
そうよ。湯浴みの後なのに、こんなふうに立ち上がるなんて、はしたない。
そう気づいた瞬間、顔が熱くなり、私は慌てて俯いた。
アーネストは何も言わない。
恐る恐る、そっと顔を上げる。
すると、アーネストと目が合った。次の瞬間には、アーネストはふいと視線を逸らした。
「……足を痛めているのだから、無理をするな」
さっきより少しだけ、声が硬い。
やっぱり、怒っているのだろうか。
そう思って、もう一度アーネストを見る。その顔は怒っているというより、どこか疲れているようにも見えた。
その時、はっとした。
「グラーフ伯爵……実家へ、行ってくださっていたのですね」
そう言うと、アーネストがこちらを見た。
「君の御父上に、正式な申し入れを伝えた」
「申し入れ……」
それが何を意味するのか分かって、また顔が熱くなる。
しかし、アーネストの顔は硬いままだった。
「お父様たちは……納得は……」
「していない」
胸が小さく沈む。
やっぱり。そう思った私に、アーネストは続けた。
「だが、ノルトハイム子爵との話を進めることは認めないと伝えた。君への連絡も、母上を通すように言ってある」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「ありがとうございます……」
「礼を言うことではない」
嬉しい。安心した。
同時に、父や兄が納得していないと聞いて、胸の奥はまだざわついている。
そんなことを考えたのが顔に出たのか、アーネストが私を見た。
「心配していることがあるなら、言え」
私は少しだけ俯いた。
「領地のことが、気になって……乾燥果物の仕事も、このまま止まってしまったら……」
「それも含めて、これから考える」
「……」
「君がリュークハルト家に戻らなければ何も動かない、というようにはしない」
その言葉は、とてもありがたかった。
ありがたかったのに、胸の奥が少しだけ重くなる。
「……私、いただいてばかり……」
ぽつりとこぼすと、アーネストの眉がわずかに動いた。
「今は、返すことを考えなくていい」
「でも……押しかけて、ご迷惑ばかりおかけして……」
「エリナ」
名前を呼ばれて、言葉が止まった。
アーネストの手が、自然に伸びてきた。指先が、そっと私の頬に触れる。
「今は、休め」
その声があまりに優しくて、胸の奥がきゅっと痛くなる。
私は返事をしようとした。
その前に、グラーフ伯爵夫人の声がした。
「アーネスト。ここには、わたくしも侍女たちもおりますよ」
「……分かっている」
「本当に?」
「……」
アーネストは、ゆっくりと手を離した。
触れられた頬は、まだ熱を持っていた。




